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m14easter2.よみがえりといのち

m14easter2, よみがえりといのち, 2014年イースター修養会主題講義第2講よみがえりといのち御言葉:ヨハネの福音書11:1−44要 節:ヨハネの福音書11:25,26「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」 私たちは、昨日の御言葉を通して、イエス・キリストの十字架の恵みについて、学びました。イエス様は、私たちの罪のために、十字架の上で死なれました。しかし、聖書に記されている通りに、三日目に死者の中からよみがえられました。イエス様のよみがえりによって、私たちの罪は赦されました。そして、長い間私たちを苦しめていた死の勢力から解放されました。セレブレイト ジーザス。主の御名を褒め称えます。 今日学ぶ御言葉は、ヨハネの福音書に出て来る七つの奇跡の中で、一番最後の奇跡にあたります。イエス様は、死んだラザロをよみがえらせることによって、ご自分がよみがえりであり、いのちであることを明らかにされました。誰でも、このイエス様を信じるなら、イエス様のようによみがえる望みが与えられます。この時間、聖書の御言葉を通して、一人一人が、よみがえりであり、いのちであるイエス様を受け入れる中で、復活信仰の上に堅く立てられますように、お祈りします。?.この病気は死で終わるだけのものではない(1―18) エルサレムから3km離れた所にベタニヤという町がありました。その町に、ラザロとマリヤ、その姉妹マルタが住んでいました, 。このラザロが病気にかかりました。危篤状態にあり、生死の境をさまよっていました。一刻の猶予も許されない緊急事態でした。しかし近くには救急病院もありませんでした。その時、マリヤとマルタはどうしたのでしょうか。 3節をご覧ください。「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』」彼女たちには、「イエス様ならきっと直してくださる」という確信がありました。それですぐにイエス様の所に使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」  では、イエス様はどのようにされたのでしょうか。4節をご覧ください。「イエスはこれを聞いて、言われました。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」一般的に病気はつらく、悲しいものです。まして、愛する兄弟ラザロが病気にかかり、死んでいく姿をそばで見ているマリヤとマルタは、どれだけつらい思いをしているのでしょうか。もちろん、イエス様も彼女たちのつらい気持ちを理解してくださいました。彼らを愛しておられるからです, 。しかし、イエス様は神様の観点からご覧になりました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」では、イエス様はどのようにして、神様の栄光を現わそうとされたのでしょうか。 6節をご覧ください。「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」なぜイエス様は、すぐにラザロのもとに行かれず、そのおられた所になお二日とどまられたのでしょうか。3節に出てくる「愛」は、ギリシャ語では「フィレオ」(友情)となっています。マリヤやマルタは、イエス様との関係を、単なる友情としてとらえていました。ところが、5節に出て来る「愛」はそれとは違っていました。ギリシャ語で「アガぺ」、すなわち神様の絶対的な愛で表現されています。ラザロとマリヤ、その姉妹マルタに向けられたイエス様の愛は、条件のない、絶対的な愛、完全なものでした。イエス様は死んだラザロをよみがえらせることによって、彼女たちに「復活信仰」を植えようとされました。彼女たちがさらに一歩、霊的に深い世界に踏み出すことを願っておられました。そのことを通して、イエス様は神様の子の栄光を現わそうとされました。 7節をご覧ください。イエス様は、弟子たちに言われました。「もう一度、ユダヤに行こう。」それを聞いた弟子たちは非常に驚きました。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」弟子たちは、死を恐れていました。死ぬと終わりだと考えているからです。弟子たちだけではなく、ほとんどの人が死を恐れていると思います。しかし、イエス様は違います。 11節をご覧ください。イエス様は言われました。「わたしたちの友、ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」イエス様にとって、死は「眠り」です。それで、使徒パウロは、コリント人への手紙第一15章で、「死んだ」という言葉の代わりに、「眠っている」という単語が使っています。死は恐怖を与えますが、「眠り」は安らぎを与えます。どんなに疲れていても、一晩眠ると、心もからだもリフレッシュします。同様に死は、イエス様を信じる人にとっては、安息となります。 ヨハネ5:24節で、イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」誰でも、イエス様の御声を聞くなら、その人はいのちを受けます。そして死からいのちへ移されます。さばきから永遠のいのちへ移されるのです。それで、私たちは主にあって、死を恐れる必要はありません。?.「よみがえり」と「いのち」, 19節をご覧ください。ラザロの死によって、ベタニヤはひどい悲しみにつつまれていました。愛する人、頼るべき人を失ったマルタとマリヤの心はどうだったのでしょうか。大勢のユダヤ人たちが、彼女たちを慰めるために集まっていました。故人を偲んで、涙を流し、大声を上げて泣いていました。日本では「香典」(お花代)を包みますが、灰色の筆ペンを使います。これは、「悲しみのあまり、涙で墨が薄れてしまった。」という意味があります。生前、あまり親しい間ではなくても、その人が死んでしまうと、悲しむことがエチケットとされています。ところが、マルタとマリヤは違いました。彼女たちは心の底からラザロの死を悲しんでいました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」, 。彼女たちはイエス様に助けを求めたのに、なぜイエス様はすぐに来てくださらなかったのか、と不満をもらしました。私たちも、イエス様に祈ったのに、すぐに祈りを聞いてもらえず、以前よりも状態が悪くなった時に、彼女たちと同じような気持ちになることがあるのではないかと思います。「あなたがいてくれたら、こんなことにはならなかったのに。」では、イエス様は何と言われたのでしょうか。23節をご覧ください。「あなたの兄弟はよみがえります。」深い悲しみと失意の中にいるマルタにとって、イエス様のこの御言葉は、なかなか受け入れがたいものでした。理解できないことでした。それでも、マルタは答えて言いました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」, 。彼女にとって、ラザロが生き返るのは、遠い未来のことのように思えました。彼女は聖書を通して、「復活」を信じていましたが、それが今起こることを知りませんでした。そこで、イエス様は彼女の抱いている復活信仰が確かなものになるように、助けてくださいました。 25,26節を皆さんと一緒に読んで見たいと思います。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。このことを信じますか。』」イエス様は、ご自分がよみがえりであり、いのちであることをはっきりと現わされました。そして、このイエス様を信じる者はみな、誰でもその力を受けると約束されています。 第一に、肉体の復活があります。25b節をご覧ください。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とあります。私たち人間は肉体のからだを持った弱い存在です。けがをしたり、病気にかかったりします。不慮の事故にあって、尊い命を失ったりもします。何気ない言葉によって傷ついたり、相手を傷つけてしまったりもします。何よりも、罪の誘惑を受けて、心ならず罪を犯してしまうこともあります。時には、このような自分のことを考えると、自分が自分で嫌になってくることもあります。しかし、イエス様のよみがえりによって、私たちクリスチャンたちに希望が与えられています。使徒パウロは言いました。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」, ?コリ15, 。私たちが主なるイエス様と共に歩む時、主と共に死にます。主と共に墓に葬られます。そして、主とともに、死者の中からよみがえるようになります。私たちは初穂であるイエス様を仰ぎ見る時に、イエス様のように死者の中からよみがえる望みを持つことができます。そして永遠の都、天の御国に入る望みを持つことができます。私たちが天の御国に入るその日、卑しい、朽ちる弱い体を脱ぎ捨て、栄光ある朽ちることのない、強いものに変えられていくのです。肉体の体を脱ぎ捨て、御霊に属するからだによみがえります, 。 第二に、霊的な復活が起こります。26a節をご覧ください。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。」とあります。もちろん主にあって、死は眠りです。いつかイエス様が起こしてくださるでしょう。それだけではありません。根本的に私たちのからだの中にあるたましいは決して死ぬことはありません。私たちがイエス様と共に歩む生活をする時、多くの苦難、迫害を受けることがあります。イエス様を信じているのに、なぜ苦しみを受けなければならないのか、と疑問に思うことがあります。それは、悪魔が私たちをイエス様から引き離すために妨害しているからです。しかしどんなに迫害されても、苦しめられても、私たちの主に対する思いは決してなくなることはありません。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」, ロマ8, 。私たちが主につながっている生活をしている限り、私たちのたましいは滅びることがありません。マルタはイエス様に信仰告白をしました。27節をご覧ください。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」イエス様はマルタが復活信仰を持つように助けてくださった後、ラザロが眠っている墓に行かれました。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました, 。そこで、イエス様は言われました。「その石を取りのけなさい。」, 。 イエス様の御言葉を聞いて、マルタはすぐに現実の世界に連れ戻されてしまいました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」, 。常識で考えると、それは不可能なことのように思えました。しかしイエス様は、マルタの信仰が確かなものになるように助けてくださいました。40節をご覧ください。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」, 。イエス様の御言葉を信じて、マルタは信仰によって、墓をふさいでいた重い石を取りのけました。その時、イエス様は神様に祈られました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」, 。そして墓に向かって、大声で呼ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」, 。ラザロは、イエス様の御声を聞いてすぐに手と足を長い布で巻かれたままで出て来ました。彼の顔は布切れで包まれていました。イエス様はマルタとマリヤの姉妹のもとに、ラザロを帰らせてくださいました。悲しみと絶望が喜びと希望に変えられた瞬間でした。この日、ユダヤ中に賛美が満ち溢れました。この時間も、イエス様は言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 私は、一昨年前の会社での健康診断で「逆流性胃炎」と診断されました。ちょうどそのころから右目の様子がおかしく、パソコンの画面がかすんで見える日が続きました。そして毎年、この時期になると、ひどい花粉症に悩まされていました。このような状態の中で、イースター礼拝のメッセージを準備して証しすることに、少しためらう気持ちもありました。その頃、パソコンの画面がかすんで見え、仕事に支障をきたし始めました。その時、マリヤ宣教師から医者に行くようにと言われました。それで、意を決して、眼科で受診した結果、右目は末期の白内障で手術が必要であり、左目も初期の白内障であると診断されました。最初状況がうまく飲み込めず、放心状態になりました。あまり実感がわきませんでした。ところが、「手術」という言葉に、絶望するしかありませんでした。自分がそんな深刻な病気にかかっていたなんて、到底信じられませんでした。し、状況をうまく説明できませんでした。それでも、神様の憐れみが私の上に臨まれました。この2−3年の間、私は左目だけで生活したことになりますが、特に、これといった支障もありませんでした。それで私が白内障の手術を受けるようになったことを会社に話した時、会社の人々はみな驚いていました。「よく仕事ができるね。」「大丈夫」 また、神様はヤコブの手紙5:15節の御言葉で、私を力づけてくださいました。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」そして今この時間も、神様は私の祈りを聞いてくださることを信じ、確信するようになりました。すると、神様は私の心を強くしてくださいました。どんな時にも、心から神様を賛美できるように助けてくださいました。6月の中旬には、手術を受ける予定ですが、そのことを通して、メッセージを証しするのに、支障がないように助けてくださいました。 よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今この時間も私と共にいてくださいます。イエス様の奇跡は今でも起きると信じています。このイエス様に頼る時、恐れや不安がありません。今よりもよく見えるようになるという望みがあるだけです。そのことを思うと喜びで満たされるようになります。イエス様はまず、閉ざされていた私の霊的な目を開いてくださいました。そして肉体の目も開いてくださることを信じ感謝します。私によくしてくださったイエス様の御業を証しで来ますように、お祈りします。もう一度、25、26節の御言葉を皆さんと一緒に読んでみたいと思います。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今も私たちのうちに、語りかけてくださいます。そしてこのイエス様を信じる者は、だれであっても、死の勢力から抜け出し、永遠のいのちへと移って行きます。死の勢力に打ち勝ち、喜びで満たされる人生を過ごすことができます。この時間、一人一人が復活信仰の上に堅く立ち、喜びに満ち溢れる人生を歩んでいくことができるように祈ります。「唄おう声を合わせてイエスを祝うために勝利に胸躍らせイエスの誉れを見よイエスは, よみがえられた輝くその姿喜び賛美しようとこしえまで共におられる主イエスを

14Genesis8M 人類の歴史とバベルの塔

14genesis8m, 人類の歴史とバベルの塔, 2014年創世記第8講人類の歴史とバベルの塔御言葉:創世記9, 18−11, 26要, 節:創世記11, 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」先週、私たちは大洪水の後に箱舟から出たノア、ノアに与えられた契約のしるしについて学びました。神様はご自分が創造した世界ですが、人が肉に過ぎないほどに堕落した時、大洪水によってさばかれました。でも愛と希望の神様は地球を完全に捨ててしまうことはなさいませんでした。地球という本体を壊さなかったのです。大洪水の後、かわききった地をリカバリします。箱舟から出て来たノアの家族を通して新しい人類の歴史を始められるのです。ではどのようにして人類の新しい歴史が始まったでしょうか。また、どのようにして人類に異なる言語が存在するようになったでしょうか。ここで、私たちはなかなかなくならない人間の罪、人間の高慢をさばかれる神様について学ぶことができます。?.新しい人類歴史(9:18−10:32) 9章18、19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」とあります。ここで、私たちはノアの3人の息子たちから全世界の民は別れ出たことが分かります。この3人はどのような人格を持っていましたか。 20、21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」 ここにはノアの失敗が記されてあります。酔っぱらって裸になっていることは醜態です。ぶどう畑で働く農夫だったノアがぶどう酒を飲むことは自然なことでしょう。ぶどう酒を飲んだことには問題がなかったと思います。ところが酒を一杯、二杯と飲んでいくうちに酔ってしまいました。判断力を失い、裸になっていました。これは本当に恥ずかしいことでした。だれにも見られてはいけないような姿です。ではこのノアの醜態に対する息子たちの反応はどうでしたか。 22節をご覧ください。「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。ここで「告げた」ということは嘲笑したことです。ハムは裸になっている父の醜態を見て嘲笑ったのです。「あれが信仰人の姿なのか。」と軽蔑しました。それに対し、セムとヤペテはどうしましたか。23節をご覧ください。「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」とあります。彼らはハムを通して父の恥ずかしい行動が分かった時に嘲笑いませんでした。そのままにして置くこともしませんでした。彼らは父の醜態に後ろ向きとなって行動しました。しかも、彼らは父の裸をおおいました。彼らは顔をそむけて、父の醜態を見ませんでした。彼らは父の弱さに同情し、父の恥をかばってあげたのです。これは息子として当然なことです。子どもは父を尊敬し、父の弱さをかばわなければならないでしょう。父親だけではなく、人の弱さに付けこむことはよくありません。私たちクリスチャンは神様の愛によって弱い人の手助け、フォローし、味方をするように気をつけていなければなりません。吉野弘さんの祝婚歌の中に「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい。」とあります。ほんとうにそうだと思います。ハムが「ノアが裸になっている」と告げるのはウソを言ったのではありません。正しいことです。でもそれが見られたことで恥かしく思う人を傷つけやすいものだと気付いていなければならないのです。ところが、そういう人より人の弱さに付けこむ人が多いです。人間は自分が完璧でもないくせに、他人には完璧な行動を要求します。他人の欠点、弱点をすぐに暴き立てようとします。 時々私は本屋で立ち読みをしていますが、週刊誌の記事はほとんどが告げ口です。人の失敗や弱さに同情し、かばってあげるような記事はほとんどありません。人の罪と失敗さらけ出して辱めようとしているような感じです。それはほとんどの人々が人のうわさや告げ口に興味を示すからでしょう。このような世の中で自分だけが人の弱さをかばい助けることはやさしくありません。人々の多くは強いものには良くあわせ、弱い者には厳しくなる傾向があるからです。しかし、私たちクリスチャンだけでも、人の弱点や欠点をすぐに暴き立てるようなことをしないように気をつけているべきだと思います。なぜなら私たちを愛しておられる神様の愛は多くの罪をおおうからです。ハムのように、人の罪と咎をあざ笑うものではありません。神様の愛は、セムとヤペテのように人の弱さをかばい助けることです。聖書に「愛は多くの罪をおおうからです(?ペテロ4:8)。」とあります。また、聖書に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストのうち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(?ペテロ2:24)」とあります。神様は私たちの罪と咎をさらけ出すようなことをなさいませんです。罪に定めない愛によって私たちの罪と咎をおおってくださいました。イエス・キリストはご自分の十字架の死によって私たちのすべての罪と咎を担ってくださったのです。私たちがセムとヤペテのように神様の愛を実践して行きますように祈ります。人の弱さを咎め立てるのではなく、人のために祈り、その弱さをかばい助ける愛の人に変えられて行きますように祈ります。10章はノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史です。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれました。最初にヤペテの子孫が書かれています。彼らは主にヨーロッパに住んでいる民族になりました。特に5節をご覧ください。「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」とあります。この表現が10章に何度も記されてあります。当然なことですが、ノアの3人の息子は同じ言語を話していました。ですから、その子孫も一つの民であり、一つのことばを話していたのです。そのまま、続いてきたらどんなに良かったでしょうか。ところが、残念なことに、11章を見ると分かるようにそのまま、続くことができませんでした。6節から20節まではハムの子孫が書かれています。ノアはハムを呪われましたが、彼の子孫の中から神様に反抗する動きが出ます。ハムの子孫の中ではニムロデに焦点が当てられています。10章8、9節をご一緒に読んでみましょう。「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。」「ニムロデ」とは、「反抗者、敵対者」という意味です。彼は地上で最小の権力者、力ある猟師ですが、学者たちはこのニムロデが中心になってバベル等を建てたと言っています。10節に「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった」とありますし、12節に大きな町を建てたことが記されてあるからです。ハムは父ノアに反抗的になっていましたが彼の子孫の中に反抗的であり、高慢なニムロデが生まれていることが分かります。私たちの人格が私たちの子孫に影響を及ぼすことが分かります。実際にセムの子孫からは信仰の先祖アブラハムが生まれます。そしてアブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれます。今の私の信仰と人格が私の子孫にも影響を及ぼすのです。私たちが自分からでも人の弱さに付けこむのではなく、すべての罪と咎をおおい助けることができるように祈ります。そうすると私たちの子孫にも良い影響を及ぼすことができるようになります。最後に、21節から30節までにセムの子孫が列挙されています。神様は、この子孫から救いのみわざを行われます。21節に「セムはエベルのすべての子孫の先祖であって」と記されてありますが、ここの「エベル」から「へブル」という言葉が出てきています。ここからイスラエル人はよく、「へブル人」と呼ばれているのです。以上が、その国々にいるノアの子孫たちの歴史です。大洪水の後にこれから、諸国の民が地上に別れ出たのです。これが10章の要約です。そして、どのようにして諸国の民が地上に別れ出るようになったのかについて記されているのが11章です。?.バベル塔(11:1−26)11章1、2節をご覧ください。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ニムロデが王国を立てたシヌアルの地に、人々は定住しました。そこで、彼らは互いに言いました。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは建築に石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いました。瀝青とはアスファルトのことです。レンガとアスファルトの開発は、当時として革命的な技術でした。レンガとアスファルトを用いると天の頂までの高層ビルを建てられるという確信を持つようになりました。そこで、彼らは一階、二階、レンガを積み上げて行こうとしました。では、なぜ人々はそれほど高い塔を立てようとしたでしょうか。それは人々の心にノア時代の大洪水に対する不安があったからだと思います。2011年3月11日に想定外の津波を経験した日本が不安になって想定外も想定していることと同じです。彼らは洪水が起こっても自分たちの町を守る方法を考えました。そこで彼らは天まで届く塔を立てようとしたのです。また、シヌアルの地に快適な街を作ったので、今までの生活が変わることを恐れました。バラバラに散らされてしまうと、新しい土地を開拓して生きて行かなければなりません。来週、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に派遣する礼拝をささげますが、新しい土地を開拓して行くことは決してやさしくありません。だから、人々は散らされてひとりぼっちになることを恐れ、みんなが塔の周りに集まって住もうとしたのです。特に、彼らはレンガとアスファルトという革命的な技術によって高ぶっていました。自分たちの力でユートピアが現実になると思ったようです。そうして彼らは神様の命令に背きました。神様はノアとその家族に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と命じられました。ところが、その子孫は、この祝福の命令を「散らされる」と否定的にとって、故意に神様の命令に背いてしまったのです。そこで、主は、彼らをさばかれます。5, 8節をご覧ください。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられる事はない。さあ、降りていって、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」とあります。先ほど話しましたが、今もなお全世界が一つの民として一つのことばで話すならどんなに良かったでしょうか。私たちは外国語を学ぶ必要がなかったのです。すべての人が日本語、あるいは韓国語だけを使うならどんなにいいでしょうか。英語勉強をしなくてもいいし、英語のためにストレスを受けるようなこともありません。ところが、バベルと言う町において、人間が高ぶって神様に反抗したので、神様は彼らの言葉を混乱させました。そのため、ノアの3人の息子から出て来た子孫は、違う言葉を話すようになりました。異なる民族を形成するようになりました。9節をご一緒に読んでみましょう。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」 この混乱は、ヘブル語で、「バラル」と発音するそうです。すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたのでばらばらに散らされて行きました。結局、シヌアルで人間が自分の力で自分を守り、自分の名を有名にしようと建て始めたバベルの塔は失敗しました。ここで、私たちは大切な教訓を得ることができます。私たちのうちにもバベル塔を建てようとする野望があるからです。ノンクリスチャンと比べれば素朴に謙遜に生きていると思われるかも知れません。でも、私たちのうちにもシヌアルの人々のような心の持ち主がいあるでしょう。ような東京の平地で安定的な生活をしながら地位も名誉もある生活をしたがる要素があるのではないでしょうか。年の初めには「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えよう」と決心しましたが、いつの間にか、霊的な望みよりも現実的な生活に縛られている時はないでしょうか。自分のためにいろいろ計画を立てて自分の力で一階、二階…とバベル塔を建てあげて行くのです。神様に頼って祈り求めるのではなく、自分の知恵を尽くして自分の計画、自分の目標に向かって行くのです。私たちは日々謙遜に神様に頼って祈り、洪水以前のノアのように神様とともに歩んでいるでしょうか。シヌアルの人々のように自分の力でバベル塔を建てているでしょう。神様がご覧になっておられます。そして、決定的なときに神様は降りて来られます。ノアのように救われるか、シヌアルの人々のようにバベル塔が倒れ、混乱してしまうかは私たちが神様の御前でどのような態度で生きているかにかかっています。、先週、日ごとの糧を通してアサ王を通して謙遜と傲慢の結果をはっきりと見ることができました。アサ王の人生の朝は非常に良かったんです。彼は人生の朝にその神、主に叫び求めていました。心を尽くして主を求めました。すると神様は彼に平安をくださいました。彼に勝利をくださいました。預言者を通して彼が信仰によって生きるように激励してくださいました。彼に会ってくださいました。彼だけではなく、彼の回りにも平安をくださいました。しかし、彼が祝福されて安定した時、祈る代わりに、主の祝福によって与えられた主の宮と王宮の宝物倉から銀と金を取り出してアラム王に送り届けて人の助けを求めると彼の国に悲劇が始まりました。神様は予見者ハナニを通してアラムを鳴らし、悔い改める機会を与えましたが、その時も悔い改めませんでした。結局、彼は両足とも重い病気にかかって死にました。傲慢は滅びに行ったのです。結局、私たちが神様に祝福されてどこに行っても勝利することは常に謙遜になっていることです。ハムのように人の失敗を指摘し、正しさを主張する前に謙遜になって人の弱さも失敗もかばい助けるのです。神様の祝福によって安定的な生活ができる時に気をつけるべきは傲慢になってバベル塔を建てることです。もちろん、自分の力でもいろんなことができるでしょう。スカイツリーよりも高いビルを建てることもできるでしょう。私たち人間にはそういう力があります。でも、私たちが傲慢になっていると、神様はどう思われます。神様はこの地に下りて来られ、混乱させます。すると、傲慢は滅びに至ります。神様がバベル塔を建てようとして人々を混乱させましたが、それでも人間に対する希望は捨てませんでした。神様は決して人間にあきらめたりされませんでした。神様は、民族として互いに分れてしまった人間を、どのように祝福されるか考えられました。そこで、神様は、まったく新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられたのです。神様により頼み、神様に仕える民族を生み出し、世界に散らされた民族を、その新しい民族によって祝福する計画を立てられました。それが、イスラエルであり、そのイスラエルの先祖がアブラハムです。26節をご覧ください。神様は、セムに与えられた祝福のことばを、このアブラハムによって実現されます。このことは来週から学びます。どうか、今日の御言葉を通して神様の愛を実践する者、謙遜に神様に頼って生きる者として変えられて行きますように祈ります。私の子孫に良い影響を及ぼすことができる人格を形成して行きますように祈ります。

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14X-mas1.神様に見捨てられたイエス・キリスト

mas1, 神様に見捨てられたイエス・キリスト, 2014年クリスマス特集1, 私たちを救うために、神様に見捨てられたイエス・キリスト御言葉:マタイの福音書27:11−66要 節:マタイの福音書27:461.イエス様は、ピラトの尋問とユダヤ人たちの告訴に対して、どのようにされましたか, 。ピラトはなぜ、イエス様を釈放しようとしましたか, 。しかし、群衆はピラトに、イエス様をどうするように、求めましたか, 。2.結局、ピラトはどんな判決を下したのですか, 。イエス様は、どのようにあざけられましたか, 。総督の兵士たちは、誰に、イエス様の十字架をむりやりに背負わせましたか, 。3.イエス様は、なぜ苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうと、されなかったのでしょうか, 。兵士たちはイエス様を十字架につけてから、何をしましたか, 。イエス様の頭の上には、どんな罪状書きが掲げられましたか, 。4.人々は、何と言って、イエス様をののしりましたか, 。十二時から三時まで、全地はどのようになりましたか, 。イエス様は、何と言って叫ばれましたか。それを聞いた人々は、どんな誤解をしましたか, 。イエス様はなぜ、神様から見捨てられなければならなかったのでしょうか, イザヤ53, 。5.イエス様が息を引き取られた時、神殿ではどんなことが起こりましたか, 。その出来事には、どんな意味があるのでしょうか, ヘブル10, 。そして、地上ではどんなことが起こりましたか, 。6.百人隊長はどんな告白をしましたか, 。誰が、イエス様の死を、見守っていましたか, 。アリマタヤのヨセフは、イエス様のために、何をしましたか, 。宗教指導者たちはなぜ、番兵にイエス様の墓の番をさせたのでしょうか

14Genesis17M わたしがあなたに示す地に住みなさい

14genesis17m, わたしがあなたに示す地に住みなさい, 2014年創世記第17講                           わたしがあなたに示す地に住みなさい御言葉:創世記25, 26:33要 節:創世記26, 「主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」先週、私たちはイサクの結婚について学びました。イサクは非常に美しく処女で、男が触れたことがなかった信仰の女性リベカを迎え入れて愛しました。リベカは信仰あるイサクの妻となって愛される幸せな結婚生活を始めました。ところが、そのイサクの家庭も試練がありました。リベカが不妊の女であったために20年間も子どもを産むことができませんでした。ききんの時は経済的な問題、リベカを失われる危機もありました。神様の助けによって問題が解決され、祝福されると、地域の人々から妬まれる問題もありました。ではイサクとリベカはこれらの問題をどのようにして克服したでしょうか。また、どのような信仰生活をしたでしょうか。この時間、アブラハムが地上での最後に果たした任務、イサク夫婦の信仰生活を学びたいと思います。?.平安な老年を迎え、長寿を全うしたアブラハム, 25章1,2節をご覧ください。「アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。」とあります。今までの流れから考えると、イサクが結婚してからアブラハムは再婚したのかなあと思われます。すると、サラの死後、アブラハムは140歳ごろに再婚して6人の子どもを設けたことなります。しかしそれは無理だと思われます。なぜなら、すでに100歳の時に「自分に子どもが生まれようか」と笑った人だからです。それで、調べてみると、歴代誌第一1章32節に「アブラハムのそばめケトラ」とありました。ケトラはアブラハムのそばめなのです。そして、6節に「アブラハムのそばめたちの子ら」と書いてあります。従ってケトラはアブラハムのそばめたちのひとりだったと思います。アブラハムは、自分の子イサクのためにそばめたちの子どもたちを東に去らせ、イサクから遠ざけました。それによってアブラハムはこの地上での最後の任務を果たします。5, 6節をご覧ください。「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。アブラハムは自分の全財産を相続者であるイサクに与えまし。しかし、そばめの子どもたちには贈り物を与えてイサクから遠ざけました。アブラハムはそばめの子どもたちからイサクを守るために意図的に彼らを遠ざけたことでしょう。このようにしてアブラハムはイサクが腹違いの兄弟たちから邪魔されることなく神様の祝福を受け継ぐことができるようにしました。では、アブラハムの最期はどうですか。8節をご覧ください。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。ここで「長寿を全うして」と訳されている言葉は、「十二分に満たされて、満足して」というのが直訳だそうです。つまり、「神様がその人のために計画なさったことが全て満たされて、それゆえに十二分に満足してアブラハムは死んだ」ということです。そこで、イサクとイシュマエルは父アブラハムをサラが葬られているマクペラのほら穴に葬りました。以上で、私たちはアブラハムの信仰生活100年間を学んで来ました。その中で私たちは偉大な信仰者としてのアブラハム、弱い人間としてのアブラハムの両面を見ることができました。彼の生涯は決して完全ではありませんでした。失敗もたくさんありました。奥さんを悲しませることもありました。軟弱な面もあるアブラハムでした。だから、私はこのアブラハムから何度も何度も慰められ、励まされて来ました。アブラハムが「すべて信じる者の父」であるからこそ、弱い私たちであっても神様を信じていれば天国へ行くことができます。天国でアブラハムに出会います。その時に私はアブラハムと握手しながら「あなたのお蔭さまでここまで来ました。」と挨拶したいと思います。神様がアブラハムを通して弱くて足りない私たちでも天国に行ける信仰生活を教えてくださったことを心から感謝します。?.祈りによって問題を解決したイサク, 19, 34, 19、20節をご覧ください。アブラハムの子イサクの歴史が始まります。イサクは四十歳でリベカと結婚して誰が見てもうらやましく思えるような夫婦になりました。アブラハムから全財産を与えられたイサクは金持ちです。就職活動もいらない、毎月家賃を払わなくてもいいし、家にはしもべたちもいます。リベカは美人だったし、内面性のある奥さんでした。誰が見ても幸せな夫婦に見えたことでしょう。私たちの中でもそのように見える夫婦がいるでしょう。職場は安定しているし、知力も霊力も体力も優れている旦那さん、美人で内面性の奥さんのように見える夫婦がいるでしょう。「あの家庭なら何の問題もないでしょう。」と言えるような家庭もいるのです。しかし、ほんとうに何の問題もない家庭があるでしょうか。幸せに生きているように見える家庭でもさまざまな問題があるし、試練もあります。イサクの家庭も例外ではありませんでした。彼の家庭にも試練がありました。一つ目の試練は子どもが生まれなかった問題です。リベカが不妊の女であったからです。幸せな結婚をしたしても子どもが生まれないと大きな問題になります。今日のような母の日になると、イサク夫婦はどんなに寂しかったでしょうか。20年間も子どもが生まれなかったことは、ほんとうに大きな試練の連続だったでしょう。ではどのようにしてこの試練を乗り越えることができたでしょうか。21節をご一緒に読んでみましょう。「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」イサクは自分の妻のために主に祈りました。問題はリベカにありました。不妊の女だったからです。でもイサクは妻のせいにしませんでした。つぶやくこともしませんでした。多くの夫たちは家庭に問題が発生すると、自分の問題さえ妻のせいにします。小さな事でも責任転嫁するから夫婦喧嘩したり、離婚したりします。しかし、イサクは自分の妻のために主に祈願したのです。しかも20年間、神様に祈り続けました。彼は健やかな時も、病んでいる時も妻を愛し、自分の妻のために主に祈願したのです。ついに神様は彼の祈りに答えられ、彼の妻リベカはみごもりました。神様はイサクの祈りに答えたのでリベカはみごもったのです。それも双子をみごもりました。夫の祈りに力がありましたね。ここで私たちは問題解決のカギは祈りであることが分かります。あきらめない祈りです。皆さん、20年間も祈り続けている祈り課題があるでしょうか。自分の妻のために主に祈願していることがあるでしょうか。神様は私たちがイサクのようにあきらめないで祈り続けることを望んでおられます。イエス様もルカの福音書の18章であきらめない祈りを教えてくださいました。ひとりのやもめがあきらめないで願い続けた時に不正な裁判官でさえ願いを聞いてくれたことを通していつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えてくださいました。それから「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。, 」と言われました。神様が私たちの祈りをいつまでも放っておかれることはありません。神様は私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが少々あつかましい祈りをささげても神様はそれを聞いていてくださいます。先週学んだエリエゼルのように、イサクのように具体的に祈るなら神様が答えてくださいます。ただ、答えられるのは神様の時です。エリエゼルは祈りがまだ終わらないうちに答えられました。イサクは20年間の祈りが答えられました。従って、祈りにおいて大切なのはあきらめないこと、失望しないことです。イサクのように失望しないで祈り続けるなら、神様が答えてくださいます。そして、私たちは祈る生活を通して問題を解決していただくだけではなく自分自身が信仰の人として成長して行きます。今日の本文でも26章を見ると、イサクはとてもほんとうに成熟した信仰の人として用いられています。彼は祈ることを通して祈りの人、信仰の人として成長し、成熟して行ったのです。イサクは自分の妻のために祈ったのですが、今度はリベカも祈るようになりました。22節をご覧ください。子どもたちがリベカの腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言いました。そして主のみこころを求めに行ったのです。今度は自分が自ら主の御心を求めに行ったのです。すると、主は彼女に仰せられました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」とあります。リベカが祈る時に神様の御声も聞くことができました。生まれて来る子どもの将来も知ることができました。ですから、私たちは家庭の中に問題がある時、イサクやリベカのように祈ることが大切です。イサクとリベカは祈る夫婦でした。祈る家庭に神様の祝福と恵みが臨まれます。夫婦が祈ると子どもの将来も見えて来ます。神様が祈りに答えてくださるからです。もし、自分の信仰生活に祈りが忘れられている方はいないでしょうか。霊的に危機であることを自覚してください。信仰生活に赤信号です。祈らない教会があるなら、その教会も危機であると言えるでしょう。私たちは祈りを休むような罪を犯さないように気をつけましょう。どうか、イサクのように、リベカのように祈り続ける祈りの人として生きるように祈ります。二つ目の試練は経済的な問題でした。26章1節をご覧ください。さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがありました。ききんがあったことは経済的な問題があったことです。今の言葉で言うならリストラされたり、自己破産したりしたことでしょう。裕福な生活をして来たイサクとしては飢饉に耐えることがとても難しかったと思います。それで彼はゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行きました。そこからイサクはエジプトに下ろうとしたと思われます。ゲラルはエジプトに行くための国境の付近です。その時、主はイサクに現われて仰せられました。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」イサクがききんの時にその地に住むこともやさしいことではありませんでした。しかし主が示される地、主の御心の地が最善の地です。神様が示されるその地に住むならどうなりますか。3,4節をご一緒に読んでみましょう。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムに与えてくださった祝福と同じ祝福をイサクに約束されました。神様がイサクを祝福する理由は第一に、アブラハムに誓った誓いを果たすためにです。アブラハムは死に、歳月は流れました。しかし、主の約束は変わることがありません。人が変わっても、主は真実にその誓いを守られます。第二に、アブラハムが神様の御言葉に聞き従ったからです(5)。これを見ると、私たちがアブラハムのように信仰によって生きると、神様は私たちだけではなく、私たちの子孫も祝福してくださることがわかります。では、イサクは神様の御言葉に対してどのように反応しましたか。6節を見ると「イサクがゲラルに住んでいるとき、」とあります。つまり、彼は神様の約束の御言葉に聞き従いました。すると、神様は約束の通りに彼を守り、祝福してくださいました。まず、弱いイサクの問題を助けてくださいます。彼がゲラルに住んでいる時のことです。彼はリベカのことでその地の人々から殺されることを恐れて自分の妻を妹ですと言ってしまったのです。彼は父アブラハムが二度も犯した同じ失敗を犯してしまいました。ほんとうに恥ずかしいことです。ところが、神様はそんなイサクであっても彼を無視して捨てるようなことをなさいませんでした。むしろ彼を守ってくださいました。ある日のことです。アビメレクはイサクがリベカを愛撫しているのを見て二人が夫婦であることが分かりました。そこでアビメレクは自分の民たちに「リベカに触れる者は、必ず殺される。」と命じて守ってくださいました。それだけではありません。彼の経済的な問題を解決してくださいました。彼を祝福してくださったのです。12、13節をご覧ください。「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。飢饉の時に百倍の収穫を見たことは考えられないことです。しかし、神様には不可能なことがありません。普通には考えられないほどに祝福してくださることができるお方です。私たちはこの神様の祝福を信じるべきです。私たちが神様の祝福を信じて神様の御言葉に聞き従う時、一時的に損するかのように思われる時もあります。しかし、結局は神様によって祝福された人生を送るようになります。?.愛と信仰によって試練を克服し、良い影響を及ぼしたイサク, 神様の祝福によって非常に裕福になったイサクは人々から妬まれるようになりました。人は地位が上がったり、祝福されたりすると妬まれることもあります。イサクはペリシテ人から妬められました。彼らは父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしました。その地方で井戸は非常に大切なものです。井戸を掘るのは大変な苦労があります。ですから、井戸を譲ることは当時難しいことでした。しかし、イサクは苦労して掘った井戸を何回も譲りました。譲ることばかりしているイサクのことを考えると腹が立ちます。イサクは弱虫のように見えます。それでは本当に彼が弱くてもそのように井戸を譲ったのでしょうか。彼は栄えて、非常に裕福になっているし、多くのしもべたちも持っているのを見ると、決して力がなくて譲ったのではありません。彼が井戸を譲ったのは、神様がベストの道に導いてくださることを信じたからです。また、隣人を愛する愛があったからです。彼はすべてを主にゆだねました。そして、人々を憎まずに、自分がやれることをやって行きました。すると、ついに争いがなくなり、イサクは「今や、主は私たちに広いところを与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(22)と言いました。主に信頼する者に主は平安と勝利と祝福を与えてくださいます。結局、イサクは不信者達にどんな信仰の影響を及ぼしましたか。26節をご覧ください。ペリシテ人の王アビメレクは友人アフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来ました。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちです。ところが、彼らはイサクに何と言いましたか。28節をご覧ください。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」29節では「あなたは今、主に祝福されています。」と言いました。地域の人々に良い影響を及ぼしていることが分かります。これはイサクの愛と信仰による勝利です。ローマ12:21には次のように記されています。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」アビメレクはイサクと契約を結ぶことを提案します。それは主がイサクとともにおられたので、彼に恐れを感じたからです。それで平和条約を結びました。信仰によって生きる時、主は私たちを祝福してくださいます。祝福されると、人々から妬まれることもあるでしょう。それでも、彼らを愛し続けるなら、神様の栄光を現わし、良い影響を及ぼすことができます。その時、人々は私たちを見てこう言うでしょう。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。私もあなたが信じている神様について知りたいと思います。」どうか、私たちが信仰生活の中でも問題が発生し、試練もあることを認識し、そう言うときこそ神様に祈り続けることができるように祈ります。祝福された時に人々から妬まれても人々を赦し、愛し続けることもできるように祈ります。こういう信仰生活を通してノンクリスチャンの間に主の御名があがめられるように祈ります。

14Genesis2M 人をご自身のかたちとして創造された神様

14genesis2m, 人をご自身のかたちとして創造された神様, 2014年創世記第2講, 張パウロ,                                  人をご自身のかたちとして創造された神様御言葉:創世記, 3要 , 節:創世記, 「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 」,  みなさんは東京スカイツリーにのぼったことはありますか。日本が誇る世界で一番高い電波塔!!東京スカイツリーは日本の建築技術の集大成ともいわれている構造物です。人々はその電波塔のスケールと雄大な形に感動します。しかし、これを誰がつくったのかを知る人は意外にも少ないです。東京スカイツリーは、事業主の東武鉄道、設計者の日建設計、施工者の大林組が一体になってつくりあげた傑作品です。日建設計は社内で東京スカイツリーのデザインを決定させるために、社内でコンペを開きました。その中で、いい案を絞って事業主の東武鉄道と何度も打ち合わせをしました。電波が阻害されにくく、地デジ放送の他に、ワンセグやマルチメディア放送といった携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにすることが建設目的とされました。この建設目的に沿って、今の場所で今の形の東京スカイツリーになりました。また、高所での風の影響や強い地震などに耐えられるよう関係者が知恵を出し合って丈夫で素晴らしい傑作品が誕生しました。しかし、この世において一番の傑作品は、人です。なぜならば、人は神のご自身の形として創られた、唯一の被造物だからです。これは、人が動物や他の被造物とは違う存在で、神様と特別な関係にあるという証拠です。そして、神様は、人に他の被造物や自然界を支配せよという重要な使命(ミッション)を任されました。私たちが、本文のメッセージを通して、神様にかたどって造られた人としての存在価値と存在目的を学び、神様が喜ばれる生き方ができるように祈ります。26節をご覧ください。“神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」”, 神様が人を造られた時は、他の被造物とは違う点があります。まず、神様が複数形になっており、互いに相談された点です。人は貴重な存在なので、最高に良いかたちとしてつくるために、三位一体である神様、イエス様、聖霊様が相談されました。もう一つの違いは、神様のかたちとして、神様に似せて、私たち人間をつくられた点です。他の被造物は神様が御言葉だけでつくられましたが、私たち人間は、神のかたちをもった特別な存在としてつくられたのです。, それでは、神様のかたちとは、いったいどのようなものでしょうか。神様は、人間と同様な外面的な形をしているのでしょうか。この箇所は、神学者の中でも議論が絶えない難しいところです。しかし、私たちが聖書全体をよく理解すると、神の形というものがどんなものなのか浮かびあがると思います。神のかたちとは目に見える外形よりは神の品性を指しています。それでは、人間は、どんな点で神様のかたちに似ていますか。先ず、人がもっている神様のかたちの一つは、霊です。人は、肉体と理性の意外に霊を持っています。人間は霊的な存在です。ヨハネの福音書4:24節では、“, 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。”と書いてあります。私たちは、霊によって神様に礼拝することができ、祈ることができます。聖霊の感動により、この世が御言葉によってつくられたことが判ります。また、聖霊により自分がアダムの堕落した罪の本性をもっていること、イエス様の十字架の血潮だけが私たちを永遠の滅びから救うことができることも悟るようになります。人間は、この世でどれだけ贅沢で良い生活を送ることが出来ても霊的に満たされないと, 根本的に喜びを感じることはできません。ヨハネの福音書3章を見ると、二コデモというユダヤ人の指導者がいました。彼は、バリサイ人として神様の律法に詳しく、世の名誉や富をも得ていました。しかし、御霊によって生まれ変わっていなかったとき、彼の人生は空しく、喜びがありませんでした。  サマリアの女は、5回も結婚を繰り返しながら男の愛をもとめました。しかし、彼女の心は喜びで満ちているところか渇ききっていました。こんな彼女が、真の礼拝の対象であるイエス様に出会ったとき、聖霊の体験をして喜びで満たされるようになります。これは、神の愛を体験できたからです。私たちが聖書を読むと感動し、祈るときに胸が熱くなって主に感謝をささげることができるのは、聖霊との交わりがあるからです。次に、神のかたちとして考えられるのは愛です。人はいつ、大きな幸せを感じるでしょうか。それは、金持ちになったときでも、有名(名誉)になったときでもありません。人は愛するときに一番幸せを感じます。他人が大きな悲しみや困難にあったときに、わたしたちは心を痛め、助けようとします。2011年の東日本大地震の爪痕で、多くの人が悲しみの中にいたとき、世界中の人々は精一杯義援金を集めました。家族や家をなくした人のために現地に駆け付けて炊出しをしたり、あらゆる方法で慰めた人も少なくありません。去年、フィリピンが台風で甚大な被害を受けた時には日本UBFでも昨年クリスマス礼拝に彼らのために心をこめて献金しました。人間の愛も素晴らしいですが、神様の愛はわたしたちの想像を超えます。神様は、ひとりごイエス様を十字架の上で死なせるほどに私たちを愛してくださいました。イエス様は、あなたを捨てて死なせようとした人たちを愛しました。イエス様を苦しめ、釘づけた兵士はもちろん、宗教指導者、群衆のためにイエス様は祈りました。, “父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。”, わたしたちがこのイエス様の愛を受け入れるとき、真実に愛することができます。また、人はどんな点で神に似ていますか。感謝することが出来る点も人でしかできないことです。感謝する気持ちは、人々に感動に与えます。この他に知性、感情、自由意志と良心があり、創造活動をし、言葉をもって議論することも神様に似ている人間の大きな特長と言えます。28節をご覧ください。“神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」”神様は、人を観賞用としてつくられたのではありません。人にはっきりとしたミッションを与えてくださいました。ひとつ目は、生きている間、子供を生み、子孫をたくさん増やすことです。そして、神様が造られた自然界と生き物を支配するように命じられました。“支配せよ”という命令は、生き物の上に立ちなさいという意味ではありません。被造物を、使命感をもってよく管理せよという意味なのです。管理者には、オーナーである神様が委託されたすべてを忠実に管理することが求められます。ホテルの支配人のような役割です。神様は自然界や動物などの生き物をうまくマネジメントするように全権大使として人をたてられました。現代を生きているわたしたちは、神の被造物をよく管理しているのでしょうか。人たちは20世紀に入って経済成長を目標に掲げて無慈悲な開発に走ってきました。その結果、自然界は人間に怒りを発しています。地球温暖化、集中豪雨や砂漠化によって、地球は悲鳴をあげています。そして、人間がつくりあげた文明に警告しています。私たちが再び“地を従えよ、生き物を支配せよ”という神様の御言葉に耳を傾け、神様のつくられた被造物をよく管理できるように祈ります。イエス様が来られた新約時代には、新しいミッションがあります。福音を知らないまま罪とくらやみのまみれになっている人たちにいのちの御言葉、福音を宣べ伝えることです。今年、東京UBFの新年のメッセージでも神様は命じられました。“みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”(?テモ4, 2)今年もいままで以上に日本の霊的な環境は良くないかもしれませんが、わたしたちが時が良くても悪くてもしっかり御言葉を宣べ伝えるように祈ります。神様は、私たちにミッションだけを与えたではありません。29、30節をみると、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木を人とすべての生き物の食物として与えたことがわかります。人々は最初のころは、草食をするようにつくられたことがわかります。肉食をするようになったのは、アダムが罪を犯した後のことです。神様は、わたしたちに種類にしたがって、野菜と果物などを足りないことのないように用意してくださいました。創造の原理から考えても加工食品より、新鮮な野菜や果物などを種類にしたがって摂取することが健康の素となります。31節をご一緒に読んでみましょう。“神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日”, 神様は、最後に人間をつくられた後、すべてのものをご覧になってすごく感動しました。 “見よ、それは非常によかった” わたしたちは神様から見るに非常に良い存在です。誰ひとり、良くない存在はいないのです。日本人も、アメリカ人も、韓国人も、その他のどの人種も神様が見て尊い被造物なのです。 私はUBFでいろいろな方の人生所感を聞きました。自分の存在価値、生まれてきた意味を分からずさ迷っていた方が多くいたことを覚えています。「生まれて来なかった方がいいのに!」「お母さん!なぜ私を生みましたか?」とうめき悲しんだ告白をよく耳にしました。これは、神様の前でどのような存在ないのかを悟ることが出来なかったからです。聖者アウグスティヌスは、神様に出会ってから次のようにかたりました。‘主よ。あなたはあなたのために私たちを造られました。従って、私たちがあなたを発見する前には、私たちの心の中には安息がありませんでした。’ 神様を私たちが発見し、神様を迎え入れる前にはどこもがいばらの道であり、白い砂場であり、私たちの憩いの場所は見つけることができないのです。, 私たち一人ひとりは、神様にとって非常に良い存在です。これは進化論では説明できない私たち人間の存在意味、存在価値なのです。今年御言葉のくじ引きをしたとき、わたしにイザヤ書43, が当たりました。, “わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。”, 私はこの御言葉を黙想すると、神様の愛に包まれたよ うな満足感を感じました。主の豊かな愛を感じて胸がいっぱいになりました。2章に1〜3節に入ります。神様は六日間天と地を創造し、七日目にそのわざを休まれました。神様が疲れたから、休んだわけではありません。創造活動を完成させる意味の休止です。神様はこの七日目を祝福され、聖なる日とされました。わたしたちも六日間、自分の場所で一所懸命働き、主日を聖なる日として過ごさなければなりません。六日間、神様がよくしてくださった恵みを覚えて感謝をもって礼拝しなければなりません。七日目は、夕があり朝があったという御ことばが見当たりません。六日目の朝でとまっています。この記述は、私たちが行くべき天国でこの安息が続くことの暗示です。私たちは、この世の終わりに、暗闇の一欠けらもない天国でひかりである神様に礼拝しながら永遠の安息を憩うことになります。今日のメッセージをまとめましょう。私たちは神様にかたどってつくられた非常に尊い存在です。そして、私たちは神様の被造物の管理をおこなう代理人であり、福音を宣べ伝える全権大使です。私たち一人一人が、神様のかたちが刻まれた素晴らしい存在であることを感謝して主に喜ばれるわざを担うことができるように祈ります。

14Genesis 5M神様の哀れみと祝福

14genesis, 5m神様の哀れみと祝福, 2014年創世記第5講 神様の哀れみと祝福御言葉:創世記4:1〜5:32要, 節:創世記4:25, 26「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」先週、私たちは人間が神様の愛を拒み、罪を犯してしまったにもかかわらず、その人間を捜し求め、救いの道を約束してくださった神様の愛を学びました。神様はその愛のゆえにアダムの子孫皆が救われることを望んでおられます。ところがアダムの二人の子どもは二つの道に分かれて行きました。彼らはどのような道を歩んで行ったでしょうか。皆さんと共にカインの道、アベルの道について学びたいと思います。そして「私たちは、はたしてどちらの道を歩み続けているのか」を考え、自分を省みてみることができるように祈ります。その中で、神様は私たちに望んでおられる道を知り、神様の御前で信仰の決断ができるように祈ります。?.カインとアベル, 1節をご覧ください。「人は、その妻を知った。彼女はみごもってカインを、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。」とあります。アダムとエバに最初の子が与えられました。アダム夫妻の喜びはどんなに大きかったでしょうか。エバは「私は、主によってひとりの男子を得た。」と告白しています。それからまたエバは弟アベルを産みました。子宝と言いますが、子どもたちに恵まれるのは幸せです。兄弟が互いに助け合い、愛し合う時、それを見ている親はとても幸せになります。先週、私の長女は誕生に兄から「誕生日おめでとう」という一行のメールが届いたことだけでも非常に喜んでいました。妹からの手紙を読む時は顔が赤くなるほど嬉しがっていました。そんな姿を見るだけでも私は幸せを感じました。おそらく、カインとアベルも仲良し兄弟だったでしょう。ところが、親から独立して大人になり、それぞれの職業を持つと、お互いに助け合い、協力し合う協力関係は崩れてしまいました。兄のカインは農業を営む者となりました。弟のアベルは羊の群れを飼う者となりました。そして、ある時期になると、カインとアベルはそれぞれ主への「ささげ物」を持って来ました。カインは、地の作物から持って来ました。アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。主はこのアベルとそのささげ物とに目を留められました。しかし、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。それに対するカインの反応はどうですか。「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とあります。このカインの気持ちはわかるでしょう。私も長男のひとりとして彼の気持ちが理解できます。弟のアベルが神様に顧みられ、長男である自分は完全に無視されてしまったと思うと気持ち良くないでしょう。後から来て、自分よりも劣っていると思う者がちやほやされ、早くから来てずっと苦労してきた自分が認められないと思われる時、皆さんはどうしますか。大抵の人は、それに耐えられず、嫉妬や憎しみの情を募らせて行きます。ところで、聖書には意外にも、後から来た者が先にいる者を追い越す例がたくさんあります。創世記を通してみると神様は長男より次男が好きなのかなあと思われます。イシュマエルとイサク、エサウとヤコブもそうです。ヤコブがヨセフの子どもを祝福する時も、長男のマナセではなく、弟エフライムを祝福するのです。後に、イスラエル民族が出エジプトをする時、神様はエジプトの初子をことごとく撃ちます。長男ばかりが死ぬのです。ですから、カインのような人は神様を非難します。なんとかして神様の不条理を発見して怒り、自分の正当性を主張しようとします。カインだけではなく、世間一般の人も、自分なりの価値観を持ち、人々も自分の価値観で自分を判断してくれることを願います。たとえば、うちの学校では父兄が先生を評価しますが、自分が低く評価されると、それは父兄の価値観が間違っているからだと考える人もいます。何でもかんでも人のせいにします。神様に対してもそうです。自分なりに「長男が先に生まれたから自分より優先でなければならない。次男のものは受け入れられたのに、長男のものが受け入れられないようなことがあってはいけない。」と言うような自分の考え方を神様にも要求するのです。しかし、ささげ物を受け入れるかどうかは神様の判断基準に従わなければなりません。それは神様の一方的なあわれみの自由です。新約聖書を見ると、世間では無視されている放蕩息子や収税人や異邦人が神様には招かれています。ぶどう園に朝から来て働いた人にも、夕方5時に来てたった一時間しか働かなかった労働者にも同じ1デナリオンの賃金が払われています。神様はご自分の計画と哀れみの自由によって哀れむべき者を哀れまれ、受け入れるべき者を受け入れてくださるのです。だから私たち人間は、その良し悪しを言う立場にはないのです。どうして神様がそうなさったかと言うのではなく、神様がなさったから正しいのです。ところが、カインは神様がなさったことが不公平だと思いました。自分の思いとは違っていたからです。このように自分を中心に思うその思いにサタンが働きます。感謝するところに聖霊の働きがありますが、自分の思いから不平不満を抱き、つぶやく人の心の中にはサタンが働くのです。結局、アベルと比較して妬みと憎しみの奴隷になってしまいました。8節をご覧ください。カインは弟アベルに語りかけました。「野に行こうではないか。」心の中にある怒りや妬み、殺意を押し隠して、一見散歩に誘うかのように優しげに語りかけたのです。そして、ふたりが野にいた時、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。ここに、自分の思いが100%正しいとしたため、自分の弟さえ殺してしまったひとりの人間が描かれています。そしてこの姿は、まさにカインからの遺伝子を受け続けている人間、私たちひとりひとりの姿でもあります。自分の思いだけが正しいと主張し続ける人は多くの人々を傷つけ、殺して行きます。謙遜に神様の御声に耳を傾けず、悔い改めなければカインのように、人を殺すことまでもしてしまうのが人間なのです。惨めな人間の姿です。ところが、それでも神様は人間を捨ててしまわれませんでした。主は再びカインとお会いになりました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われました。神様はもちろん、カインが殺人の罪を犯したことを知っておられました。ですから、この質問は、決してカインを尋問するためのものではありません。神様は彼の父にアダムが罪を犯した時も同じような語りかけをしておられます。「あなたは、どこにいるのか。」という言葉です。その時のように、神様はカインに悔い改めの機会を与えたのです。本来なら二人はかけがえのない絆で結ばれた兄弟です。切っても切れない血の繋がりがあります。互いに愛し合う務めがありました。だから神様はわざと「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問いかけられたのです。ところが、カインのことは全く期待はずれでした。彼は「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」と答えています。これに対し、主はついにカインの罪を直接指摘されました。10節をご覧ください。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」次いで主は、カインの罪に対するさばきを宣告されました。11、12節をご覧ください。「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」彼は一つ所に安住して安定した生活を送ることができなくなりました。家と土地を捨て、慣れ親しんだ故郷を離れ、さすらいの人となります。15節をご覧ください。主は彼に仰せられました。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さいました。主は殺人者であり、嘘吐きであり、神様の主権に逆らったカインでさえ見捨てることなく、保護してくださいました。主は罪を犯したカイン、悔い改めないカインでさえもなお見捨てることなく、守ってくださるのです。それは、彼が「さすらい人」として地上をさまよい歩く中で自分の弱さを認め、主にこそ、本当の安息があることを認めて、主に立ち返るためでした。神様は罪に対しては厳しく裁かれますが、罪人は本当に愛してくださいます。神様は今も一人でも滅びることを望まず、すべての人々が悔い改めに進むことを望んでおられます(ペテロ第二3, 9)。?.新しいアダムの子孫セツとアベル(4, 32) 16, 24節まではカインの子孫について記されています。16節をご覧ください。カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。カインは最初に神なき文化を始めました。また、カインの子孫の中には天幕に住む者、家畜を飼う者、立琴と笛を巧みに奏する者の先祖となった人々もいました。また、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋もいました。彼らは神様に頼るのではなく、神様を抜きにした文明に頼って自分の生活を豊かにし、自分の生活を守ろうとしました。彼らは物が先という思想を持っていました。しかし、このような生き方をする人々はいくら多くの富みを得たとしてもその生活には不安とあせりが絶えません。カインの子孫の中で神なき文化の代表者としてレメクと言う人がいました。レメクの名は、「強い者」という意味です。まさに彼はその名の通りの人物で自分の力を誇り、神様なき文化の代表者のような存在です。彼は二人の妻をめとりました。神様の御心は「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2, 24)ということでしたが、レメクは二人の妻をめとったのでそのどちらとも「一体となる」ことはできませんでした。だから彼にとって結婚は人格的な結びつきではなく、ただ欲望を満足させるだけのものでした。また、レメクは彼の妻たちの前で復讐の歌を歌いました。「レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。」彼は単に傷を受けたというだけで1人の人を殺しました。カインが犯した罪は彼の子孫によって段々広がり、世の中は戦争、殺人、姦淫、暴力などが絶えず起こりました。このようなカインの子孫だけを見ると、この世には希望が見えません。しかし、いつも神様には希望があります。私たち人間に対する神様の哀れみと祝福が消えませんでした。25、26節をご一緒に読んでみましょう。「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」あわれみ深い神様は死んだアベルの代わりにセツを子孫としてお与えになりました。神様はアベルの信仰を受け継ぎ、彼の使命を果たすべき者としてセツを授けてくださったのです。そして、彼によって新しい御業が始まりました。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めたのです。その結果、アダムの子孫の中からもカインだけではなくアベルの子孫として神様と共に歩む人、主の御心にかなった人々が現われてきます。ではまず神様と共に歩んだ人は誰でしょうか。5章にはアダムの子孫の系図が出ています。この系図は信仰の人の系図です。セツの子孫の中から将来、人類を罪と死から救うキリストがお生まれになります。セツの子孫の中で代表的な信仰の人はエノクです。22, 24節をご覧ください。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」21節を見ると、エノクは65年生きて、メトシェラを生んでいます。彼が生まれてからメトシェラを生むまで65年間はどのように生きていたでしょうか。私はよく分かりません。ただ、彼にカインの遺伝子はなかったとしても神様に罪を犯したアダムからの遺伝子は繋がっていたはずです。生まれながら完璧な人ではなかったのです。アダムが自分の犯罪をエバのせいにしたように、何でもかんでも人のせいにする、人間同士が憎み合うという原罪から離れていなかったと思われるのです。しかし、彼はメトシェラを生んだ時、信仰の決断をしたようです。アベルのように神様に最上のものを持って行く感謝の生活、セツの子どもが生まれた時から始まった祈りの生活をしようと決断し、神様と共に歩む生活を始めたのです。そして、その決断を300年間も守り通しました。三日坊主ではなく、300年間です。金ヨハネ宣教師は毎年「300日以上教会で夜明けの祈りを捧げる。」ことを祈りの課題にしていますがそれも簡単ではないでしょう。ところが、エノクは300年間神様とともに歩んだのです。そのおかげでしょうか。彼の子どもメトシェラは人類歴上最も長生きした人として彼の一生は969年でありました。彼のひ孫であるノアは神様の御心にかなった人、全き人として神様と共に歩みました。大洪水後は人類の新しい先祖となりました。 以上で、私たちはアダム以後、カインとアベル、アベルの代わりに神様から授けられたセツとセツの子孫の歩みを学びました。皆さんはカインの末裔でしょうか。アベルの末裔でしょうか。カインは自分の行動が認められない時、ひどく怒り、憤っていました。自己中心の人生、不信仰の人生を生きて神様も自分のように評価するだろうと思ったからです。年上が先に認められるべきだと思ったようです。だから、正しく行っていないと神様から指摘されるとそれを受け入れることができませんでした。それは弟のせいだと思って自分の弟を憎しみ、殺してしまいました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問いかけて悔い改める機会を与えましたが、悔い改めませんでした。むしろ、知らないふりをしていました。その結果彼が耕す土地は呪われてしまいました。彼はその土地から追い出され、神様の御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となってしまいました。しかも、弟を殺した彼は殺される不安と恐れの中で生きるしかありませんでした。彼は「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」と言っています。神様はご自分の哀れみのゆえに「一つのしるしを下さった」ので生き残りましたが、祝福された人生になりませんでした。しかし、アベルはどうでしたか。神様の御前で謙遜でした。彼が神様にささげ物をささげる時「初子の中から、それも最上のものを持って来た」と言う言葉に彼の心が表れています。彼の心は神様への感謝がいっぱいになっているのです。このことに対してヘブル人への手紙は「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。, 」と解説しています。神様は心をご覧になるお方です。アベルの人生は短かったけれども信仰によって生きたのです。神様は彼の人生を祝福してくださいました。信仰によって生きた彼の人生を受け継がせるセツを授けてくださったのです。そして、彼の子孫から人々は主の御名によって祈ることを始めました。さらに、その子孫の中からエノクが生まれ、彼は神様とともに歩みました。そして、その子孫からノアが生まれ、ノアを通して人類の歴史は新しく始まりました。何よりもその子孫から信仰の先祖アブラハムが生まれ、アブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれました。 したがって私たちは自分の力によって自分中心に生きたカインの末裔ではなく、信仰によって生きたアベルの末裔です。一般的に、人々は自分がカインの末裔だと思っています。自分が本性的に行動し、罪を犯してしまうのはカインの末裔だからしようがないと思います。夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩も当たり前だと思います。しかし、この世にもアベルの末裔がいます。最近、私がインターネットから研修を受けていますが、講師の崔博士はアメリカのカートマン博士が35年間3, 000組以上の夫婦と調べ、追跡してみると夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩もない家庭も多かったと言いました。崔博士自身も両親が夫婦喧嘩するような場面を見たことがなかったと言いました。意外にそういう家庭も多くあるのです。すべては神様から与えられたと信じて神様に最上のものをささげようと思うほどに神様に感謝する人はアベルの末裔として生きていることです。アベルの末裔は自分の思い通りにならないことで不平不満を抱き、つぶやくのではありません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい, 箴言3, 」と信じてすべてのことにおいて神様に感謝し、祈る人です。神様と交わりながら神様とともに歩む人です。祝福そのものだった信仰の先祖アブラハムのように祝福された人生を生きて行く人です。どうか、私たちがアベルの末裔である自覚を持って信仰によって生きることができるように祈ります。300年間神様と共に歩んだエノクのように信仰の決断をしましょう。今まではどのように生きて来たとしてもこれから神様と共に歩もうと決断すれば、神様に喜ばれるでしょう。共に歩むということは完璧に生きるということではありません。それよりも神様に感謝し、祈りながら神様と交わる生活ができるということです。300年ではなくても、金ヨハネ宣教師のように毎年300日でも信仰の決断をして守って行くことができますように祈ります。

14Genesis4M 罪を犯した人間と神様の愛

14genesis4m, 罪を犯した人間と神様の愛, 2014年創世記第4講罪を犯した人間と神様の愛御言葉:創世記3:1−24要 節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」, 先週、私たちは神様の人間創造は特別であると学びました。神様は人の鼻にいのちの息を吹き込んで神様と交わるができるようにしてくださいました。素晴らしい環境も備えてくださいました。人が神様を愛し、互いに愛し合える家庭も造ってくださいました。では、どうして、神様は世界を造られ、人間を造られたのでしょうか。聖書には神様がお造りになったことが宣言されているだけです。その理由は記されてありません。どうしてでしょうか。それは神様のご品性にあると思います。?ヨハネ4, 8節に「愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」とあります。神様は「愛」です。愛さずにはいられないようなお方が神様です。愛するために世界を造り、人間をお造りになったのです。そういう意味で「君は愛されるため生まれた, 作詞・作曲, イミンソプ, 」というゴスペルソングの歌詞は素晴らしいと思います。「君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている♪君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている//永遠の神の愛はわれらの♪出会いの中で実を結ぶ♪きみの存在が私には♪どれほど大きな喜びでしょう//君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪」とあります。愛であられる神様がその愛のゆえに創造されたので私たちはその愛を受けているのです。ところが、最初の人間はその愛を拒みました。サタンのささやきに騙されて神様の愛を拒み、神様に逆らいました。罪を犯してしまったのです。それにもかかわらず、神様は人間を見捨てになりませんでした。神様は人間を捜し求め、見つけると、救いの道を約束してくださいました。定めの時になると、神の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、御子を信じる者は救われて永遠のいのちを持つようにしてくださいました。ここに神様の愛があります。どうか、御言葉を通して神様の愛を深く悟ることができるように祈ります。?.あなたはどこにいるのか(1‐13) 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。「狡猾」という言葉はもともと「賢い、頭がいい」という意味です。ところが、その狡猾さのゆえに、蛇はサタンに用いられてしまいました。蛇は女に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。非常に巧みで陰湿です。蛇は「園のどんな木からも食べてはならない。ほんとうにそんなひどいことを言われたのですか。」というようなことを言ったのです。神様の愛を疑わせてその関係を崩そうとしました。先週、学んだばかりの2章16, 17節を開いてみましょうか。「「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とあります。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。食べ放題です。何でも自由に食べることができました。ところが蛇は神様が「園のどんな木からも食べてはならない」とほんとうにひどいことを言ったのです。「あれもだめこれもだめではつらいでしょう」というようなことを言って人を神様の愛から引き離そうとしています。でも、女が簡単に騙されるのはありませんでした。2、3節をご覧ください。「女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」とあります。女は蛇の言葉を訂正しています。確かに神様は「園のどんな木からも食べてはならない。」とは言われませんでした。園にある木の実を食べてよいのです。それは間違いではありません。しかし、蛇のささやきに女の心が揺れているように思われます。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。ここで、「どの木からでも」「思いのまま」という御言葉の中に神様の愛が満ちていす。ところが、女の心は神様の愛への感謝が薄れてしまいました。女は「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。また、神様は「善悪の知識の木」と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」と言いました。神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言います。つまり、女の心は揺れていては神様の御言葉に自分の思いを付け加え、曖昧に変えています。実はそれがサタンの狙いでした。サタンの関心は御言葉を曖昧なものにし、誤解するようにします。それによって人を神様の愛から引き離そうとするのです。4、5節をご覧ください。「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」とあります。蛇は心が揺れている女を見て神様の御言葉とは全く正反対のことを言いました。さらに、サタンは女に神様のようになるとも言いました。それは人間にある最大の誘惑です。人はもっと地位の高い人になりたがるし、もっと大きな権力を待ちたがります。神様のようになることまでも望むのです。それで、野球の神様、相撲の神様、学問の神様などがあります。サタンはこのような人間の心を巧みに利用しました。結局、女はどうなりましたか。6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。女はその実を取って食べてしまいました。一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べました。すると、蛇が言ったようにふたりの目は開かれました。それで彼らは自分たちが裸であることを知りました。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。結局、ふたりは互いに恥ずかしく思う関係になりました。神様との関係も神様の御顔を避けて逃げ回る孤独な人生、不安と恐れの人生を生きるようになってしまいました。人間同士の愛の関係も、神様との愛の関係も崩れてしまったことが分かります。神様が造ってくださった環境は変わっていないのに、自分を隠して暗闇の園で恥ずかしい人生を生きるのです。ここに人間の悲劇があります。人間は神様の愛を避けて逃げて行ってしまいました。でも、神様はこんな人間でも捨てませんでした。ではどのように助けてくださいましたか。9節をご一緒に読んでみましょう。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」『あなたは、どこにいるのか』とはヘブル語で「アイェーカ」です。たった一つの言葉「アイェーカ!」です。皆さんにはどのように聞こえているでしょうか。厳しく大声で「あなたはどこにいるのか?」と聞こえるでしょうか。あるいは小さな声で「あなたは、どこにいるのか。」とささやいているように思えるでしょう。「あなたはどこにいるのか!」私には深い悲しみを込めて呼びかける父親の声を感じます。私にはただ一度父から殴られた記憶があります。小学校3年生の時だったと思います。父はお酒を飲まない代わりにタバコをよく吸っていましたが、たまに私にタバコの買い物を頼みました。ところがある日、私はタバコを買って家に戻る途中に友だちに会って遊んでしまいました。ちょっとだけ遊ぶつもりでしたが長くなったのか、父が来て私を捕まえて行きました。家に戻ると気が狂ったかのように殴りました。海には満潮, 上げ潮, 、干潮, 引き潮, の時がありますが、私のせいで遅れていたからです。その時、祖母が来てくれて助かったのですが、私はその場で家から逃げました。夜になっても家に戻れませんでした。祖母が友達の家に隠れていた私を見つけて連れて行きましたが家に入ることはできませんでした。父に罪を犯した私は父が恐くて家に入れなかったのです。ところが、海の漁から帰って来る父が「お前、何でそこにいるの。速く入りなさい。」と言いました。全然殴ったことがなかったかのように、でも悲しい顔で「お前、そこで何をしているの。」と言ってくれたのです。優しい父の愛の声です。父がいなくなった今でも私の心に鮮やかに残っている父の愛の声です。このように、神様は深い悲しみの中からアダムに「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださったと思うのです。しかしアダムはまだ、神様の愛を素直に受け入れていません。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。ただ、言い訳を言いました。それでも神様はあきらめませんでした。彼が悔い改めることができるように、罪を指摘してくださいました。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」とあります。神様は人が自分の罪を言い表わして悔い改めることを望まれました。それによって罪が赦され、愛の関係性が回復されるからです。聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。, ?ヨハネ1, 」とあります。もし、アダムがここで、自分の罪を言い表わして悔い改めたなら、人の罪は赦され、きよめられて神様との関係が回復されたはずです。ところが、アダムは何と答えましたか。12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。夫婦喧嘩が始っています。人アダムは、女が与えられた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と喜びました。「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と神様に感謝しました。それが今、「この女が悪いんです」と言っています。それだけではありません。「あなたが私のそばに置かれた」と言いました。「あなたが私に与えたこの女さえいなければ、こんなことにはならなかったんです。」と神様を責めているのです。このようなアダムの態度は彼の息子カインにも遺伝されて行きます。ヨセフを妬んだ彼の兄弟たち、荒野のイスラエル人にも遺伝されて行きます。今は全人類に遺伝されているように思われます。イエス・キリストを信じて生まれ変わらない限り、何でもかんでも人のせいにします。親のせいにし、教師のせいにしています。政治家のせいにしています。そして、神様のせいにしています。「人のせいにするな。」と言いながら自分も人のせいにしています。嫌な人間の姿です。それでも神様は人間に対する希望を捨てませんでした。?.救い主を約束された神様, 14‐24, 14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。神様は蛇に対しては悔い改めるチャンスが与えられませんでした。何も聞かずに呪われました。しかし、人間に対する神様の愛はどうですか。, 15節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は蛇に与えましたが、蛇を用いたサタンに対する神様の裁きです。神様は女の子孫からキリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。そうしてサタンに支配されている人々を罪から救われるという約束です。そして神様はこの約束を守られました。約束のとおりに、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。アダム以来すべての人類が犯した罪をイエス様に負わせてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれましたが死者の中からよみがえられました。それによって神様が女の子孫イエス・キリストによってサタンの頭を踏み砕かれたことを明らかにしてくださいました。それによって神様は罪と死の奴隷となっている私たちを救って下さいました。ここに神様の変わらない愛があります。人間は愛されるために生まれたにもかかわらず、神様に愛されることを拒みました。大いなる神様の愛を裏切り、神様の御言葉に逆らってしまいました。それにもかかわらず、神様は人を呪いませんでした。神様は私たちを救うために女の子孫を約束し<、約束の通りに御子イエス・キリストを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。しかも、神様はご自分の約束の実現のために人間を保護してくださいます。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 とあります。蛇は呪われ、男のゆえに土地が呪われました。しかし、女については苦しみがあっても、呪いはありません。女のみごもりの苦しみは救い主の誕生につながるのです。そのために、神様は人間を保護してくださいます。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これも罪人に対する神様の愛の表現です。, では、神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22‐25節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神である主は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と言うのは皮肉的な表現です。人間が神様になったのではありません。「神のようになる」というサタンの誘惑に負けてしまった彼らの罪を指摘し、そのために神様と直接に交わることができないようにエデンの園から追い出すのだということです。しかし、完全に捨てたのはありません。「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。ここでケルビムは、翼のある一対の御使いのような存在です。幕屋や神殿では、神様が臨在される最も聖い所、至聖所に十戒の2枚の板を納めた契約の箱が置かれます。つまり、御使いたちを通して人間を守り、保護してイエス様の十字架と復活を通してエデンの園を回復させてくださるということです。それでイエス様が十字架にかかって息を引き取られた時、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。十字架でイエス様が流された血によって、私たちを神様から隔てるケルビムの幕はなくなりました。ですから、私たちは、ただ、このイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われます。神様との愛の関係を回復することができます。十字架の血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちの希望はただ十字架の福音にあります。十字架こそが私たちの恥を覆う神様の愛の衣であります。十字架のイエス様の肉体こそが、私たちが神様のお会いする垂れ幕です。たとえ自分の心が責めても、人知をはるかに超えたキリストの愛において罪が赦されて神様に愛される人生を生きるのです。 以上で、サタンの誘惑、神様の保護、変わらない神様の愛を学びました。私たちはサタンの誘惑に騙されないためにはどうすればいいでしょうか。まず御言葉を正確に学び、堅くつかんでいなければなりません。御言葉を曖昧にしてはいけません。でも、もし、罪を犯した場合はそれでも私に探し求めておられる神様の愛を覚えましょう。愛の御声に耳を傾けましょう。そうして、自分が今どこにいるのかを発見して神様の家に戻るのです。神様はイエス・キリストの十字架の血潮によって私たちを赦し、迎え入れてくださいます。皆さんは、今どこにいますか。先週金曜日は韓国のお正月でうちの学校は休みでした。それで、私は故洪ヨセフ宣教師のお墓参りをしてきました。いろいろ考えさせられました。帰りに床屋さんによって髪の毛を切って心を新たにしました。この時間も、神様は私たちに「あなたは、どこにいるのか」と呼んでおられます。神様は人間が神様から愛されることを拒み、神様に逆らったにもかかわらず、見捨てられませんでした。神様は相変わらず愛しておられました。堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を賛美します。今週も、この神様の愛、キリストの愛を堅く信じて勝利しますように祈ります。

14Genesis3M エデンの園と人間の幸せ

14genesis3m, エデンの園と人間の幸せ, 2014年創世記第3講エデンの園と人間の幸せ御言葉:創世記2:4−25要 節:創世記2:15, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。” 先週、皆さんは張パウロ宣教師を通して人間を創造された神様を学んだことでしょう。最後に人間が創造されて天地創造が完成されました。そのとき、神様は非常に喜ばれました。他の被造物にも存在価値があり、意味がありますが、人間創造は特別だったのです。人間の創造が終わると、なさっていたわざの完成を告げられました。結局、六日間なさっていたすべてのわざは人間のためだったことが分かります。そして、今日の本文では人間のために幸福のエデンの園を設けてくださった神様の愛、愛する人間が永遠に幸せに生きることを願っておられる神様の御心がよく示されています。この時間、御言葉を通して私たち人間がどんなに愛されているかを知り、その愛に答えて幸福のエデンを自分のものにして行くことができるように祈ります。4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。」とあります。この「経緯」という言葉は創世記の他の部分では「系図」と訳されています。これには「ストーリー」(物語)あるいは「ヒストリー」(歴史)といった意味があります。つまり、著者は人間の系図の一番目になるアダムの創造の時に、人間の歴史の中に働いておられる神様について書き記しています。それによって人間がいかに神様から愛されているか。どんなに祝福された存在なのか。示しています。そして天と地が創造された時の経緯を通して神様は愛する人間が幸せになることも示しています。では、人間が神様から愛されている証拠、祝福された存在である証拠は何でしょうか。第一に人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在に造られたことです。5‐7節をご覧ください。地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していませんでした。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからです。地球は創造の主人公である人間が現されるまでは何も動けない状態でした。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していました。その時、神様は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。こうして人間は他の被造物とは違って神様のいのちを持つ存在になりました。神様との交わることができる特別な存在になったのです。被造物として神様と交わりができる存在は人間しかありません。神様は人間を愛した余り、永遠にご自分の交わる存在にしてくださったのです。神様との交わりのために人間だけに霊的なものを知る知識、道徳的な価値を判断できる能力も与えてくださいました。だから、私たちは祈りもできるし、神様への賛美もできます。他の動物とは違います。動物も生きていける知恵が与えられているので敵が現れると身を隠したり、逃げたりします。それでゴキブリなどは、厳しい環境の中でも生き延びることができます。ゴキブリは核戦争があっても生き残るだろうと言われるほどです。また猿やゴリラなどの動物にも知恵が与えられていて、棒を使ってバナナを叩き落とすことができます。その棒を蜂蜜のつぼの中に入れて棒についた蜂蜜をなめることもできます。しかし、どんなに知恵があっても、動物は道徳的により良いものを目指すことはしません。日曜日ごとに礼拝することもしません。人間だけが快楽や安楽を捨ててでも価値あるものを求めます。損得を越えて正しいことを守り通そうとします。真の礼拝を求めます。それは神様からいのちの息が吹き込まれて神様との交わりができる霊的存在として造られたからです。第二に、人間のために素晴らしい環境を与えてくださったことです。8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。エデンとはスメル語では「平地」と意味する言葉ですが、ヘブル語では「喜び、楽しみ、幸せ」という意味を持つ言葉だそうです。つまり、神様は人間のために幸せの園(garden)を与えてくださったのです。神様は愛する人間が永遠に幸せに生きられるように幸せの園を設けてくださいました。その園には、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木がありました。川の水もありました。エデンの園には川があって園全体を潤していました。そのおかげで、そこにはさまざまな木が豊かに実を実らせていました。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつけていたことでしょう。毎月新しい実が出て来るのです。何を食べても賞味期限を確認する必要もありません。いつでも新鮮で美味しい自然食品を食べることができました。手を伸ばせばすぐに食べることができたのです。また、この川はピション、ギホン、ティグリス、ユーフラチスという四つの川の源流になっています。ピションの川沿いのハビラには良質の金とベドラハとしまめのうと言った宝石がありました。神様が人間に与えてくださった土地は農作物ばかりでなく、宝石も豊かにある土地だったのです。こうして「地球はいのちの星、宝の星」と言われるようになりました。神様は人間のために最も美しく素晴らしい環境を備えてくださったのです。第三に幸せな家庭を造ってくださったことです。どんなに素晴らしい環境に住んでいても、神様がご覧になると、ひとりでいるのは良くありませんでした。そこで神様は家庭を造ってくださいました。18節をご覧下さい。「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とあります。神様は人間の創造の時、人がひとりでいるのは良くないと思われました。事実、人は男一人でも、女一人でも、ひとりだけいるのは良くなく見えるものです。つまり、人は男か女一人だけでは何か足りないということです。人がどんなに強く、たくましく見えてもひとりだけでは足りません。結婚している方は分かるでしょう。家に帰った時に奥様がいないとどうでしょうか。なんかさびしく、家の空気も冷たく感じるのではないでしょうか。どこかに出かける時もひとりでいるのは良くありません。寂しさだけではなく何か忘れ物があるように感じるし、落ち着きません。奥さんも旦那さんがいないと寂しく感じるでしょう。ある奥様は「夫は家にいるだけでも安心できるし、力になる存在だ」と言いました。つまり、夫は妻の存在が、妻には夫の存在が必要だし、お互いに助け合うことが必要だということです。聖書を見るとソロモンには何人もの妾, めかけ, がいましたが、自分を真実に愛し、助けてくれるひとりの妻がいませんでした。それで彼の所有は多かったけれでも、彼の人生は光りませんでした。一方、イサクはちょっと足りないような人でした。しかし、リベカと言う立派な信仰の女性が妻であったお蔭で彼はアブラハムの信仰を受け継ぐことができました。イサクだけではなく、数え切れない夫たちが妻の助けによって立派な人生を生きることができました。去年放送されたnhk大河ドラマ「八重の桜」の八重さんも素晴らしい助け手のひとりです。新島嬢さんキリスト教に根ざした学校を作ろうとしても偏見を持つ人々の反発に遭いました。そこで葛藤する夫を支えたのは八重さんでした。「ならぬものはならぬ」の精神を持った八重さんが夫の新島さんを支えたのです。そういう八重さんの助けが同志社英学校の開校にもこぎつけます。その後も、二人の夢が一つになって同志社大学設立へと向かいます。このように、社会的にも霊的にもひとりだけではなく、互いの足りなさを補ってくれる信仰の同労者が必要です。そして、そういう家庭をつくることは大きな祝福であるのです。それでは神様は助け手をどのように造られましたか。21節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」とあります。ここで見ると男性は土地のちりで造られましたが、女性はアダムのあばら骨で造られています。神様は女を造る材料をアダムの頭とか、指の爪からとらないでわきにあるあばら骨から取られました。つまり、女性の位置は上でも下でもなく男性のわきです。男女は平等であるということです。22節をご覧ください。「こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」とあります。神様が女を人のところに連れて来られることが結婚です。結婚は自分が好きな人を選んで嫁にするするとか、旦那にするようなことではありません。自分のところに連れてきてくださった神様の導きを感じて悟り、神様が連れて来られたと信じて受け入れる結婚こそ聖書的な結婚なのです。では、神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節を男性だけで読んで見ましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」素晴らしい告白です。親にも、こうは言えないでしょう。自分の半身である妻を呼ぶときにのみ言える表現ではないでしょうか。アダムの奥さんや幸せを感じたことでしょう。実際に、夫は妻から認められ、尊敬される言葉を聞くと幸せになりますが、妻は夫からほめられると、幸せになるそうです。夫なる方は神様の傑作品である妻をほめましょう。「あなたはきれいですね。you are wonderful!」と。女性をほめることは花を咲かせることです。ほめられる女性はきれいになります。夫が自分の妻こそ神様の傑作品であると認め、告白することが家庭に平和と幸福をもたらすのです。24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とありまするのです。結婚は二人を一体とする神秘的事実です。体だけではなく、心もひとつになることによって幸せな夫婦になります。そのために信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じである必要があるでしょう。だから、クリスチャンはノンクリスチャンではなく、クリスチャンと結婚するし、同じクリスチャンでも同じ教会の人と結婚しようとするのです。結婚してから幸せな夫婦であり続けるためには互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合うために努力する必要があります。結婚によってふたりは一体となるのに、まだ心が父母を離れず、妻の料理より母の味噌汁が美味しかったというようなことを言ってはいけません。妻や夫が恥ずかしく思うようなことを言ってはいけないのです。本当に幸せな夫婦は二人の間に何も恥ずかしいことがありません。25節をご覧ください。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。素晴らしい夫婦関係を見ることができます。恥ずかしいと思わなかったということは二人の間に隠し事も、ウソもなく、罪がないということです。そのとき、夫婦は恥ずかしくない関係になります。私たちの家庭が夫は妻に、妻は夫に何も恥ずかしいことがないものでありますように祈ります。そのとき、家庭は神様に喜ばれる家庭になると信じます。エデンの幸せ、神様の祝福が皆さんの家庭に、夫婦の間にあふれるように祈ります。以上で、私たちは神様がいかに人間を愛してくださったかを学ぶことができました。神様は人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在にしてくださいました。エデンの園という素晴らしい環境を与えてくださいました。そして、ひとりでいるのは良くないので家庭を作ってくださいました。これらが私たち人間に対する神様の愛のしるしですが、私たちにとっては大きな祝福です。私たちがこの祝福の中で生き続けるためにはどうすればいいでしょうか。15節をご一緒に読んでみましょう。, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。”神様は私たちのために与えてくださった環境を耕せました。「耕す」(カルチベイト)は「文化」(カルチベイション)に通じています。人間は産業、芸術、教育などを通して文化を生み出すことで神様の愛を感じ、体験する存在として造られたのです。だから、私たちは神様から与えられた環境の中で文化活動を通して神様の恵みを味わい、神様の愛を体験することができます。それによって神様の形に造られた人として生かされている喜びを覚えることもできます。「またそこを守らせた。」とあります。「守る」とは自然を管理することであり、神様が与えられた御言葉を守ることです。神様が立てられた家庭の秩序を守ることでもあります。それを通して神様の形に似せて造られた人間、いのちの息が吹き込まれた人間として神様との交わり続けることができます。何よりも私たち人間は神様の御言葉を守る時に幸せに生きることができます。16、17節をご覧ください。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。私たち人間が最初に守るべき御言葉はこの2節だけでした。しかも、無限の自由と祝福の中でただ一つ善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言うことです。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、許可を与えてくださいました。何と恵み深いことでしょう。エデンでは毎日がご馳走のフルコースです。採るも自由、食べるも自由のバイキング状態だったのです。エデンの園での生活を想像すると、毎日が楽しく、心地よく、快適であったかと思わされます。ただ、「善悪の知識の木」だけが、食べてはいけないと命じられました。そして「食べたら、あなたは必ず死ぬ」と警告されました。なぜでしょうか。それは「人間が神様ではない、神様の命令のもとに生きるべき存在だ」ということをわきまえさせるためだったと思います。人間は神様から特別に愛される存在でした。人間は神様の創造の中心、文化を創造し、自然を守る使命を頂きました。エデンの園というすばらしい住まいにも恵まれました。すべて神様に造られたものの中で、人間は何から何まで特別扱い、特別待遇でした。しかし、そうであっても人間は神様ではないのです。善悪の知識の木を見るたびに、自分は神様の被造物にすぎない存在であることを覚え、神様を恐れよという命令だったのです。私たちの前に善と悪の道があります。神様に信頼し、神様の言葉に従うことが善です。神様が与えてくださった環境を守り、家庭を守ることが善です。夫婦関係、親子関係を守ることが善です。それこそ幸いの道でもあります。そして、神様に背き、神様から離れることは悪です。自分が地球の支配者であるかのように振る舞い、神様の造られた世界を汚し、壊すことは悪です。神様抜きにものごとを考え、判断し、神様抜きで正しく行動できる、神様抜きでも幸せになると思うことは悪です。それらは悪であって、滅亡と死へ道です。こういう知識の木から取って食べることは善悪の基準を無くしてしまうことになります。それは絶対にあってはいけません。善と悪をわきまえることは子どももできることだからその基準を覚えることは無視してしまいがちです。学校でも数学や英語を学ぶ時間は多くても倫理や道徳の時間はほんの少しです。しかし、それを無くしてしまってはいけないのです。ところが、人間はその善悪の木から取って食べてしまいます。エデンの園という最高、最善の環境におかれたのに、神様の愛と祝福を忘れてしまいます。神様を離れることが悪と知りながら神様抜きの人生を選んでしまうのです。本当に残念なことです。このことに関して来週に勉強します。私たちはイエス・キリストを信じることによってこの素晴らしいエデンの園を回復すことができます。信仰によって救われると神様との交わりができ、神様の御言葉を守るようになるからです。どうか、私たちが神様の御言葉を守ることによってエデンの園を通して示してくださった幸福を自分のものにして行くことができるように祈ります。無限に与えられている神様の恵みと祝福の中で神様の愛を経験しながら神様から与えられた御言葉もよく守って行きますように祈ります。

14Genesis01M 神が天と地を創造した

14genesis01m, 神が天と地を創造した, 2014年創世記第1講神が天と地を創造した。御言葉:創世記1, 1−25要 節:創世記1, 1「初めに、神が天と地を創造した。」 先週、私たちは新年修養会を通して豊かな恵みを受けました。定期小会を通して去年のみわざの決算をし、今年の計画も立てました。去年も私たちが頼っていた御言葉の通りに「神の力の働き」を体験できたことを感謝します。そして新年も修養会を通して御言葉を深く受け入れることができたことを感謝します。御言葉に従って時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えることができるように祈ります。 今週からは創世記の御言葉を学びます。「創世記」とは原語のヘブル語では「ベレシート」です。創世記の最初の言葉がそのままタイトルになっています。「初めに」という意味です。ギリシャ語では「genesis」と翻訳されました。英語の聖書ではギリシャ語のままタイトルとして使っています。それで英語では創世記がgenesisになっています。この創世記に現在私たちの周りに存在する全ての始まり(ルーツ)が記録されています。そこで、私たちは人類の始まり、罪の始まり、福音の始まり、救いの始まり、文化と言語の始まり、民族の始まりなどについて学ぶことができます。つまり、自分とかかわるすべてのルーツを知ることができます。それによって今の自分の存在を知ることでもあります。また、どのように生きて行くべきかと言う人生の目的も知ることができます。すると、私たちは癒されたり、生かされたりします。たとえば、私たちは仕事で失敗したり、人間関係で悩んだりして、自分なんかどうでもいい存在なのだ、と思う時があるでしょう。スランプの時、落ち込んでいるときがあるのです。そういう時に自分のルーツを知ると、なんともいえない有難い気持ちになります。自分のおじいちゃん、おばあちゃん、自分の両親とつないできてもらった命がいま自分の中にあると思うようになります。すると、そう思うだけで自分はどうでもいい存在ではなく、ご先祖さまに生かされている大切な存在なのだ、と思えるようになります。何よりも私たちクリスチャンは「私の創造者であられる神様に生かされている大切な存在なんだ」と思えるようになります。それによって落ち込んでいた心が癒され、元気づけられて強くたくましく生きられるようになるのです。その上、私を造られた方は、どんなに大きな偉大な方なのかを知れば知るほど心強く、偉大な人生を生きるようになります。そういう意味で、私たちが創世記を通して私たちの周りに存在するすべてのルーツを知り、そのすべてを始められた神様を学ぶことはとても大切であると思います。どうか、私たちが創世記の御言葉を通して自分のルーツ、自分の原点を知り、その始まりを始められた神様はどんな方を深く学ぶことができるように祈ります。1節をご一緒に読んでみましょう。「初めに、神が天と地を創造した。」この御言葉は驚くべき宣言です。ここには何の説明も、弁明も、論理の展開も、説得もありません。初めに神様が天と地を創造したことはあまりにも確実な真理だからです。「初めに、神が天と地を創造した」という事実は、人間の力で説明できるような領域ではありません。たとえば、ここにあるピアノを作った人はそれをいつ、どのように造ったかを説明することができます。でも、造られているピアノは自分がいつ、どのように作られたかを説明することはできないでしょう。私は私の両親を両親として知っていたし、自分が52年前生まれたことも知っています。それは誰かが科学的に、論理的に説明してくれたからではありません。ただ、両親を信じることによって自分のルーツ、自分の存在について知っているのです。同様に、私たちは信仰によってのみ、神様が天と地を創造したことが分かります。それでヘブル人への手紙の著者は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」と言っています。私たちは「初めに、神が天と地を創造した。」という宣言を信じる信仰によって神様の創造を悟るのです。それによって聖書全体に対する霊的な目も開かれます。「神が天と地を創造した。」何と厳粛で神秘なひびきの言葉でしょうか。人類歴史上、最も多くの人々に愛読された一文であるでしょう。私たちも毎週使徒信条を通して「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しています。「神が天と地を創造した。」という事実が分かった時、数え切れない人々が高潔な人に造り替えられました。落ち込んでいる人々は慰められ、励まされ、光を照らされました。若い日に創造者を覚えた人は希望と将来が与えられました。創造者の神様を信じることによって聖書に記された多くの奇蹟も信じて体験することができました。神様が紅海を渡らせることも、岩から水を出させることも、死んだ人を生き返らせることも知り、信じて体験することができました。どうか、神様が私たち一人一人に創世記1章1節に関する確信を与えてくださるように祈ります。ローマ9, 21節を見ると「しかし、人よ。神に逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。」とあります。私たち人間はなかなか神様の主権的な働きを素直に受け入れようとしません。神様に逆らって不満を抱き、つぶやいたり、反発したりします。しかし、この世界は神様が主権的に造られた神様のものなのです。形造られた者が形造った者に対して文句を言えません。それは陶器師が陶器を作ることに例えることができるでしょう。陶器師には、同じ土のかたまりから尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っています。そのように私たちのすべてのもの、人生そのものに対して権利を持っている方は私たちを造られた神様なのです。したがって、私たちはすべてのことにおいて神様の主権を認めて神様に感謝し、神様を礼拝する生活をしなければなりました。そうする時こそ、神様からもっとすばらしい祝福をいただくことができます。私たちが素直に天と地を創造した神様を信じるなら大きな偉大な神様の力と栄光が私たちの生活の中にも現わされます。黙示録4, 11節を見ると「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」とあります。ここで「自分の冠」とは自分が受ける栄光ある報い、自分のプライドや功績などを意味します。それらを御座の前に投げ出してしまうほどに二十四の長老は神様を信じきっていました。そういう信仰を通して自分の生活に現われる神様の栄光と誉れと力を感じ、知ることもできて神様を賛美しているのです。私たちも信仰によってすべてのことを神様に頼り、日々新しく生まれさせる創造の力を体験して行きますように祈ります。では初めに神様が天と地を創造した時の地球はどういう状態でしたか。 2節をご覧ください。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。地は茫漠として何もありませんでした。人が住める場所ではりませんでした。この後、神様は最初の3日間で、この宇宙に秩序を造り、形を造って行かれます。この状態は先ほど話した陶器師が素晴らしい陶器を作ろうと準備している状態です。粘土の塊をとって、それをロクロの上に置いた状態です。神様が天と地を創造した時の地球はロクロの上に置かれた粘土の塊のような状態だったのです。ところが、神の霊、聖霊が地球の上を動いていました。現代語訳によると「神の霊が水の表面をおおっていた。」とあります。そして、「おおう」という言葉はヘブル語ではニワトリが翼をひろげて、卵をおおい、愛育しているという意味を持っています。つまり、, ニワトリが翼をひろげて卵を覆って孵化するようなことです。神の霊はまるでひよこが出て来るまで卵を覆っているニワトリのように、この地上を温かい愛によって覆っていました。それからいろいろ造り始められます。3節をご覧下さい。「, 神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」とあります。神様が「光があれ」と仰せられると、光がありました。この光は太陽の光ではありません。太陽はまだ現われず、月も星もまだ現われない前のことです。永遠の暗黒を破る神様の荘厳, そうごん, な言葉によって地球に光の世界が始まりました。神様は創造の第一日に光を造って、新しく生まれようとしている天地を祝福されたのです。 第二日目の働きは、大空を造ることでした。これは宇宙と、無数の星を意味します。また地球を地球たらしめる物質の「水」を創造されました。第三日目の働きは、天の下の水を集めて海を造り、乾いたところを陸とされたことです。また様々な植物も、種類にしたがって創造されました。第四日目に、太陽と月と星を創造されたことが記されています。これは、地球の自転と公転が始まったことでしょう。また地球を太陽の光がより強く差し込むようになった状態を表わしているのでしょう。第五日には、空の鳥と海の生きものを造られました。神様は光合成によって酸素がどんどん増えて動物の住める環境を造ってから空には多数の鳥、海には無数の魚が生きるようにしてくださいました。また、これも種類にしたがって創造されました。そして第六日には、地上に色々な動物が種類にしたがって造られたのです。そして、人間もこのとき創られました。人間創造に関しては来週学ぶことになります。以上で六日間の創造の御業を学びました。この神様の創造のみわざから四つのことを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。第一に「夕があり、朝があった, 5、8、13、18、23、31, 」ということです。神様が六日間を創造された間、毎日、「夕があり、朝があった」と記されています。一般的に、私たちが一日を言うとき、朝起きてから夜眠るまでを言います。朝が新しい一日の始まりなのです。この間、静岡に行った時、ラジオ体操に参加しましたが「新しい朝が来た, 希望の朝だ喜びに胸を開け・・・」と歌も流れました。本当に朝は、さわやかで、朝日はとても心地よいものです。一方、夕方はどうでしょう。一日の終わりが近づいて来ているイメージです。私たちの人生にも朝のように出発しますが、夕方のようにだんだん暗くなっていくものです。ところが、創世記は、「朝があり、夕があった」ではなく、「夕があり、朝があった」と記しています。これはどういうことを示唆しているでしょうか。, 「夕があり、朝があった」と記されていることには意味があると思われます。私はここに、聖書の真理、希望のメッセージがあると思います。「十字架の夕方がありますが、復活の朝がある」ということです。創造主の神様を信じる人の人生は夕があり、夜が来て終わるのではありません。復活の朝があります。詩篇30篇5節には「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。私たちの人生には、夕暮れに涙するそんな一日もあります。いつもさわやかでいたいと思っても、そうはなかなかいきません。疲れも出てくるし、辛いこともあります。寺崎アブラハム牧者はアジア支部長修養会に招かれたことを大変喜んでいました。ところが、会社で休暇を取ることができなかったことを聞きました。そのことを伝えるアブラハム牧者の目は涙が出そうになっていたと聞きました。このように、目の前が真っ暗になるときもあります。しかし、私たたちの人生は夜で終わるのではありません。夕があり朝があるのです。涙のあとには、喜びがあります。もちろん、新しい朝、希望の朝が続くのではありません。また夕方になる時が来ます。私たちに喜びだけでなく、苦しみや涙の時もあるのです。しかし、神様が夕があり朝があることを通して、私たちが常に希望を持って生きることを望んでおられると思われるのです。今、疲れていても、ちょっと辛くてもそれが永遠に続くのではありません。さわやかな朝が来るのです。そして人生の最後を迎える夕があり、この世を離れて行くと永遠に輝く朝になります。永遠に新鮮で明るい朝です。そこで主は私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。ですから、私たちは常に希望を持って生きることができます。第二に神様は「種類にしたがって造られた。」ということです, 11、12、21,24、25, 。聖書に「おのおのその種類にしたがって」という言葉が何度も繰り返されています。, 種類にしたがって、動物植物がつくられているのです。学校では進化論を教えています。でも、その進化論は仮説です。たとえば、進化論では、魚類から両生類、次にハ虫類、そして鳥や哺乳類に進化したと主張します。しかし、化石をどれだけ調べても進化の途中にあたる生物は、一切発見されません。突然変異で進化するという説もありました。しかし、遺伝学が進んで、突然変異は次の世代に遺伝されないことがわかりました。また、生命が生まれるために必要なタンパク質が自然発生するためには、偶然が何億回も重ならなければなりません。万が一奇跡的にタンパク質ができたとしても、それが単細胞生物になる確立も微小です。たんぱく質ができる確立も単細胞生物になる確立も無視して、6千億年前の単細胞が、人類の体の1兆個の細胞に進化したとすれば、6千億年は219兆日ですから、219日に一回ずつ進化しないと人類に進化できません。そんな激しい進化がなされるなら、現代の生物も一年に一回は進化してないとおかしいことになります。 また人類は猿から進化した、あるいは猿と共通の祖先から進化したという仮説があります。ネアンデルタール人とかクロマニヨン人とかの骨の化石が発見され、猿から人間に進化する途中の猿人の化石だと言われてきました。しかし、現代の科学でその化石の遺伝子を調べると、それらの猿人の化石といわれてきたものは、猿と人間の骨が混じったものだったり、絶滅した大型の猿の骨だったりすることがわかりました。猿から人間に進化する途中ではないことがわかりました。皆さんが学校で学だ進化論は、絶対に正しい真理ではなく、一つの仮説なのです。犬と猫のあいのこはできません。チワワとセントバーナードならできます。種類が同じ犬だからです。ということは、他の種類に進化する生物進化はありえないのです。 神様がおのおの種類に従って造られたからです。真理は、それぞれの種頻にしたがって植物や動物が造られたのです。すべての生物は種類別に存在意味があるのです。第三に御言葉の力です, 24; 7, 。1章を見ると「神は・・・仰せになった。」という御言葉と「するとそのようになった。」という御言葉が繰り返されています。これは神様が御言葉によってすべてを創造されたことを教えてくれます。見えるものも、見えないものも神様の御言葉によって創造された被造物です。神様の御言葉と関係が無いものは何もありません。神様が仰せられると万物が創造されました。神様が仰せられると、万物の位置が定まり、秩序が立てられました。私たちは神様の被造物です。神様の被造物として最も大切なことは神様の御言葉に耳を傾け、聴き従うことです。神様の御言葉を聞くときに自分の位置が把握され、自分の道が見えます。私の所有者が神様であることを忘れずに神様の御言葉の力を体験して行くことができます。神様の御言葉には無から有を創造する創造の権能があります。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。この世のもので人を根本的に変えることはできません。しかし、神様の御言葉はどんな人でも変えることができます。むなしく、つまらない人生を生きている人でも根本的に変化させて意味あり価値ある人生に変える力があるのです。どうか、私たちが御言葉を聞いて御言葉にとどまることに励みましょう。そして御お言葉を宣べ伝えましょう。私たちが足りなくても、今の時が悪くても御言葉を宣べ伝えると、御言葉が一人一人のうちに働きます。御言葉を聞き、読むことだけでも私たちのうちに新しい創造の働きが始まります。再創造の働きが起こり、新しい人に変えられるのです。第四に神様が造られたものを見てよしとされたことです(10、12、18、21、25)。つまり、神様のなさることはすべてが最善であるということです。, 神様はご自分が創造されたすべてのものを見て良しとされたのです。神様が創造された時点で、この世界は人間もあわせて最善なものだったのです。神様は一番いいことしかされません。みなさんにも何とかして一番いいことをしてあげようとしておられるのです。しかし、人間の側がそれを受け取らなかったり、台無しにしたりしているのです。どうか、素直に、神様は「初めに、神は天と地を創造した。」という事実を信じてください。去年最後の礼拝の時に神様は私たちに言われました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。私たちが天地万物を創造された神様を覚えて信じましょう。創造者の神様を信じる時、私たちの人生の基礎は堅くなり、秩序が立てられます。この神様を信じる時、今の生活の中でも創造の力を体験し、平安と喜びと愛に満ちた人生を送ることができます。何よりも御言葉を信じて御言葉によって動かされ、御言葉によって新しく変えられて行きますように祈ります。

14Genesis14M 約束されたとおりに行われた神様 

14genesis14m 約束されたとおりに行われた神様 , 2014年創世記第14講                               約束されたとおりに行われた神様御言葉:創世記20, 1−21, 34要, 節:創世記21, 1「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」 先週、私は福岡ubf開拓礼拝に参加させていただきました。そこで、私は神様が九州大学のみわざを備え、導いておられることを感じ、神様のビジョンを見ることができました。それはアブラハムを召され、導かれた神様が崔ヨセフ宣教師家族にも御言葉を与えられ御言葉の通りに導いておられるからです。礼拝にアブラハムのような九大の竹下兄弟も参加しましたが、神様が彼にも約束の御言葉を与えられ、約束された通りに行なってくださるように祈ります。 今日の本文には、アブラハムの過ち、不信仰、悩みなどの恥ずかしい部分が記されてあります。偉大な信仰の先祖としてのイメージより罪と咎だらけの姿です。それにもかかわらず神様は彼との約束を守られ、約束の通りに行われました。ついに、約束の子イサクが生まれるのです。すると、アブラハムも神様から言われた通りに子どもに割礼を施します。そのアブラハムの家にも問題が発生しますが、それも神様が解決してくださいます。そこで、私たちは神様の約束の真実性、深いあわれみを学ぶことができます。どうか、聖霊が私たちのうちに働いて約束の御言葉を与えられ約束された通りに行われる神様を深く学ばせてくださるように祈ります。そうして私たちも生活の中でアブラハムの神様を自分の神様として体験して行きますように祈ります。20章1節をご覧ください。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、」とあります。先週、皆さんは金ヨハネ宣教師を通してソドムとゴモラのことを学んだことでしょう。主はソドムとゴモラを滅ぼされたとき、アブラハムを覚えられたのでロトと二人の娘は救われました。それで、ソドムとゴモラは滅ぼされたけれどもアブラハムの粘り強いとりなしの祈りの力を示してくれたところでもあります。アブラハムはそこからネゲブの地方へ移り、ゲラルに滞在していました。そこでどんなことがありましたか。2, 13節を見ると、飢饉の時エジプトに下った時(12, 20)と同様にサラが自分の妹だと嘘をつくことがありました。アブラハムがそのようにした理由は11節にあります。その地方には、神様を恐れることが全くないので、人々がサラのゆえに、自分を殺すと思ったからです。しかし、それは信仰の人として許される行動ではありませんでした。しかも、今回は前回とは違って何度も神様から御言葉が与えられ、神様の守りと助けを体験してからのことです。彼は何度も神様を体験したにも関わらず、神様より世の権力者を恐れています。偉大な信仰の先祖アブラハムの歩みにも信仰の浮き沈みがあったことが分かります。サラもそうです。どうしてサラはアブラハムが自分の夫であるとはっきり言えなかったでしょうか。もちろん、アブラハムも、サラも言い訳はできたでしょう。「サラは腹違いの妹だ」、「私は夫に従った」、「殺されないためには仕方なかった」とも言えるでしょう。しかし、それはアブラハムの卑劣な策略です。アブラハムもサラも不信仰に陥っていました。自分たちを国々の父、国々のとなると約束してくださった全能の神様を見失ってしまいました。ほんとうに、軟弱なアブラハムの姿に神様も絶望せざるを得なかったでしょう。神様は何度も語りかけて全能の神様を信じるように助けてくださったのに、アブラハムは繰り返して過ちを犯し、信仰から離れて行ったからです。ところが、それにもかかわらず神様はアブラハムを助けておられます。夢の中で、アビメレクのところに来られ、サラを返すように助けてくださいました。それだけではありません。神様はアブラハムを預言者として立てられました。7節をご覧ください。「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とあります。神様はアブラハムが自分の妻を返してもらうだけではなく、預言者としても働くようにしてくださいました。祈りを通して人を生かすことも死なすこともできる預言者として立てられたのです。そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷達を取って来て、アブラハムに与えました。またアブラハムの妻サラを彼に返しました。結局、アブラハムは自分の命を救い、サラを無事に取り戻すことができました。それだけではなく、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちまで受けました。ここで、私たちは神様が約束の通りに、アブラハムの盾となり、保護者になってくださったことが分かります。アブラハムの過ち、恥ずかしい行動にもかかわらず、神様は彼を守り、助けてくださいました。今も、神様は私たちの盾となり、保護者になってくださいます。私たちは弱くて過ちを犯し、不信仰に陥ってしまう時もあります。今まで何度も神様の愛と力を体験したにも関わらず、自分の弱さと恐れのために失敗してしまうのです。でも、私たちが根本的に心の中心から神様の御言葉に頼っていると、神様が私たちの味方になってくださいます。私たちの盾となってくださいます。だから、私たちは弱くても圧倒的な勝利者の人生を生きることができます。ローマ8章31, 37節を開いてみましょう。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。アブラハムの神様が私たちも圧倒的な勝利者の人生へ導いてくださることを感謝します。それでは神様がアブラハムにされた約束を、いつ、どのようにして成就させましたか。21章1, 2節をご覧ください。「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男との子を産んだ。」とあります。ここで、「約束された通り、仰せられたとおり、言われたその時期」と言うのは神様の約束が三度も強調されたことです。つまり、神様はアブラハムに約束の御言葉を与えられてその約束を守られ、その御言葉の通りに行われるということです。このことはとても大切な事です。キリスト教は御言葉中心の宗教です。聖書の権威、御言葉の権威をとても重要視しています。私たちが神様を信じるということは神様の約束の御言葉を信じることです。イエス・キリストを信じるということもイエス・キリストの御言葉を信じることです。この聖書を記録したモーセの関心は神様の御言葉の真実性と権威が人類の歴史と人生の方向を決定し、奇跡が起こることを強調しています。使徒パウロも御言葉の真実性と権威を明らかにしています。?コリント15章3, 5節を見ると「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」とあります。「聖書の示すとおりに、聖書に従って」と言っています。新旧約聖書の代表者であるとも言えるモーセもパウロも御言葉の通りになることを強調していることが分かります。モーセは約束された通り、パウロは「聖書の示すとおり」と言っているのです。 ここで、私たちはアブラハムの神様から御言葉を通して私たちを召され、カウンセリングをし、導いてくださることを学ぶことができます。アブラハムは偶像崇拝の地で生まれ育ちました。サラも不妊の女でした。彼らは身体的にも情緒的にも弱い人たちでした。でも、神様は彼らに御言葉を与えて勇気づけ、希望を与えてくださいました。彼らは子どもを産むことができない状態であることを知っていました。だから、なかなか神様の約束を信じ切ることができませんでした。それでも彼らは信仰の道から離れて行かないで待ち続けました。その歳月が25年も流れました。その間に失敗もありました。人間的な方法で女奴隷から子どもを産んだこともありました。彼らも人間だから信仰の浮き沈みがあったのです。落ち込んだ時もありました。恐れている時もありました。勇気を持って戦う時もありましたが、恐れて過ちを犯し、恥ずかしくてしようがない時もありました。それでも彼らがあの長い年月を耐え忍ぶことができたのは神様の慰めと励ましの御言葉があったからです。 私たちはどうでしょうか。私たちにも御言葉が与えられていたからこそ今日までの信仰生活ができたことでしょう。それは神様の恵みです。私自身を振り返ってみると罪と咎だらけです。問題の連続でした。辛くて悲しくて苦しいときもありました。何度も失敗し、悩みました。それでもここまで来たのは神様の御言葉があったからです。しばしば深く与えられる御言葉、毎週私たちに与えられる神様の御言葉があったからこそ今の私たちは信仰を守りここまで来られたでしょう。私たちは弱いですが、神様は力強い御言葉によって私たちを引張り、導いてくださいました。私たちが患難の時に私たちに慰めと喜びを与えたのは神様の御言葉でした。エレミヤ15章16節を見ると「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。…」とあります。 今日のように、不安な時代もないでしょう。自分の足りなさのために委縮され、心が複雑になり、不安な時もあるでしょう。だからこそ御言葉をつかみましょう。父なる神様が私たちにふさわしい御言葉を与えてくださいます。ここにいらっしゃる皆さんにはすでに与えられている御言葉も多くあるでしょう。御言葉を堅くつかんで黙想し、祈りましょう。さらに、個人的に神様から約束の御言葉をいただくために聖書を読み続け、祈りましょう。毎日美味しく食べている食べ物が私たちのエネルギーとなり、力となることのように御言葉が私たちの生活の中で力となります。霊的エネルギーを与えてくださいます。楽しみと喜びを与えてくださいます。今週は受難週ですが、イエス様の受難とともに自分に与えられた約束の御言葉を深く黙想し、確信して行きますように祈ります。すべては約束された御言葉の通りになります。神様がアブラハムに言われたその時期に、サラが男の子を産みました。これは神様の時に、約束を成就させたことです。神様には神様ご自身の計画があり、その計画は、「神の時」に成就されます。イサクが生まれた時、アブラハムは百歳、サラは九十歳でした。アブラハムが信仰生活を出発してから25年ぶりでした。それでは神様はなぜアブラハムが願う時に子供を与えてくださらず、それほど長い年月の間待つようにされたのでしょうか。神様がイサクを与えられるまで、アブラハムを訓練されたことは何でしょうか。アブラハムは子供を得ることに関心がありました。しかし、神様はそれを通して彼に信仰を持たせることに関心がありました。アブラハムは目に見える祝福を願いましたが、神様は目に見えないもっと大きな祝福を与えることを願われました。神様は彼の霊的な目が開かれ、神様がどんな方であるかを知り、神様のみわざに用いられる人になることを願われました。神様はイサクの誕生が全く神様の力と摂理によるものをあることを現されました。もしアブラハムが願う時に子供が与えられたならアブラハムは信仰の奥義を悟ることができず、神様の愛と力を体験することができなかったでしょう。このように神様は時には私たちが願うことを直ちに与えてくださらない時があります。なかなか弟子養成ができない時があります。それはまだ神様の時になってないからです。神様は時になると、必ず私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが神様から一番良いものを受けるためには信仰によって神様の時を待たなければなりません。3、4節をご覧ください。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけました。そしてアブラハムは、神様が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施しました。「イサクと名づけた」ことは17:19の主の命令に従ったのです。このことによって彼は、この子が主によって与えられた約束の子であるとの信仰を告白しました。また彼がイサクに割礼を施したことも神様に命じられた通り行ったことです。アブラハムは、イサクこそが主の契約を受け継ぐ者であることを信じ、契約のしるしとしての割礼を施しました。イサクを産んだサラの喜びはどうですか。6節をご覧ください。サラは言いました。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」イサクは笑い、つまり、喜びという意味です。神様はアブラハムの家庭に喜びを与えられました。イサクはアブラハムが信仰によって得た実でした。90歳になったサラが赤ちゃんを抱いて乳を飲ませることは神様の力と恵みによったことです。サラは主の恵みに満足して笑いが止まらなかったでしょう。その喜びを考えながら私たちも笑って見ましょう「ハハハ・・・」。サラが笑うとき、今まで不妊の女として受けた羞恥、痛み、悩み、苦しみが消え去りました。そして神様が与える喜びに満たされました。信仰によって実を結んだことから来る本当の喜びでした。神様は私たちに喜びを与えてくださる方です。でも、私たちの人生はいつまでも笑うばかりで生きられるのではありません。家庭に問題も生じます。しかし、恐れることはありません。神様が助けてくださる方です。8節をご覧ください。イサクは育って乳離れしました。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催しました。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子、イシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。それを見たサラはハガルとイシュマエルを追い出すようにアブラハムに言いました。女奴隷の子とはいえ、アブラムにとってはわが子です。それ故、アブラハムは、非常に悩みました。その時、神様は彼に仰せられました。12節をご覧ください。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」しかしイシュマエルもアブラハムの子だから一つの国民とすると言われました。それでアブラハムは神様の御言葉に従ってハガルとイシュマエルを送り出しました。すると、神様はハガルとイシュマエルも顧みてくださいました, 。以上で、アブラハムも過ちを犯していたことが分かります。嘘つきであり、不道徳な人間になってしまう時もありました。彼も不信仰に陥り、悩み、苦しむ平凡な生活人でした。ところが、神様はあの軟弱なアブラムを放置して置きませんでした。超自然的な方法も用いて彼の家族を守り、彼との約束を守ってくださいました。このことを考えると大きな慰めになります。私たちが弱くても心の中心から神様の約束の御言葉をつかんでいるなら、必ず神様の約束の通りに行われます。どうか、神様の御言葉によって日々神様の愛と力を体験し、いつも喜ぶ信仰生活をして行きますように祈ります。