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14Genesis8M 人類の歴史とバベルの塔

14genesis8m, 人類の歴史とバベルの塔, 2014年創世記第8講人類の歴史とバベルの塔御言葉:創世記9, 18−11, 26要, 節:創世記11, 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」先週、私たちは大洪水の後に箱舟から出たノア、ノアに与えられた契約のしるしについて学びました。神様はご自分が創造した世界ですが、人が肉に過ぎないほどに堕落した時、大洪水によってさばかれました。でも愛と希望の神様は地球を完全に捨ててしまうことはなさいませんでした。地球という本体を壊さなかったのです。大洪水の後、かわききった地をリカバリします。箱舟から出て来たノアの家族を通して新しい人類の歴史を始められるのです。ではどのようにして人類の新しい歴史が始まったでしょうか。また、どのようにして人類に異なる言語が存在するようになったでしょうか。ここで、私たちはなかなかなくならない人間の罪、人間の高慢をさばかれる神様について学ぶことができます。?.新しい人類歴史(9:18−10:32) 9章18、19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」とあります。ここで、私たちはノアの3人の息子たちから全世界の民は別れ出たことが分かります。この3人はどのような人格を持っていましたか。 20、21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」 ここにはノアの失敗が記されてあります。酔っぱらって裸になっていることは醜態です。ぶどう畑で働く農夫だったノアがぶどう酒を飲むことは自然なことでしょう。ぶどう酒を飲んだことには問題がなかったと思います。ところが酒を一杯、二杯と飲んでいくうちに酔ってしまいました。判断力を失い、裸になっていました。これは本当に恥ずかしいことでした。だれにも見られてはいけないような姿です。ではこのノアの醜態に対する息子たちの反応はどうでしたか。 22節をご覧ください。「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。ここで「告げた」ということは嘲笑したことです。ハムは裸になっている父の醜態を見て嘲笑ったのです。「あれが信仰人の姿なのか。」と軽蔑しました。それに対し、セムとヤペテはどうしましたか。23節をご覧ください。「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」とあります。彼らはハムを通して父の恥ずかしい行動が分かった時に嘲笑いませんでした。そのままにして置くこともしませんでした。彼らは父の醜態に後ろ向きとなって行動しました。しかも、彼らは父の裸をおおいました。彼らは顔をそむけて、父の醜態を見ませんでした。彼らは父の弱さに同情し、父の恥をかばってあげたのです。これは息子として当然なことです。子どもは父を尊敬し、父の弱さをかばわなければならないでしょう。父親だけではなく、人の弱さに付けこむことはよくありません。私たちクリスチャンは神様の愛によって弱い人の手助け、フォローし、味方をするように気をつけていなければなりません。吉野弘さんの祝婚歌の中に「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい。」とあります。ほんとうにそうだと思います。ハムが「ノアが裸になっている」と告げるのはウソを言ったのではありません。正しいことです。でもそれが見られたことで恥かしく思う人を傷つけやすいものだと気付いていなければならないのです。ところが、そういう人より人の弱さに付けこむ人が多いです。人間は自分が完璧でもないくせに、他人には完璧な行動を要求します。他人の欠点、弱点をすぐに暴き立てようとします。 時々私は本屋で立ち読みをしていますが、週刊誌の記事はほとんどが告げ口です。人の失敗や弱さに同情し、かばってあげるような記事はほとんどありません。人の罪と失敗さらけ出して辱めようとしているような感じです。それはほとんどの人々が人のうわさや告げ口に興味を示すからでしょう。このような世の中で自分だけが人の弱さをかばい助けることはやさしくありません。人々の多くは強いものには良くあわせ、弱い者には厳しくなる傾向があるからです。しかし、私たちクリスチャンだけでも、人の弱点や欠点をすぐに暴き立てるようなことをしないように気をつけているべきだと思います。なぜなら私たちを愛しておられる神様の愛は多くの罪をおおうからです。ハムのように、人の罪と咎をあざ笑うものではありません。神様の愛は、セムとヤペテのように人の弱さをかばい助けることです。聖書に「愛は多くの罪をおおうからです(?ペテロ4:8)。」とあります。また、聖書に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストのうち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(?ペテロ2:24)」とあります。神様は私たちの罪と咎をさらけ出すようなことをなさいませんです。罪に定めない愛によって私たちの罪と咎をおおってくださいました。イエス・キリストはご自分の十字架の死によって私たちのすべての罪と咎を担ってくださったのです。私たちがセムとヤペテのように神様の愛を実践して行きますように祈ります。人の弱さを咎め立てるのではなく、人のために祈り、その弱さをかばい助ける愛の人に変えられて行きますように祈ります。10章はノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史です。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれました。最初にヤペテの子孫が書かれています。彼らは主にヨーロッパに住んでいる民族になりました。特に5節をご覧ください。「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」とあります。この表現が10章に何度も記されてあります。当然なことですが、ノアの3人の息子は同じ言語を話していました。ですから、その子孫も一つの民であり、一つのことばを話していたのです。そのまま、続いてきたらどんなに良かったでしょうか。ところが、残念なことに、11章を見ると分かるようにそのまま、続くことができませんでした。6節から20節まではハムの子孫が書かれています。ノアはハムを呪われましたが、彼の子孫の中から神様に反抗する動きが出ます。ハムの子孫の中ではニムロデに焦点が当てられています。10章8、9節をご一緒に読んでみましょう。「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。」「ニムロデ」とは、「反抗者、敵対者」という意味です。彼は地上で最小の権力者、力ある猟師ですが、学者たちはこのニムロデが中心になってバベル等を建てたと言っています。10節に「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった」とありますし、12節に大きな町を建てたことが記されてあるからです。ハムは父ノアに反抗的になっていましたが彼の子孫の中に反抗的であり、高慢なニムロデが生まれていることが分かります。私たちの人格が私たちの子孫に影響を及ぼすことが分かります。実際にセムの子孫からは信仰の先祖アブラハムが生まれます。そしてアブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれます。今の私の信仰と人格が私の子孫にも影響を及ぼすのです。私たちが自分からでも人の弱さに付けこむのではなく、すべての罪と咎をおおい助けることができるように祈ります。そうすると私たちの子孫にも良い影響を及ぼすことができるようになります。最後に、21節から30節までにセムの子孫が列挙されています。神様は、この子孫から救いのみわざを行われます。21節に「セムはエベルのすべての子孫の先祖であって」と記されてありますが、ここの「エベル」から「へブル」という言葉が出てきています。ここからイスラエル人はよく、「へブル人」と呼ばれているのです。以上が、その国々にいるノアの子孫たちの歴史です。大洪水の後にこれから、諸国の民が地上に別れ出たのです。これが10章の要約です。そして、どのようにして諸国の民が地上に別れ出るようになったのかについて記されているのが11章です。?.バベル塔(11:1−26)11章1、2節をご覧ください。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ニムロデが王国を立てたシヌアルの地に、人々は定住しました。そこで、彼らは互いに言いました。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは建築に石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いました。瀝青とはアスファルトのことです。レンガとアスファルトの開発は、当時として革命的な技術でした。レンガとアスファルトを用いると天の頂までの高層ビルを建てられるという確信を持つようになりました。そこで、彼らは一階、二階、レンガを積み上げて行こうとしました。では、なぜ人々はそれほど高い塔を立てようとしたでしょうか。それは人々の心にノア時代の大洪水に対する不安があったからだと思います。2011年3月11日に想定外の津波を経験した日本が不安になって想定外も想定していることと同じです。彼らは洪水が起こっても自分たちの町を守る方法を考えました。そこで彼らは天まで届く塔を立てようとしたのです。また、シヌアルの地に快適な街を作ったので、今までの生活が変わることを恐れました。バラバラに散らされてしまうと、新しい土地を開拓して生きて行かなければなりません。来週、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に派遣する礼拝をささげますが、新しい土地を開拓して行くことは決してやさしくありません。だから、人々は散らされてひとりぼっちになることを恐れ、みんなが塔の周りに集まって住もうとしたのです。特に、彼らはレンガとアスファルトという革命的な技術によって高ぶっていました。自分たちの力でユートピアが現実になると思ったようです。そうして彼らは神様の命令に背きました。神様はノアとその家族に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と命じられました。ところが、その子孫は、この祝福の命令を「散らされる」と否定的にとって、故意に神様の命令に背いてしまったのです。そこで、主は、彼らをさばかれます。5, 8節をご覧ください。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられる事はない。さあ、降りていって、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」とあります。先ほど話しましたが、今もなお全世界が一つの民として一つのことばで話すならどんなに良かったでしょうか。私たちは外国語を学ぶ必要がなかったのです。すべての人が日本語、あるいは韓国語だけを使うならどんなにいいでしょうか。英語勉強をしなくてもいいし、英語のためにストレスを受けるようなこともありません。ところが、バベルと言う町において、人間が高ぶって神様に反抗したので、神様は彼らの言葉を混乱させました。そのため、ノアの3人の息子から出て来た子孫は、違う言葉を話すようになりました。異なる民族を形成するようになりました。9節をご一緒に読んでみましょう。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」 この混乱は、ヘブル語で、「バラル」と発音するそうです。すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたのでばらばらに散らされて行きました。結局、シヌアルで人間が自分の力で自分を守り、自分の名を有名にしようと建て始めたバベルの塔は失敗しました。ここで、私たちは大切な教訓を得ることができます。私たちのうちにもバベル塔を建てようとする野望があるからです。ノンクリスチャンと比べれば素朴に謙遜に生きていると思われるかも知れません。でも、私たちのうちにもシヌアルの人々のような心の持ち主がいあるでしょう。ような東京の平地で安定的な生活をしながら地位も名誉もある生活をしたがる要素があるのではないでしょうか。年の初めには「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えよう」と決心しましたが、いつの間にか、霊的な望みよりも現実的な生活に縛られている時はないでしょうか。自分のためにいろいろ計画を立てて自分の力で一階、二階…とバベル塔を建てあげて行くのです。神様に頼って祈り求めるのではなく、自分の知恵を尽くして自分の計画、自分の目標に向かって行くのです。私たちは日々謙遜に神様に頼って祈り、洪水以前のノアのように神様とともに歩んでいるでしょうか。シヌアルの人々のように自分の力でバベル塔を建てているでしょう。神様がご覧になっておられます。そして、決定的なときに神様は降りて来られます。ノアのように救われるか、シヌアルの人々のようにバベル塔が倒れ、混乱してしまうかは私たちが神様の御前でどのような態度で生きているかにかかっています。、先週、日ごとの糧を通してアサ王を通して謙遜と傲慢の結果をはっきりと見ることができました。アサ王の人生の朝は非常に良かったんです。彼は人生の朝にその神、主に叫び求めていました。心を尽くして主を求めました。すると神様は彼に平安をくださいました。彼に勝利をくださいました。預言者を通して彼が信仰によって生きるように激励してくださいました。彼に会ってくださいました。彼だけではなく、彼の回りにも平安をくださいました。しかし、彼が祝福されて安定した時、祈る代わりに、主の祝福によって与えられた主の宮と王宮の宝物倉から銀と金を取り出してアラム王に送り届けて人の助けを求めると彼の国に悲劇が始まりました。神様は予見者ハナニを通してアラムを鳴らし、悔い改める機会を与えましたが、その時も悔い改めませんでした。結局、彼は両足とも重い病気にかかって死にました。傲慢は滅びに行ったのです。結局、私たちが神様に祝福されてどこに行っても勝利することは常に謙遜になっていることです。ハムのように人の失敗を指摘し、正しさを主張する前に謙遜になって人の弱さも失敗もかばい助けるのです。神様の祝福によって安定的な生活ができる時に気をつけるべきは傲慢になってバベル塔を建てることです。もちろん、自分の力でもいろんなことができるでしょう。スカイツリーよりも高いビルを建てることもできるでしょう。私たち人間にはそういう力があります。でも、私たちが傲慢になっていると、神様はどう思われます。神様はこの地に下りて来られ、混乱させます。すると、傲慢は滅びに至ります。神様がバベル塔を建てようとして人々を混乱させましたが、それでも人間に対する希望は捨てませんでした。神様は決して人間にあきらめたりされませんでした。神様は、民族として互いに分れてしまった人間を、どのように祝福されるか考えられました。そこで、神様は、まったく新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられたのです。神様により頼み、神様に仕える民族を生み出し、世界に散らされた民族を、その新しい民族によって祝福する計画を立てられました。それが、イスラエルであり、そのイスラエルの先祖がアブラハムです。26節をご覧ください。神様は、セムに与えられた祝福のことばを、このアブラハムによって実現されます。このことは来週から学びます。どうか、今日の御言葉を通して神様の愛を実践する者、謙遜に神様に頼って生きる者として変えられて行きますように祈ります。私の子孫に良い影響を及ぼすことができる人格を形成して行きますように祈ります。

14Genesis6M 主の心にかなっていたノア

14genesis6m, 主の心にかなっていたノア, 2014年創世記第6講 主の心にかなっていたノア御言葉:創世記6:1−22要 節:創世記6:8「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」 今日は東京UBF教会開拓26周年記念礼拝をささげています。ここまで私たちを助け、導いてくださった神様の恵みを心から感謝します。今日まで来たのは主の恵みです。新聖歌331番をご一緒に歌ってみましょう。, これからも、神様は私たちのうちに力あるわざ、しるしと不思議を行なわれ、私たちひとりひとりを助け、導いてくださることを信じて感謝します。振り替えてみると神様は私たちが足りなくても小さなノアとして生きるように守り、導いくださいました。日本はクリスチャン人口が1%にも至らないと言われています。自分のクラスでたった一人きりのクリスチャン、職場でただひとりのクリスチャンである場合が多いということでしょう。こんな時代にあってもノアのように生きようとする方たちがいますし、この教会にもいるということは大きな感謝です。, 私は海外に行くと、「日本宣教は難しいでしょう」と言われる場合が多くあります。すると、私は「人数は少ないけれども、敬虔なクリスチャンがいますよ。」と答えます。事実、私は26年間宣教師として働きながら日本のクリスチャン、UBFの牧者、兄妹姉妹たちから多くのことを学び、感動する時も多くありました。そういう意味で26周年の礼拝にノアを深く学べることは神様の導きではないかと思われます。どうか、本文の御言葉を通して主の心にかなっていたノアを深く学び、私たち自身も主の心にかなっている者として成長して行きますように祈ります。 ノア時代はイエス様が最も堕落した時代として取り上げられた時代です。イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」と言われました。では、ノア時代は具体的にどうでしたか。, 2節をご覧ください。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。ここで、「神の子ら」とは神様を信じたセツの子孫であると思われます。, 先週、学んだように、人類は二つの流れに分かれました。カインの家系とセツの家系の二つに分かれていたのです。カインの子孫は自分の力で町を作り、人間中心の文化を発展させていきました。一方、セツの子孫は礼拝と祈りを重んじて行きました。素朴ながら、神様を信じる信仰と祈りを受け継いで行きました。彼らは神様と共に歩む生活の中で驚くべき長寿を恵まれました。メトシェラは969年も長生きしました。自然で、素朴な生き方をしているセツの子孫は美しく魅力もありました。ところが、神の子らが人の娘たちを自分たちの妻としました。そこで不敬虔で不道徳な人々が敬虔な人々の娘たちを交わるようになっていたのです。すると、セツの子孫はカインの子孫に影響されました。彼らも不信仰、不道徳な人になって行きました。ついに、世界は神様なしに、十分に楽しくやって行けると考える人々の勢いに圧倒されてしまいました。祈ることを始め、敬虔に生きていた人々でさえ、その人格によってではなく、肉体的、性的な美しさを重んじる世界になってしまいました。人々は生きれば生きるほどに、人として本来あるべき姿を失い、腐敗して行きました。そこで、神様はどう思われましたか。, 3節をご覧ください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。」とあります。神様が創造された人間は神様とともに永遠に生きることができました。しかし、人間が罪を犯した罪のために死ぬべき者となりました。それでも神様は人間に900歳代という長生きを許しておられました。ところが、神様は人間の寿命を120年に引き下げられると宣言なさいました。それは人が肉にすぎないからです。本来、人間は神様との交わることができる霊的な存在として造られました。神様は人のうちにとどまられ、人と交わることを喜んでおられたのです。しかし、肉にすぎない人のうちに神様が永久にとどまることはできなくなってしまいました。長く生きれば生きるほどに、罪をたくさん犯していく人間の現実を見ると、長生きも祝福ではなくなりました。むしろ、寿命を短くした方が恵みであると言えるようになっていました。なぜなら、肉にすぎない人間ばかり増えるし、神様より人間の力を誇る者が増え続けて行くからです。, 4節をご覧ください。「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」とあります。人間が腐敗して肉体的な価値観に染まって行くと、その結果としてネフィリムが生まれてしまいました。ネフィリムとは巨大な体の持ち主、巨人族のことです。彼らが昔の勇士であり、名のある者たちでありました。つまり、神様に祈り、神様とともに歩んでいる敬虔な人よりもネフィリムのような人が有力な人になっていたのです。背が高く、体力、財力を持つネフィリム族が勝ち組で、その力が正義となっている時代になっていました。弱き者は見下され、敗者はさげすまれる時代でした。イケメンが好きで神様に祈る人、神様とともに歩む敬虔な人は嫌われるような時代になっていたのです。このように、肉にすぎない悲惨な状態になってしまった人間社会に対する神様の御心はどうでしたか。, 7節をご一緒に読んでみましょう。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」神様は人の悪、いつも悪いことだけに傾く人間、神様から離れて行く人間をご覧になりましたが、あまりにも悲惨な状態でした。11,12節によると、暴虐に満ちていました。すべては神様から離れて行った人間の罪の結果です。だから、私だったら、腹が立って「こんな人間を一気に滅ぼしてしまおう」と思ったでしょう。神様は人に近づき、愛し続けたにもかかわらず、人が神様から離れて行き、堕落してしまったからです。人間は怒られても完全に捨てられても文句を言えない状態になっているのです。だから神様もそのまま置いてしまっても、滅ぼしてしまってもいいのです。しかし、神様はすべてを人間のせいにしませんでした。ご自分が地上に人を造ったことを悔やまれ、心を痛められました。神様は人の罪をご自分のものとして、深く心を痛められたのです。ダメな子、出来の悪い子のために、どこまでも心を痛める父、母のような神様の愛を感じます。, 神様は自分の罪の中にあって、罪の恐ろしさを知らず、かえって罪を誇りとしている人間なのに、その人間に対して寛容だったのです。人間の罪だけを指摘して責めるようなことをなさいませんでした。むしろ、その罪をご自分の問題として悲しみ、心を痛められるのです。ここで、神様の寛容とあわれみを学びます。私たちがどんなに酷い状態に陥っていても、神様は裁判官のように私たちの罪をさらけ出してさばくのではありません。むしろ、私たちの弱さに心を痛められる神様です。しかし、主なる神様は罪や悪と永遠に共存できるお方ではありません。きよく、正しい神様は少しの汚れも共存することはできないのです。きよく正しいお方であるだけに不敬虔や罪に対する怒りも大きいものです。そこで神様の悩み、言葉で言い尽くせない心の痛みがあったことでしょう。この神様の御心を仰ぐとき、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」という言葉が私の心に伝わって来ます。その決心の重さがどれほど重かったでしょうか。私には計り知れません。ご自分が造られたものを、ご自分の手で打ち壊さなければならない神様の御心はどんなに痛かったでしょうか。その御心は、アブラハムが自分の子どもイサクを自分の手で祭壇にささげ、殺そうとした時よりもはるかに深かったでしょう。その心痛は罪深い私たちを救うためにご自分のひとり子を十字架につけて死なせる時に通じていると思われます。では、神様がご自分の創造のやりなおしをされようとしておられた時に誰が主の心にかなっていましたか。, 8節もご一緒に読んでみましょう。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」これは、「しかしノアは主の恵みにかなっていた」と訳することができます。【新共同訳】では「しかし、ノアは主の好意を得た。」と訳しています。ノアは神様の前に恵みを見出していました。つまり、彼は他の人たちと同じく自分の力によって頑張って神様の御心にかなっていたのではなく、主の好意を得ていたのです。その主の恵みによって神様とともに歩む人でした。主の心にかなっていたから恵みを得ていたのか、恵みを得ていたから主の心にかなっていたのか、は卵が先か、鶏が先かと言う問題のようです。ただ、私はノア自身もその時代の人々とは違って神様とともに歩んでいたのですが、神様の好意を得たからこそ主の心にかなっていたと思います。ノアが生きている時代の人々は神様から離れていました。人々は人間の体力、学力、財力、権力などを崇め、愛していました。ほとんどの人が肉欲、物欲の奴隷になり、この世と調子を合わせていました。しかし、ノアはこの世と調子を合わせませんでした。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神様に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える生活をしていました。それで、彼は神様の御前に好意、恵みを得ていました。神様は彼に御目を留められました。ノアはイケメンではなくても、神様の目には信仰の巨人でした。神様はこのノアに手を伸ばされ、人類の救いのために用いようとされました。人々はノアとその家族に目を留めなかったのですが、神様は彼とその家族に目を留められ、肉にすぎない人々、どうしようもない、救いがたい人類を救うために用いられるのです。このように、神様は今も小さなノアたちを用いてこの日本と世界に救いの手を伸ばされます。ノアのように神様から恵みを見いだして生きようとしている人々を通して救いのみわざを成し遂げて行かれるのです。 私たちが住んでいる日本におけるクリスチャン人口は本当に少ないものです。私たちUBF教会を開拓してから26周年になりました。その間、私たちの教会は成長して来ました。でも、今なお日本のクリスチャン1%の壁を壊すことができませんでした。去年の調査によると、主日礼拝に参加しているクリスチャンは人口の0, 4%であるそうです。だから、私たちクリスチャンは自分の家族の中で自分だけがクリスチャン、学校に行けば、クラスの中でただ一人、学校でもたった一人きりのクリスチャンだという方が多いでしょう。それで、去る26年間、私たちの教会に来られた方たちの中では数多くの方たちがノアのように生きることをあきらめました。100人の中で自分だけがクリスチャンとしてアイデンティティを持って主の心にかなっている生活をすることはやさしくなかったでしょう。 しかし、考えてみればそのような現実があるからこそ、この日本でノアのように生きようとしている人々は神様にもっと喜ばれることでしょう。今はノアの時代のようにイケメンが好きで、美しさばかり求める人々が多いからこそ、神様はノアのように敬虔に生きようとしている人々に目を留めてくださるのです。皆さんには神様の目を留められているのです。これは大きな恵みであり、特権です。そして、神様はノアのような人々を通してこの日本と世界に救いの御手を伸ばそうとされます。それで、今日も、私たちが自分の家族の中で、クラスの中で、学校で、職場で、ノアのように主の前で恵みを得る者として生きることを願っておられます。主なる神様の心にかなっていたノアのように生きることです。では、ノアは具体的にどのような生活をしていましたか。9節をご覧ください。「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。正しい人であったというのは神様と正しい関係を持っていたことを意味します。彼はネフィリムのように自分の力を誇るのではなく、神様に頼り、神様に祈りながら神様と交わる生活をしていました。全く神様を信頼して生きていたという点において全き人でした。人々が肉にすぎないほどに堕落した時代にあっても全く神様に頼り、神様とともに歩んでいました。そのように生きることはなかなか難しかったでしょう。この世と調子を合わせず、職場の雰囲気に調子を合わせないと、空気を読めない人間だと言われるでしょう。回りの人々から非難されたり、疎外されたりします。はなはだしくは虐められる時もあるでしょう。ところが、ノアはそのような状況の中でも、罪の文化、世と調子を合わせませんでした。神様の御前で確かな価値観を持って神様の御言葉に従って生きる生活に励みました。99%の人々が飲んだり、食べたりすることを大切にしていても自分は敬虔に生きようとしていたのです。11節を見ると「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」ことが分かります。それほど堕落し、暴虐で満ちていてもノアは神様とともに歩んでいたのです。それで、神様はノアにどんな恵みを施されましたか。13, 14節をご覧ください。「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」とあります。神様はノアに裁きの計画を言われてから箱舟を造るように言われました。そして箱舟の大きさや形やどんな材料を使うかについて詳しく言われました。ゴフェルの木は舟の材料としては最高のものでした。木のやには防水の役割をします。箱舟の長さは約140メートル、その幅は約23メートル、その高さは約14メートルです。総容積は、40, 立方メートル近くにも達し、そこから導き出される排水量は、ほぼタイタニック号にも匹敵するものです。ノアの神様の御言葉に対する畏敬心はどうでしたか。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」120年後に洪水が起こるから箱舟を準備するように言われた時、それを信じて準備することはやさしくなかったでしょう。また、それを作り上げる作業は大変なものです。ノアはそういう内的外的障害を越えて神様から言われた通りに箱舟を用意する生活をしました。彼は適当に自分の都合に合わせたのはありません。神様が命じられた通りにしたのです。そしてこの箱舟を教会のひな型として見ることもできます。教会は罪に満ちたこの世の海の中に浮かぶ箱舟であるということです。そしてこの箱舟は、神様の御心に従うクリスチャンが作り上げなければなりません。イエス・キリストが来られるその日までは箱舟を作る期間であるでしょう。そして、イエス・キリストを信じる者はだれでもこの箱舟の中に入ることができます。この箱舟に入っていれば、安全です。やがてキリストの再臨の時がやって来ます。その時、この世は、終末のときさばきによって滅ぼされます。しかし、その時、ノアのように生きていた人、神様とともに歩んでいた人は救われます。つまり滅ばないで永遠の命を持つことができるのです。どうか、私たちが忠実に現代の箱舟である教会を作り上げて行きますように祈ります。ノアのように主の御名によって祈り、御言葉に忠実に従いますように祈ります。特に、東京UBF26周年を迎えたこの日、救いの箱舟であるこの教会を作り上げてゆく心を新たにして行きたいと思います。私たちひとりひとりがノアのように生きようと信仰の決断をして神様とともに歩んで行きましょう。主の心にかなっていたノアのように生きることを決断して行きましょう。どうか、全く神様に信頼する全き人として御言葉に忠実に従いますように祈ります。

14Genesis12M あなたを多くの国民の父とする

14genesis12m, あなたを多くの国民の父とする, 2014年創世記第12講, 李ヨシュア)あなたを多くの国民の父とする御言葉:創世記17:1〜27要, 節:創世記17:5 「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」 , 今年も桜の季節がやってまいりました。東京でも、パンパンになっていた桜の蕾が、春の暖かい陽気で一気に咲き始めました。江戸時代後期に日本を訪れたイギリスの植物学者ロバートフォーチュン, robert, fortune、1812, 1880, は、綺麗な八重桜を目にして、「どこの国でも春は美しいが、日本の春は格別だ」と書き記したそうです。人は誰でも桜のようにいつも綺麗で美しく生きたいものです。また桜のような華々しい花を咲かせる人生になれば、と願っているはずです。今日の御言葉の個所には、アブラハムとサラに対する神様の願いが記されています。神様は15章8節で彼と契約を結びましたが、17章でも、もう一度神様は契約を結ばれます。この契約によって、アブラハムの人生は大きく変わるだけでなく、彼の人生において節目となる祝福の御言葉を受け取ります。この箇所以降から彼は「多くの国民の父」として相応しい信仰の持ち主として成長しつつ、信仰の父と呼ばれるようになります。まるで多くの人々に愛されている満開の桜のように、彼の信仰は多くの人々に受け継がれ、そして愛されるようになるのです。私たちも神様の御言葉を信じ、多くの国民の父及び母となりますよう、願いつつ、祈って行きましょう。1節をご覧ください。主がアブラハムに現れて再び契約を立てられたのは、アブラムが99歳の時でした。主の約束の子でもないイシュマエルが生まれてから、すでに13年の年月が流れてしまいました。アブラムは「天を見上げ、星を数えることが出来るなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と言われた主を信じ、義と認められました。それなのに、13年もの間「首を長くして」ずっと待ち続けても、約束の子供はなかなか与えられませんでした。それで彼は、「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。」, 詩13:1, 、と心の中で叫んでいたかもしれません。そして、この時はもう諦めてしまっていたはずです。そう思います。でも、そんな時に、神様はアブラムに現われたのです。主である神様は真実な方ですので、決して約束を忘れたり破ったりはしません。主は約束されたものは必ず守る方なのです。その主はアブラムに何と言われたのでしょうか。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」, 。主はご自身を「全能の神である」と言われました。「全能の神」とは、ヘブル語では「エール・シャッダイ」であるが、「シャッダイ」とは「乳房」という意味も持っています, イザヤ60:16, 。つまり主である神様は、全知全能の神であると共に、祝福を注ぎ出す源でもあるのです。この方の前でアブラムはどう生きていくべきでしょうか。主はこう言われます。「わたしの前を歩み、全き者であれ」, と。これは全能の神の前に完全な者、欠点のない者となれ、という意味ではありません。もしそうであるならば不可能です。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです, ローマ3:10, 。ですから、私たちは自分の弱さや罪深さを謙遜に認め、主だけを頼り信仰によって歩んでいくべきなのです。2節では、主は「わたしの契約」と言われます。それはこの契約が主ご自身の計画によるものであることを示しています。しかも神様のほうから手を差し伸べて、不完全な人間と契約を結ばれたのです。この契約は永遠に変わらない契約ですので、いつまでも有効なのです。それでは、なぜ全能の神様はご自分とアブラムとの間に契約を立てられたのでしょうか。ここからはその契約の内容や意味について、考えてみたいと思います。第一に、神様はアブラハムとサラが、「多くの国民の父と母」になることを願っておられるということです, 。5節ご覧ください。神様はアブラムに言われました。「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである」と。ここで「アブラム」は、「アブラハム」と呼ばれるようになります。アブラムは「高められた父」を意味しますが、アブラハムは「多くの国民の父」を意味します。また、15, 16節を見ますと、神様はアブラハムの妻「サライ」の名も「サラ」と変えてくださいます。サライとは「私の女王」という意味があるそうですが、おそらくサライは生まれた時から美しく、他の女性とは異なった気品を感じさせる人だったのかもしれません。65歳になった彼女に対して「見目麗しい女だ」, 12:11, 、「その女は非常に美しい」, 12:14, 、といった人々の言葉がそれを物語っています。しかし、サライがいくら美貌をもつ女性だとしても、いつかは老いて死んでしまいます。そのようなサライを神様は「多くの国民の母」という意味のある「サラ」に改名してくださったのです。名はその人の実体, 人格, を表わすと言われます。古代の中東においては、人の名前には意味があり、家系, 家門, のしきたりに従って名をつけるのが一般的でした。日本では一般庶民が名字を名乗ることを許されたのは1870年頃で、それ以前までは出身地や職業、自然、身体上の特徴などを通称として用いていたそうです。明治以後の法令によって庶民も全員、名字をもたざるを得なくなったので、次々と新しい名字が誕生したといいます。例えば、「一二三 ○・」, ひるみ・まるちょん, とか、「平平 平平」, ひらたいら・へいべい, とか、・・・。現代日本では「響きの良し悪し」で名前をつけるという風潮がありますが、ちなみに昨年の赤ちゃんの名前のランキングトップ3は、男の子が「大翔」, ひろと, 、「蓮」, れん, 、「悠真」, ゆうま, 。女の子が「結菜」, ゆいな, 、「陽菜」, ひな, 、「葵」, あおい, の順だったそうです。私たち自身の名前も、私たちの親の子に対する願いが込められているだろうと思います。では、アブラハムとサラの願いはどんなものだったのでしょう。アブラハムは、イシュマエルの父として、また一家の家長として、そしてサライの場合は子供が産めないこともあり、夫アブラムに愛される一人の女性として、2人とも毎日一家団欒での楽しいひと時を過ごしたいくらいしか思っていなかったのではないでしょうか。しかし、アブラハムとサラに対する神様の願いは違いました。神様は彼らが「多くの国民の父」「多くの国民の母」となることを願っておられたのです。ここに神様の大きな希望があるわけです。自分では変ろうとしても変えることができない自己を、主は完全に変えてくださるのです。主によって寺崎平八郎さんの名が「寺崎アブラハム」に変えられました。名前が変わるということは単に形式的なことではありません。名前が変えられるということは、内容も中身も変化するということであり、生き方も変わるということなのです。ところで、親のつけた名前を、今日からあなたは「アブラハム」と、あなたは「サラ」と呼ばなければならないと言われたら、恐らく“いや、今のままがいいです”という人も多いでしょう。勿論クリスチャンだからといって、クリスチャンネームに変える必要はないと思います。生まれてからずっと親しみを持っていた名前で主の御業に仕えることができれば、それもいいことでしょう。ですから、クリスチャンネームを好み、“はい、そのように呼ばれたいです”と願えることも、神様の恵みではないでしょうか。なぜかというと、神様の願いには全人類の救いの意味合いが込められているからです。神様が私たち一人ひとりを通して、この国に願っておられることは何でしょうか。それは、この国の多くの人々がキリストを信じ、全世界の国民の父と母となることでしょう。きっとそれが主の願われるジビョンであるはずです。先々週はこの教会に2人の方が訪れました。聖也さんと彼の祖母です。主にあって出会い、一緒に礼拝を捧げられたことは、本当に嬉しいことです。聖也さんの家族は敬虔なクリスチャン家族で、多くの人にキリスト教を知ってもらいたいと願って、よくチャリティー活動をしているそうです。彼に対する祖父母や両親の願いが何であるかは、機会があれば直接に聞いてみたいのですが、恐らく自分の孫や子供が信仰の持ち主になってほしい、と祈っていることでしょう。私はサラ宣教師から聖也さんの祖母の信仰の話を聞き、主が百人隊長に言われた御言葉が思い浮かびました。マタイ8章10節です。「・・・わたしはイスラエルのうちの誰にも、このような信仰を見たことがありません。」第二に、神様はアブラハムと関係を持たれることを願っておられるということです, 。主はアブラハム及びその子孫と代々にわたる永遠の契約を結んでから、その契約を守るように言われました, 。それから、主はその契約のしるしとして「あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい」と命じられました, 。「割礼」とは男性の性器の包皮を切り取るということですが、そのような儀式はイスラエル民族だけのものではありません。しかしイスラエルにとって、割礼は「神によって命じられた、神との契約のしるし」でした。「しるし」とは、それを見て主の契約を民が思い起こすためのものであり、また、主ご自身がそれをご覧になってご自身の契約を思い起こすためのものです。後に割礼は形式化し、割礼そのものが特権とされて行きます。しかし、主はこう言われます。「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」と, 申30, 。つまり「心の割礼」は、心砕かれて、心から主に信頼するようになることなのです。スイスの哲学者・文学者であるアンリ・フレデリック・アミエル(henri, fr?d?ric, amiel, 、1821, 1881)の『アミエルの日記』にはこういう内容が書いてあります。「心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば、人生が変わる」。16世紀のヨーロッパを席巻した宗教改革の精神は「聖書に帰れ」でした。この運動によって多くの人が聖書に帰り、聖書に親しみ、信仰による素晴しい救いを体験するようになりました。パウロはいつものように、当時、初代教会の聖書であった旧約聖書に帰り、神に喜ばれる生きた信仰の原点として、ユダヤ人が誇っていたアブラハムの信仰に注目させます。それは割礼を受ける前に、アブラハムは主を信じ、義と認められた, 創15:6, という御言葉です。「神様と正しい関係に入れられた」という中身を保証するしるしが外側の割礼でした。これによって、アブラハムは割礼を受けていない異邦人と割礼を受けたユダヤ人の両者にとって、すべて信じる者の「信仰の父」となったのです, ローマ4:11, 。第三に、神様はアブラハムが信仰を持ち続けることを願っておられるということです, 。15, 16節をご覧ください。主はアブラハムの妻サライの名もサラに変えてくださいました。それはアブラハムだけではなく、妻サラも共に祝福に預かるためでした。いくらアブラハムに強い信仰があっても、妻サラが不信仰に陥って足を引っ張るなら、主の御業はすべて水の泡になってしまいます。ですから、救いの御業に何よりも大切なものは、夫婦が一心になって祈り、協力し合うことです。16節をご覧ください。女性の方に読んでいただきましょう。「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る」と。主は一年後に「サラによって」、一人の男の子が生まれるとはっきりと言われたのです。その子の名は「イサク」です。しかし、彼はその神様の約束のことばを信じることができませんでした。彼は笑い、心の中で「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか。」, と言いました。日本ではプロテスタント宣教開始から150年が過ぎた今でも、クリスチャンは全人口の1パーセントに満たないほど少数です。いくら伝道しても、何も手ごたえがないように思えることもしばしばです。しかし、アブラハムとサラも初めから信仰の持ち主になったわけではありません。ローマ人への手紙4章やヘブル人への手紙11章には、アブラハムの信仰がクリスチャンの鏡のように賞賛されていますが、この箇所を見ますと、アブラハムの信仰は、からし種一粒ほどの小さな信仰でした。私たちのように弱く不信仰な性質をもった人間でした。ところが、神様と交わっていくうちに、アブラハムとサラの信仰は強くなり、「多くの国民の父と母」となったのです。来月6日には福岡開拓礼拝が行われます。今日の礼拝には、竹下さんが参加するそうです。直美牧者は住み慣れていた東京から離れ、主の約束された福岡で新しい生活を始めたばかりですが、その彼女に主はこう言われます。「わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る」と。ハレルヤ!今年はイサクのような人が彼女から出て来られますように祈ります。またヨセフ宣教師に毎週力強いメッセージが与えられますように祈りましょう。最後に、皆様に一つの詩を紹介します。この詩には、直美牧者とブリスガ牧者に対する主の願いが含まれてあります。題目は「すごいのじゃ、あの方は」です。「・・・?.あの方は、おっしゃる。あなたは国々の母、あなたのふところには東京がある。日本がある。世界がある。/私はあなたの祈りがほしい。あなたのあたたかい心と涙がほしい。あなたの望みになりたい。/そして二人で手をつないでやりましょう。あなたのふところにある命を咲かせましょう。私の言葉は命を育むもとになるから、とおっしゃる。/あの方の望みを前にして、私の心はウキウキ、ときめいている。私は国々の母になれるのだ。私のふところにある命が見えて来る。子孫たちが近づいて来る。/これから後、どの時代の人々も私を幸せ者だと思うでしょう。/すごいのじゃ、あの方の望みは。」, 李リベカ

14Genesis11M 星を数えることができるなら、それを数えなさい

14genesis11m, 星を数えることができるなら、それを数えなさい, 2014年創世記第11講星を数えることができるなら、それを数えなさい御言葉, 創世記15, 1−16, 16要節, 5「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」フランスの数学者・哲学者・思想家だったブレーズ・パスカルは「神を感ずるのは心情であって理性ではない。これが信仰と言うものである。」と言いました。私も共感しているところです。アブラムを召され、彼を導かれた神様を理性では理解することができません。アブラム自身も理性では神様の導きが理解できなかったことでしょう。ところがアブラムは心情で神様を感じ、御言葉を信頼して従いました。すると、彼は神様の御言葉を体験することができます。そうしてますます深く神様と交わり、信仰が成長して行きました。先週、14章を通して学んだようにアブラムはロトを救い出すために自分の家で生まれたしもべ318人を召集してケドルラオメル大同盟軍と戦い、勝利しました。でも、それは理性では理解できない非常識、無鉄砲の行動でした。何とか国々の王たちと戦って勝利しましたが、戦いの後には連合軍の報復を恐れるようになりました。その上、命がけの戦いで救い出したロトは再びソドムの地での世俗的な生活に戻ってしまいました。この現実を思うと、ほんとうに寂しく、虚しくもなりました。そんなアブラムに主のことばが臨まれました。神様は現実の問題に縛られているアブラムに約束の御言葉を与えられます。彼の家庭の問題も解決してくださいます。この時間、御言葉を通して偏狭な自分の世界、現実問題から目を上げて神様の世界を仰ぎ見ることができるように祈ります。神様の御言葉を信じて神様に義と認められ、祝福される人生を生きることができるように祈ります。?.恐れるな。わたしはあなたの盾である15章1節をご覧ください。「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」」とあります。神様は連合軍の報復を恐れているアブラムに「アブラムよ。恐れるな。」と励ましてくださいました。神様は「アブラムの盾である。」から恐れる必要がありません。「盾」は昔の戦いで自分を守る武器です。現代の家やパソコンを守るセキュリティ・システムと言えます。神様は最高のセキュリティ・システムより安全に私たちを守ってくださるお方です。神様は高感度のセコムのレーザーセンサーよりも遥かに高い感度の聖霊のセンサーで私たちを守ってくださいます。それだけではありません。神様は報いてくださる方です。神様は「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と約束してくださったのです。実際に、神様が信仰によって良心的に生きている人が受ける報いは非常に大きいです。やがてアブラムは体験して行きます。子どもが生まれるし、あらゆる面で祝福された人生であると告白するようになります。 ところが、私たちはアブラムと同じく、神様の御言葉に従って来たにもかかわらず今の状況が良くなければ恐れと不安感に苛まれます。漠然として不安感に苛まれて苦しんでいる人もいます。何度も挑戦したのになかなか就職が決まらないと不安になります。「はたして就職できるだろうか」と恐れます。就職すると安心して生きられるでしょうか。会社員は「リストラされるかも知れない。」「この会社が倒産するかも知れない。」と言う不安感に苛まれている場合が多いです。未婚の方は結婚に対する不安と恐れがありますが既婚の方は子育てや子どもの将来のことで恐れ、不安感に苛まれて苦しみます。それだけではありません。今月8日未明に乗客乗員239人を載せたマレーシア航空機が姿を消してしまいました。いつ、どこで何が起こるか分かりません。通り魔事件もあります。会社生活、社会生活の中では中傷・あざけり、おどし等などが私たちに襲って来ます。私たちが信仰によって勝利したとしてもサタンの報復は終わっていません。私たちの敵であるある悪魔が、ほえたけるししのように食いつくべきものを捜し求めながら、歩き回っています(?ペテロ5, 8)。だから、私たちはしばしば恐れと不安感に苛まれて苦しむのです。しかし、神様を信じている人は恐れなくてもいいです。神様は私たちにも言われます。「アブラハム寺崎よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」「祈祷よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」神様は必ず私の盾、あなたの盾となってくださいます。この険しい世の中でも、神様は私たちを守り、私たちの行く先々に勝利を与えてくださいます。また私たちの受ける報いは非常に大きいものになります。 ですから、私たちは安心して平安に生きることができます。私たちが理性的に考えないで心から神様に信頼するならば、私たちは衣服の下に防弾チョッキを付けているようなものです。神様があらゆる敵から私たちを守ってくださるからです。また、神様は神様を信じて生きる私たちに報いてくださいます。私たちの受ける報いは非常に大きいものです。 ○○牧者はフランスで留学してきて東京大学を卒業しました。日本社会で言うところの典型的エリート街道驀進中のキャリアウーマンでした。でも、イエス・キリストを信じてからアブラムのように新しい出発をしました。世間では理解できないほどに貧しい留学生と結婚してアルバイトしながら学生の夫を支え、二人の子育てもしてきました。将来に対する恐れと不安もあったことでしょう。でも彼女は○○姉妹を始め、兄弟姉妹たちに仕え、赤門フェローシップのみわざに同労して来ました。オーケストラを結成し、忠実に仕えて来ました。それにもかかわらず、夫の崔ヨセフ宣教師の卒業が伸ばされ、就職がなかなかできなかった時もありました。ヨセフ宣教師が福岡に行っている2年間は夫と離れて生活をしてきました。時々、このような事情を考えると私自身が心配になりました。ところが、神様は今年ヨセフ宣教師を福岡ubfの支部長、九州でトップの秀才が集まる九州大学の準教授にならせてくださいました。すでに兄弟姉妹たちも送ってくださって霊的に育てるようにしてくださいました。 私はこの家族を見ながら神様がご自分を信じる者たちの盾となって守ってくださること、彼らに非常に大きい報いがあることを深く悟り、確信するようになりました。神様は決してご自分を信じる者たちが滅びるようにすることはなさいません。ご自分の子どもたちを手放して置くこともなさいません。宇宙的なセキュリティ・システムで私たちを守り、私たちの将来を保証してくださいます。神様は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいます。私たちの盾となり、非常に大きい報いとなってくださる神様に心から感謝を申し上げます。 ?.天を見上げなさい 2, 3節をご覧ください。「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」とあります。アブラムは神様から「非常に大きい報い」と言われても理解できませんでした。彼の心には子どもの問題しかなかったからです。そこで、彼は「私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と言いました。彼は落胆していることが分かります。私たちもなかなか自分の問題が解決されない時は、神様の御言葉が聞こえません。神様は大切な事ほど小さな声でささやきますが、それを聞き取ることができないのです。では神様はアブラムをどのように助けてくださいましたか。4節をご覧ください。「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」」とあります。原語のヘブル語では、かなり強い語調で「その者があなたの跡を継いではならない。」と命じられているそうです。神様は、強い意志でアブラムから生まれてくる者がいるのだとおっしゃったのです。神様はアブラムが理性で考えて現実の可能性ばかりに目を向けることを叱られました。そして、ただすべてをお造りになった神様にある可能性を覚えるように助けておられます。それは天を見上げることでした。5節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」神様がアブラムを外に連れ出して神様が造られた世界の天を見上げるように命じられました。それは人間の可能性ばかり考えないで天地の創造主であられる神様を仰ぎ見なさいということです。それから神様が造られた星を数えることができるなら、全能の神様を考えなさいということです。実際に、アブラムが天を見上げて星を数えると、それを数えることができたでしょうか。東京に住んでいる私たちには星を数えることができるかも知れません。最近は朝5時になってもかなり明るくなっていますが、まだ暗い時は夜空の星が見えます。時々私は数えてみます。12個くらいで数えられなくなります。47個まで数えてみたいと思いますが一度もできませんでした。しかし、実際には数え切れない星があります。私たちの太陽系が属する銀河系には、2, 000億個の星があると言われています。そして、宇宙には銀河が1, 000億個以上もあると考えられています。まさに天文学的な数の星があるといえるでしょう。それらをどうやって数えることができるでしょうか。地球から人間の目で見える星の数だけでも7, 500個くらいだと言われていますがそれでも数えることは無理です。この無限な世界を造られた方が神様です。ですから、神様には不可能なことがありません。おそらく、アブラムは天を見上げて無限な世界を造られた全能の神様に気づかされたことでしょう。その時に、神様は「あなたの子孫はこのようになる」と仰って下さいました。神様のご計画は実に遠大なものでした。アブラムの想像をはるかに超えていました。神様はアブラムから子どもが生まれることだけではなく、その子孫は数えることができないほどに多くなると約束してくださったのです。私たちは自分の人生を自分の可能性の中で切り開くものだと考えています。自分の学歴や会社の資本金、親からの相続財産などで自分の人生が決まると思っています。ですから、それらの有無によって自分の人生の可能性も決めつけてしまいます。しかし実際はそうではありません。アブラハム寺崎牧者の家庭でも7年目に子どもが生まれました。奇跡は起こります。決して神様には不可能なことなどないのです。神様のご計画の通りにアブラハムの子孫は夜空の星のように数多く広がりました。イサク、ヤコブ、ヨセフに続いてダビデに繋がり、ダビデの子孫からイエス・キリストが生まれました。イエス様がお生まれになるとき、東方の博士たちがメシアの星を見て遠い東からベツレヘムまで訪ねて来ました。それで、ユダヤ人だけではなく、キリスト教も、イスラム教もアブラムの子孫であることを誇りにしています。このように、神様は私たちひとりひとりにも遠大な計画とビジョンを持っておられます。イザヤ55章8,9節を見ると, 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。エレミヤ29章11節を見ると「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。 ――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。天が地より高いように、神様のご計画は私たちの思いより高く遠大なものです。時々、私たちはちっぽけなことで悩み、恐れています。しかし、神様は私たちが夜空に輝く星のようにこの世の中で輝く将来と希望を与える計画を持っておられます。この時間、私たちが目を上げて神様の広大な世界、荘厳な世界を見ましょう。今の現実が暗ければ暗いほど、苦しければ苦しいほど天を見上げてください。夜空に輝く星を数えてみてください。神様は私に災いではなくて平安を与える計画を持っておられます。神様のなさることは、すべて時にかなって美しいものです。神様は必ず私たちに最高のもの、最上のものを与えてくださいます。神様はアブラムに息子イサクを与えてくださいました。ですから、私たちは神様の約束の御言葉を信じ、私に対する輝かしい将来と希望も計画しておられることも信じて行かなければなりません。どうか、神様が夜空に輝く星のような祝福を計画しておられることを受け入れてどこまでも神様の御思いに心を合わせて生きることができるように祈ります。では、神様の約束に対するアブラムの反応はどうでしたか。 6節をご覧ください。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラムは主を信じました。アブラムは自分に与えられた約束の御言葉を信じました。それを神様は喜ばれます。人間的には何の根拠もありません。ただ、神様がそう言われるので信頼します。それが信仰です。人間的な根拠を求め、理性的に考えるのではなく、それを超えて素直に信じるのです。父親が約束したことを、子どもが「どうせ父さんは口だけなんだから」と考えてしまうなら、親としては悲しいことです。しかし、「ぼくは父さんを信じるよ」と信頼してくれるなら、嬉しいものです。それと同じように、私たちの父なる神様は、私たちが約束の御言葉を信じることを喜ばれます。満足なさいます。そして、そのような信仰を神様は喜ばれ、義とされるのです。神様は私の立派な何かを根拠にして喜ばれるのではありません。子が父を信頼するように、神様を信頼し、神様の御言葉を信じる者を神様は喜ばれるのです。そのような者を神様は義と認められます。私たちもアブラムのように神様の御言葉だから素直に受け入れて信じる信仰を持って生きるように祈ります。神様に信頼しながら歩む人生は、神様に造られた者として神様の造られた世界で、神様の御力を味わいながら歩む人生になります。アブラムはその信仰の人生を選び取りました。すると、神様は彼の信仰を義と認められることだけではなく、彼をカルデヤ人のウルから連れ出した目的を教えてくださいました。それはカナンの地をアブラムの所有として与えるためでした。8, 21節を見ると神様がアブラムと彼の子孫が所有する地に対して契約なさったことが記されてあります。?.主は私をご覧になっている16章にはサライの問題を解決されたことが記されてあります。神様は、アブラムの子孫を星の数のようになさると約束されました。年老いたアブラムはそれを信じました。しかし、現実を見ると妻サライにはすぐに実現しそうには思われませんでした。そこで、サライはアイディアを出してひとつの提案をしました。自分には子ができないので、女奴隷のハガルによって夫アブラムの子を得ることです。いわゆる、代理母出産です。このような方法は当時の一般的な風習でもありました。そこで、アブラムもあまり深く考えませんでした。人間的には問題がなかったからです。しかし、それは信仰的な方法ではありませんでした。ハガルが妊娠すると、彼女は高ぶるようになりました。主人であるサライを見下げるようになりました。これでは本末転倒です。妻であるサライの立場がありません。サライは厳しい仕打ちをハガルに向けるようになります。ついにハガルは、サライの顔を避けて逃げ出しました。アブラムは神様の約束の御言葉を信じて義と認められたし、サライもそれを知っていたはずです。ところが、彼らは不安感と焦りに苛まれて人間的、理性的に考えてしまいました。その不信仰から家庭に問題が生じました。夫婦が信仰の中心を守り続けたなら、家庭問題も生じなかったはずです。新約時代のバプテスマのヨハネ「あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」と言っています。もし、アブラムとサライがこういう信仰を持っていたなら家庭の危機が来なかったでしょう。ところが、彼らは理性的に考えてあれこれをもって実現しようとした結果、問題が大きくなってしまったのです。ただ、あわれみ深い神様はサライとアブラムの失敗にもかかわらず、その家庭を見捨てませんでした。神様はハガルに現われて家に戻って女主人に仕えること、お腹の子をイシュマエル(「神は聞かれる」の意)と名付けることを告げてくださいました。このような神様の助けによってハガルは勇気を得ました。顔も見たくないと思っていたサライのもとに帰ることができました。それは、奴隷の自分さえも、主はご覧になっているのだと知ったからです。それまでのハガルにとって、神様は、アブラムにしか現れてくださらない遠い存在でした。しかし神様は自分もご覧になっておられました。神様は卑しい女奴隷の自分にさえ語ってくださいました。そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼びました。エル・ロイ」とは「神は私をご覧になっている」という意味です。ハガルはこの事件を通して、霊的な視点が開かれるようになりました。それが「エル・ロイ」です。神様が私をご覧になっているという視点です。私たちには誰も分かってくれるはずがないと思われる悲しみや苦しみに悩む時があります。自分の苦労を誰も認めてくれない時もあります。しかし、神様は私をご覧になっておられます。この時間、一緒に神様に告白してみましょう。「あなたはエル・ロイ」そうです。主は私をご覧になっているのです。私の主はエル・ロイです。 どうか、私たちひとりひとりが天を見上げて神様の世界を見ましょう。そしてこの世界を造られた神様を信じ、神様から与えられた御言葉を信じて生きるように祈ります。

14Genesis9M あなたの名は祝福となる

14genesis9m, あなたの名は祝福となる, 2014年創世記第9講あなたの名は祝福となる御言葉:創世記11:27−12:20要 節:創世記12:2「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」 今日、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に遣わす派遣礼拝をささげるように導いてくださった神様に感謝します。二人の前で言うことは失礼なことですが私はこの二人にさまざまな面で助けられて来ました。また二人の謙遜と忠実さから教えられる時も多くありました。ほんとうにこの教会にも多大な影響を及ぼして来たと思います。だから、この家族を福岡に遣わしたくありませんでした。なんとか東京に戻って来てほしいと思っていました。私にはバベル塔を建てたノアの子孫たちのように、彼らと一緒にこの東京ubf教会を大きくして行きたいという心もあったのです。しかし、神様は私たちが一つのところに集まってバベル塔を建てることより、散らされて行くことを望んでおられました。神様はアブラハムを召して祝福し、彼を通してすべての民族が祝福されるようにしたようにヨセフ宣教師家族を祝福し、彼らを通して九州大学の学生たち、福岡の人々も祝福されることを望んでおられます。 ですから、神様は派遣礼拝の御言葉として創世記12章の御言葉を与えてくださったと信じます。実際に今日の本文は派遣礼拝だから私が特別に選んだのではありません。私たちが選んだ聖書の個所でもありません。私たちは16日に派遣礼拝をささげようとしていました。そうなったら派遣礼拝の御言葉が12章ではなかったはずです。ヨセフ宣教師の事情があって一週間前にしたのですが、不思議にも創世記メッセージの順番が12章になっているのです。神様の導きに驚き、心から感謝します。では神様はアブラハムをどのように召され、どのようにして遣わされたでしょうか。アブラハムは神様の召されに対してどのように反応したでしょうか。この時間、アブラハムの神様を深く学び、御言葉を聞いて従ったアブラハムも深く学ぶことができるように祈ります。先週、私たちはノアの方舟による新しい歴史は失敗したことを学びました。神様は人々が集まってバベル塔を建てるのをやめさせました。主が人々をそこから地の全面に散したからです。しかし、愛の神様は人間をあきらめませんでした。人類の歴史がバベルの町を建てることで失敗しても全くあきらめませんでした。そして今度は神様とともに歩み、全き人であったノアとは違う人を得られます。神の御心にかなっていたノアのように偉い人ではなく、平凡な人です。偶像崇拝が盛んなところでそこの人々と一緒に偶像崇拝をしている人です。この世の知者でもなく、権力者でもなく、この世の愚かな者であり、この世の弱い者です。75歳の年寄りアブラハム、その年までひとりの子どももいなかったアブラハムを選んだのです。神様はこのアブラハムを通して全く新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられました。そこで、創世記の著者は12章から紹介するアブラハムの歴史を始める前に彼の家族関係と生まれ故郷についても書き記しています。11章27、28節をご覧ください。「これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。」とあります。アブラムの父はテラです。ヨシュア記24章には彼が偶像崇拝者であったことを記しています。アブラムの3人兄弟の中でハランは父テラの存命中に死にました。後でハランの息子ロトはアブラムが連れて行きます。娘ミルカはナホルの妻になります。そして、アブラムの妻サライがいますが、彼女は不妊の女で、子どもが生まれませんでした。 そこで、テラはアブラム、ロト、サライとを伴い、カナンの地に行くために、カルデヤ人のウルから一緒に出掛けました。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住み着きました。そこで平凡な生活をしていたテラは205歳の時に死にました。その時、アブラハムにどんなことがありましたか。12書1節をご一緒に読んでみましょう。「主はアブラムに仰せられた。『あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい』」「アブラム」は後に名前を変えられて、アブラハムと呼ばれるようになった人物です。今から4千年ほど前の人で、イスラエル民族の先祖となった人です。神様はアブラハムに「生まれ故郷、父の家」を出て行くように命じられました。年寄りの人が生まれ故郷を出て行くことはそれだけでも厳しいことです。普通はなかなか忍び難いことです。さらに、父の家を出て行くことも大変なことでしょう。今から4000年前の古代社会においては、一切の人間の絆と、身の安全、命の保証すら、捨て去ることを意味します。神様が私たちをお招きになるときにも、「自分を捨てて私に従いなさい」と言われます。それは、私たちにとっても人間の絆、身の安全、いのちの保証すら神様に委ねなさいと言われることでしょう。今まで築き上げてきた人間の絆、自分の安全、生活のすべてを捨てるほどに神様に委ねるということはなかなか厳しいことでしょう。神様のお招きに「はい!」と言って従うことは、やさしくないと思います。ところが、神様は出て行くことを命じるだけではなく、それに伴う祝福も約束してくださいました。2、3節をご一緒に読んでみましょう。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」ここに、「祝福」という言葉が5回も繰り返されています。創世記3章のアダムの堕落から11章のバベルの塔までの間には「呪い」という言葉が何度もありました。そのすべての呪いを覆すような力を感じます。神様は今までの人類の呪いの歴史を、祝福の歴史へと変えようとしておられるのです。その決定的なターニング・ポイント、転換点においてアブラハムの信仰が用いられるのです。ヘブル人への手紙11章によるとアブラハムがそれを聴いて信じたのですが、その信仰が人類の歴史を祝福の歴史に変えて行くターニング・ポイントになったのです。私は個人的に大学1年生の冬が呪われる人生から祝福される人生に変えられるターニング・ポイントになったと思っています。その時、私は神様がアブラハムに与えられたこの御言葉を自分にも与えられたと信じて祝福の人生を始めたからです。その時、牧者宣誓をした私の所感のタイトルは「あなたは福のかたまりになれ, &#45320, &#45716, &#48373, &#45929, &#47532, &#44032, &#46104, &#46972, 」でした。振り返ってみると、その後の私は祝福された人生を生きて来たと思われます。何の問題もなかったわけではありませんが神様から愛され、祝福された人生になったと告白できます。神様に心から感謝しています。神様がアブラハムに約束された祝福は、内容的に考えてみますと、大きく四つ数えることが出来ます。一つ目はアブラハムが大いなる国民となることです。二つ目は彼が祝福そのものになることです。つまり、祝福の源、祝福の基(もとい)となることです。三つ目は彼に土地が与えられることです。四つ目は彼に約束の子、イサクが生まれることです。 先ず、大いなる国民となります。これは、バベルの塔を建てて名を挙げようとして失敗した人々と、ちょうど対照的です。アブラハムの子孫は自分の力によってではなく、神様の祝福によって大いなる国民となるのです。 二つ目にアブラハムは「祝福となる」ということです。これは神様がアブラハムを通して全世界をお救いになるという、約束です。彼が選ばれたことの使命が、この中に語られています。アブラハムは祝福そのものとして救いのみわざに用いられるのです。三つ目にアブラハムに土地が与えられる、と約束されています。7節を見ると神様は「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束してくださいました。土地は人間が生きて行く支えです。罪を犯した人類に対する神様の呪いは、全部「土地を追い出される」という形で語られていました。アダムとエバも、カインも祝福されていた土地から追い出されました。農耕社会において人間に土地がないということはとても悲しいことです。私は農民の子どもとして育ちましたからその悲しみと苦しみを少しは理解しています。2011年東日本大地震以後、福島、東北地方の人々が今なお苦しんでいるのは何でしょうか。それは土地を使えなくなっているからです。多くの人々が生存の根拠を奪われ、故郷から出て行きました。ところが、アブラハムには、土地が与えられると約束されているのです。四つ目に、約束の子が生まれることです。具体的に、イサクが与えられます。それは、地上の命が神様によって祝福されていることを意味します。このようにして、不妊の女だったアブラハムの妻サラの胎から子どもが生まれるようになりました。夜空に輝く星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫が生まれるようになったのです。実際に、アブラハムの生存の時に息子が生まれ、その後、すべてが実現されています。では、アブラハムはどのようにお応えしたのでしょうか。4節をご一緒に読んでみましょう。「アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。」アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけました。彼は「なぜ自分なのか」と問い返すようなことを言いませんでした。具体的な説明も要求しませんでした。彼は問い返す必要も感じなかったようです。ただ、約束してくださった方は真実な方だ、と信じているのです。無条件的に、単純に従いました。ほんとうに幸いな人です。イエス様はトマスに「「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。これを、「見ないで(確かめないで)信ずる信仰」とか、「聴いて信じる信仰」と言います。アブラハムの信仰は、「聴いて信じる信仰」です。そして神様は、このアブラハムと共に、新しい、人類を救う歴史を始められました。神様の御言葉を聞いて信じる人はアブラハムのように祝福され、用いられます。 また、アブラハムには感謝と祈りの信仰がありました。7、8節をご一緒に読んでみましょう。「そのころ、【主】がアブラムに現れ、そしてと仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。」 「祭壇を築いた」というのは神様への感謝を表したことです。事実、これから展開される彼の人生を見るとこのようにして、祭壇と共にあった生涯でした。私たちの人生の歩みにはいろんなことが起こります。経済的困難な時もあります。精神的に疲れている時もあります。病気、失敗、挫折、そういう暗い道を歩む時もあるのです。でもそのような中でも神様が私たちと共にいてくださいます。私たちを必ずいやし、救い、回復してくださいます。時には試練を通して、私たちを訓練し、そのような試練に打ち勝つ信仰へと成長させて下さいます。先ほど、私はアブラハムに与えられた約束の御言葉を信じた時が呪われる人生から祝福される人生へのターニング・ポイントだったと言いました。でも、毎日が順風満々ではありません。その後も何度も困難や試練に遭いました。今月、私は弟の墓を造ってあげるために韓国に行きますが、9年前に亡くなった弟の遺骨を葬るためです。私の弟が交通事故で亡くなってから6年の間に私の祖母、父、母が次々天に召されて行きました。愛すると死別することはとても悲しいことです。, 大変つらくて悲しい時期を通りました。でもそのような経験の中で私は人を赦すこと、愛することなどを学び、神様の愛と恵みも強く感じることができました。そして、感謝の祭壇を築くたびに、主からの恵みと祝福が段々大きく感じられるようになりました。それで何事も神様に頼り、祈れるようになりました。アブラムは晩年、人生最大の危機と同時に最高の祭壇を築かなければならない時を迎えます。それは自分の独り息子イサクを祭壇に献げるということでした。どんなに辛くて大変だったでしょうか。自分が死んだほうがましだと強く感じたでしょう。でもそれを通してアブラハムは神様が御独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに自分を愛しておられるということが分かったことでしょう。このようなアブラムの感謝と祈りの祭壇は私たちも常に神様への感謝と祈りが必要であることを教えてくれると思います。それを通して私たちも神様の愛を体験して行くことができるからです。本当に、私たちが神様に自分自身をささげる生活をするときに不思議な神様の祝福も体験して行くことができます。パウロはそれを深く悟ったことでしょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。, ローマ12, 」どうか、私たちが神様の約束の御言葉を信じてアブラハムのように自分自身を神様にささげる生活ができるように祈ります。以上で、私たちはアブラハムの新しい出発、神様の御言葉に動かされて動く祝福の人生を出発したことを学びました。今日の御言葉がヨセフ宣教師と直美牧者の人生においてターニング・ポイントになりますように祈ります。呪いから祝福へ変えられるターニング・ポイントではないでしょう。すでに救われているからですう。でも、私は日本ubfのみわざにおいて一つの家庭から大いなる国民を形成して行くみわざのターニング・ポイントになりますように祈ります。昨日、聞いたのですが、ヨセフ宣教師の長男の禄也は夢の中で多くの友達に御言葉を宣べ伝えていたそうです。その中でお母さんは信仰がない顔をしていたとも言ったそうです。それもあって○○牧者は新しい福岡のみわざを準備して行くために断食祈りを決断したそうです。このような話を聞きながら私は繊細な神様の導きを感じました。神様が子どもの夢を通して福岡開拓のみわざを備えて行かれることも悟りました。これから○○牧者は寂しさも経験すると思います。すると子どもの目には信仰がなさそうに見えるかも知れません。でも、禄也君が夢の中で御言葉を宣べ伝えていたことを思いだしてください。それからアブラハムひとりから夜空の星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫ができたことを覚えていてください。神様が○○牧者家族を大いに祝福して九州大学の学生を始め、福岡の人々を祝福してくださることを信じます。私たちひとりひとり神様の御前で個人的に御言葉を聞いて従いますように祈ります。そうしてほんとうに祝福された人生に変えられて行きますように祈ります。

14Genesis03.エデンの園と人間の使命

14genesis03, エデンの園と人間の使命, 2014年創世記第3講エデンの園と人間の使命御言葉:創世記2:4−25要 節:創世記2:151.4−8節を読んでみましょう。神様が天と地を造られた時、どのようにして人は「生きもの」になりましたか, 。神様は人をどこに置かれましたか, 。2.9−15節を読んでみましょう。神様が設けてくださったエデンの園には、どんな木がありましたか, 。また、園を潤すために与えられた川の美しさについて、話してみましょう, 。神様は人をエデンの園に置いて、どんな使命をお与えになりましたか, 。3.16,17節を読んでみましょう。神様は人に何をお命じになりましたか, 。なぜ神様はそのように命じられたのでしょうか。4.18−25節を読んでみましょう。神様は、なぜ人に「助け手」を与えようと考えられたのでしょうか, 。神様は、人が生き物に名前をつけることをご覧になった後、どのようにして助け手をお造りになりましたか, 。助け手に対する人の感想はどうだったのでしょうか, 。男が妻と結び合うと、どのような生活をすべきでしょうか

14Genesis02.人をご自身のかたちとして創造された神様

14genesis02, 人をご自身のかたちとして創造された神様, 2014年創世記第2講人をご自身のかたちとして創造された神様御言葉:創世記1:26−2:3要 節:創世記1:271.26,27節を読んでみましょう。神様は人をどんなかたちとして、何に似せて創造されましたか。人は、どれだけ尊い存在でしょうか。2.28節を読んでみましょう。神様は、祝福の言葉として、彼らに何と仰せられましたか。この言葉は、どんな点で祝福になるのでしょうか。3.29−31節を読んでみましょう。神様は、いのちの息のあるもののために、何を食物として与えてくださいましたか。神様は、お造りになったすべてのものを見て、どのような感想を持たれましたか。4.2:1−3節を読んでみましょう。天と地とそのすべての万象が完成された次の日に、神様は何をされましたか。神様が七日目を祝福し、この日を聖であるとされた理由は何でしょうか。私たちは、安息日をどのように過ごすべきでしょうか, 出20

14Genosis01.天と地を創造された神様

14genosis01, 天と地を創造された神様, 2014年創世記第1講天と地を創造された神様御言葉:創世記1:1−25要 節:創世記1:11.1節を読んでみましょう。天と地はいつ、どのようにして存在するようになったのでしょうか, 。創造主で神様と、万物の起源について、話してみましょう, 14,黙1, 。2.地はどんな状態でしたか。「神の霊」は何をしておられましたか, 。神様が最初に命じられた御言葉は何でしょうか, 。「昼」と「夜」は、どのようにしてできたのでしょうか, 。3.神様は、第二日に、どのようにして天をお造りになりましたか, 。第三日に、神様は何をお造りになりましたか, 。「おのおのその種類にしたがって創造された」神様について、話してみましょう, 。4.神様は、第四日に「光るもの」を造られてから、何をされましたか, 。神様は、第五日に、水と天の大空を、何によって満たされましたか, 。神様は第六日に何をお造りになりましたか, 。神様の天地創造に現れる秩序について、話してみましょう。5.神様は、何によって、創造の御業を行なわれましたか, 1520, 。神様の御言葉の力はどのように現れたのでしょうか, 24,ヘブ11, 。神様が、それぞれの被造物を名前づけた理由は、何でしょうか, 。6.神様が、その造られた物をご覧になって、どのように思われましたか, 。私たちは、天地を創造された神様に対して、どのような姿勢を持ったら良いのでしょうか, 詩19

14Genesis13M アブラハムは必ず大いなる強い国民となる

14genesis13m アブラハムは必ず大いなる強い国民となる, 2014年創世記第13講, 金ヨハネ宣教師,                               , アブラハムは必ず大いなる強い国民となる御言葉:創世記18章、19章要 節:創世記18, アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。先週私達は李ヨシュア宣教師が伝えたメッセージを通して主がアブラムとサライの名前をアブラハムとサラに変えてくださったことを学びました。二人の名前は一文字変わっただけですが、その意味は大きく変わりました。私も日本に来る時には名前がヨナでしたが、その後、ヨハネに変わりました。ヨナとヨハネは名前が似ていますが、イメージは全く違うでしょう。神様はアブラハムとサラが多くの国民の父と母となると言われました。それは年老いた彼らの人間条件を考えると不可能なことですが、全能の神様なら不可能なことではありません。全能の神様は私達にも大きなビジョンを置かれ、アブラハムとサラのように育てておられると思います。私達を通してこの国に星のように数多くの信仰の子孫を増やしてくださるように祈ります。今日の御言葉にはアブラハムとロトの話が出ています。彼らは一緒に信仰生活を始めました。ところが、彼らが結ぶ実はかなり違いました。彼らの信仰生活にどんな違いがあったでしょうか。, 今日の御言葉を通してアブラハムの信仰生活について学ぶことができるように祈ります。第一に、アブラハムは仕える人でした。18, 1節を見ると、主は今まではアブラハムに幻のうちに現われ、仰せられましたが、今度は人の姿で現われました。アブラハムは日の暑いころ、天幕の入口にすわっていました。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていました。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をしました。アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言いました。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」一セアは約十三リットルです。三セアは、三人の客人のためには余りに大量です。そして牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡しました。若い者は手早くそれを料理しました。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えました(6, 8)。凝乳は固まった牛乳、つまりヨーブルトのようなものです。アブラハムは旅人を心から歓迎し、最高のもてなしをしました。サラと若者達も一言も文句を言わず、素早くもてなしをするのを見ると、アブラハムの家庭の人々が皆喜びを持ってもてなすことがわかります。アブラハムの心の豊かさはどこから来たのでしょうか。彼が金持ちだったからでしょうか。この世の中には金持ちであっても心が狭くてけちな人々がいくらでもいます。彼らは豊かさの中でも貧しい人々です。人々の中には金をもうけるのはよくできるが、その金をどう使うべきかはよく知らない人々が多くいます。自分のために、あるいは快楽のためには惜しみなくお金を使いますが、他の人のためにはけちです。アブラハムは訪ねて来たお客さんのため惜しみなくもてなしをしました。アブラハムのこのような豊かさは、信仰によって生きる生活から来たと思います。神様との交わりによって彼の心も豊かになっていました。3月に韓国から申サラ牧者が来日して私の家に1週間泊まりました。金サラ宣教師は彼女と一緒に東海ubfを訪問しました。東海センタの宣教師たちはlサイズのピザ、高いすしなど美味しい食べ物をたくさん用意してもてなしてくれたそうです。彼らは金持ちではありませんが、喜んで迎えて豊かな心でもてなしてくれました。申サラ牧者は日本の宣教師達に仕えるために自費で来日しました。そして、東京ubfと東海ubfの奥様たちと聖書勉強を通して交わりました。奥様達を食事に招いてもてなしてくれたそうです。彼女はいつか世界を回りながら聖書を教えるビジョンを持って、今まで聖書や英語を勉強して来たそうです。そして、60歳を過ぎると世界を回りながら聖書を教えています。私が26年前、韓国にいた時の彼女に対する印象はあまりよくありませんでした。冷たい感じがしたので、彼女とあまり話し合った記憶もありません。それでサラ宣教師が彼女を家に泊まらせようとした時も、心から喜んではいませんでした。ところが、26年が経って会った彼女は変わっていました。以前感じていた冷たさはなくなり、心が豊かな人、仕える人になっていました。彼女はサラ宣教師に私に対する印象も言ったそうです。私もかなり変わったと言ったそうです。信仰によって主とともに歩む人は自分も知らないうちに新しく変わって行きます。心が豊かな人、仕える人として変わって行きます。いつもともに生活している人は変わった様子がよくわかりませんが、久しぶりに会うと、それが分かります。アブラハムも年月が経つにつれて仕える人、心が豊かな人として変わって行きました。アブラハムから豊かなもてなしを受けられた主はアブラハムに良い知らせを伝えてくださいました。10節をご覧ください。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていました。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていました。それでサラは心の中で笑ってこう言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(11, 12)。常識的に考えるとアブラハムとサラが子どもを産むことは不可能なことでした。100歳と90歳の老人に「あなたは子どもを産む」と言ったら笑うしかないでしょう。そこで、【主】がアブラハムに仰せられました。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」(13, 14)。神様は年寄りのアブラハムとサラを笑わせる方です。神様は人の考えや想像を超えて働かれる全能の神です。この方に不可能なことはありません。創世記21章を見ると、百歳のアブラハムと九十歳のサラの間に男の子、イサクが生まれました。第二に、アブラハムは祈る人でした。17,18節をご一緒に読んでみましょう。「【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。」神様は御自分がなさろうとすることを隠さずにアブラハムに知らせました。とても親しい関係でなければ、大事な話はしません。本音は言えません。もし、日本の総理が「○○さん。大事な話があります。これから消費税を5%から8%に上げたいと思っていますが、○○さんの考えはどうすか」と聞いたらどうでしょうか。総理がそれほど○○さんを信頼しているという証拠でしょう。神様はアブラハムを信頼してご自分がなさろうとすることを隠さずに教えてくださいました。神様はアブラハムを親しい友達のように思っておられたのです。神様と友達のように親しくなり、交わる人はなんと幸いな人でしょうか。私達は、神様と交わりを持つために造られました。これは、人間だけに与えられている特権です。神様は私達と親しい交わりを持つ事を願っておられます。アブラハム、モーセ、ダビデなど、神様に用いられた人たちはみな、神様の御声を聞き、神様に祈る人でした。神の御子イエス様もいつも祈っておられました。私達は祈りを通して神様と交わることができます。祈りを通して神様の御心を知ることができます。祈りを通して力を得ることができます。神様との交わりによって私達は霊的に成長することができます。 ソドムとゴモラを神様が裁こうとしておられることを、アブラハムは主の語りかけによって明確に知りました。それを知ったアブラハムは悪い者は裁かれて当然だと思いませんでした。彼はそこの人々のためにとりなしを始めました。彼の祈りは無条件要求する祈りではありませんでした。23、25節をご覧ください。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」彼は公義を行なう神様に対する強い確信がありました。そればかりではなく、正しい者を愛し、その正しい者のために悪い者達も赦してくださる神様を信じました。アブラハムはわずかの正しい者の存在を期待し、神様がソドムを滅ぼすことを中止され、それによってロトたちも助けられるように願っていたでしょう。主は彼の切なるとりなしの祈りに答えられました。26節をご覧ください。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」ところが、アブラハムはソドムに50人の正しい者がいる確信が持てなかったのか、必死的に正しい者の数を減らし始めました。50人から45人、40人から30人、30人から20人、20人から10人まで減らしました。金サラ宣教師はこのようにしつこく祈るアブラハムがまるで韓国人みたいだと言いました。なぜなら、韓国人はものを買う時、よく「まけてください」と値切るからです。アブラハムは韓国人が値切るように、しつこく神様に祈り求めました。また、彼の祈りの姿勢は謙遜でした。彼は自分がちりや灰に過ぎない存在であることを知っていました。彼には牧者の心情が溢れていました。彼の心の中にはおいロトを考えていたでしょう。神様はこのようなアブラハムの祈りを全部聞いてくださいました。32節をご覧ください。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」神様は彼が何度も正しい者の数を減らしたことで怒りませんでした。神様はソドムに十人の正しい人がいれば全部を赦そうとしました。しかし、ソドムとゴモラは滅ぼされてしまいました。ソドムの人たちの間には、十人の正しい人がいなかったことを示しています。それではアブラハムの祈りは無意味だったでしょうか。19, 29節はこう言っています。「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」ロトと彼の家族も滅ぼされるしかありませんでしたが、アブラハムのとりなしによって救われたのです。 ここで正しい者の重要性を学ぶことができます。残念ながらソドムに十人の正しい人がいなかったので神様の裁きを受け、滅んでしまいました。もしロトが自分の家族と一緒にマンツーマン聖書勉強をして一人の弟子を養ったなら10人は十分な数でした。これを考えて見ると、一つの国の裁きと救いの分かれ道は政治家や企業家ではなく正しい人であることがわかります。神様は正しい人を尊く思われ、正しい人を中心に働かれます。神様は常に十人の正しい人を求める方であり、そのゆえにいっさいの誤りや欠点を赦してくださる方です。だから大切なことは、みんなが良くなることではなく、まず私が正しく生きることです。正しい人とはアブラハムのように神様と共に歩む人です。信仰によって生きる人です。この国のクリスチャン人口は全国民の一パーセントにもなってないと言われています。とても少ないと思うかも知れません。しかし、一パーセントにもならないクリスチャンでも信仰によって、神様の御前で歩む人、つまり正しい人がいるかいないかはとても大切なことです。私達クリスチャン一人一人が神様の御前で正しい者として生きるように祈ります。主はその正しい人を見て「滅ぼすまい。その人々のために」と言われるでしょう。私たちひとりひとりがこの国を神様の裁きから守る正しい者となるように祈ります。また、アブラハムのようにこの国の救いのために切に祈る者となるように祈ります。 信仰によって、アブラハムは約束された地に他国人のようにして住み、天幕生活をしました。一坪の土地も所有していませんでした。ところが、主はアブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福されると言われました。アブラハムによって形成される国民は主の道を守り、正義と公正を行います(19)。神様を愛し、神様の御言葉に聞き従います。主は今も主の道を守り、正義と公正を行う人々を祝福してくださいます。そして、彼らを大いなる強い国民とし、地のすべての人々を祝福してくださいます。私達が主の道を守り、主とともに歩む生活ができるように祈ります。19章にはアブラハムの甥であるロトの話が出ています。彼はアブラハムに比べると若くて将来性がある人でした。彼は伯父さんのアブラハムと一緒に信仰生活を出発しました。彼はどんな人生を生きたでしょうか。彼はどんな実を結んだでしょうか。19:1, 3をご覧ください。ロトはふたりの御使いを迎えてもてなしました。ところが、アブラハムのお客の迎え入れと比べて見ると、けちのように見えます。アブラハムは天幕で暮らしていましたが、ロトは家に住んでいました。アブラハムには柔らかくておいしそうな小牛が思い出しますが、ロトはかたいパン種を入れないパンが思い出します。ロトはパン種を入れないパンを焼いて食事をしました。彼の妻と娘たちや婿たちがお客さんをもてなすために何かをしたという記録もありません。アブラハムから見ることができる暖かさ、快く迎えること、豊かさが見えません。御使いたちも彼のもてなしを快く思われなかったのか、「いや、わたしたちは広場で泊まろう」と言いました。ロトのようなもてなしを受けると、食べ物がのどをよく通りません。彼はこの世と調子を合わせながら生活をしていたので心の余裕も豊かさもありませんでした。4, 9節を見ると、ソドムの人々がどれほど堕落していたかが分かります。二人の御使いがソドムに着くと、若い者から年寄りまで、すべての人が、集まって来ました。彼らは御使いから御言葉を聞くために来たでしょうか。いいえ。彼らはロトに向かって叫んで言いました。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」彼らが「よく知りたい」と言っていることは同姓とのセックスをすることを意味します。これを見ると、ソドムの若い者から年寄りまでどれほど性的に堕落していたかがわかります。彼らの目には御使い達がイケメンに見えたようです。彼らは肉の欲のままに生きていました。ロトはお客さんの安全と引き換えに、自分の二人の娘を連れて来るから、好きなようにするように言いました。こんな親がいったいどこにいるでしょうか。これを見るとロトもソドムの人々の影響を受けて世俗的になっていたことがわかります。しかし、町の人々はロトの言うことを聞かず、「さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう」と言いながらロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来ました。すると、御使いたちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめました。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てました(9, 11)。御使いふたりはロトにソドムとゴモラを滅ぼそうとしていることを知らせ、身内の者をみな、この場所から連れ出すように言いました。そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言いました。「立ってこの場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われました(14)。ロトの言葉には権威がありませんでした。子ども達さえ無視してしまいました。ソドムから離れたところに住んでいたアブラハムはソドムの人々のために切に祈りました。しかし、ソドムに住んでいたロトはどうでしたか。彼はソドムとゴモラが滅亡するという話を聞いても家族や人々の救いのために祈りませんでした。御使いたちはロトを促しましたが、ロトはためらっていました。なぜ彼はためらったでしょうか。ロトはアブラハムと別れる時にも持ち物が多くありました。ソドムに住んでからはもっと財産が多くなっていたでしょう。それで彼は羊の群れ、立派な家など多くの財産を捨てて行くのをためらっていたでしょう。もうすぐソドムが滅ぼされるのに、彼は世のものに心が縛られていました。滅亡が迫っていたのに、彼はこの世のものをとても愛していました。このままためらっていたら、ロトは家族と一緒に滅ぼされてしまったでしょう。しかし、御使いたちは強制的に彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんで連れ出し、町の外に置きました。それは主の彼に対するあわれみでした。アブラハムの祈りを聞いてくださったからでした。神様はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされました(19:24, 25)。ソドムとゴモラは主の園のように、どこもよく潤っていました。人々は物質的に豊かに暮らしていたでしょう。しかし、その国は堕落していたので、神様によってみな滅ぼされました。審判の知らせを冗談のように思ったロトの婿達も滅ぼされました。性的に堕落した若い者から年寄りも滅ぼされました。その地の植物も、動物もみな滅ぼされました。神様のさばきは徹底的に行われました。イエス様は次のように言われました。「また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました(ルカ17:28, 29)。26節をご覧ください。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。御使いはロトの家族を外のほうに連れ出した時、こう言いました。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」ところが、ロトの妻はソドムに残して来た物、家にある財産を惜しむ心があったでしょう。それを考えるうちに自然に頭がうしろを振り向いてしまいました。神様のあわれみによって救われたのにもう一歩のところで御使いの警告を犯して塩の柱になってしまいました。イエス様はルカの福音書17章でさばきの日との関連で「ロトの妻を思い出しなさい」と言われました。この世のものに心が縛られている人はロトの妻のことを考えなければなりません。ロトの娘達も親の影響を受けて世俗的でした。娘達はロトに酒を飲ませ、いっしょに寝て、子供を産みました。近親相姦は聖書で禁じている罪です。彼女達が産んだ子供はモアブ人とアモン人になりました。モアブ人とアモン人は、イスラエルの歴史上最悪の性の誘惑と宗教的冒涜につながる存在になりました。彼らは神様に敵対する民族になりました。ロトが結んだ実は悲惨なものでした。主の道を守らず、正義と公正とを行なわず、この世と調子を合わせて生活したロトは悲惨な実を結びました。今日はアブラハムの信仰生活とロトの生活について学びました。アブラハムは仕える人でした。祈る人でした。神の国を望みながら地上では聖なる旅人として生活しました。彼は信仰によって生きる人でした。神様は彼が必ず強い大いなる国民となると約束してくださいました。地のすべての国々は、彼によって祝福されると言われました。その通りにアブラハムは神様に祝福され、豊かな実を結ぶ人生となりました。彼の子孫の中からイサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、そして人類の救い主、イエス・キリストが生まれました。反面、ロトはこの世と調子を合わせて生きていました。地上のものに心が縛られた生活をしました。彼は祈りの人ではありませんでした。彼は恥ずかしい結末を迎えました。彼は悲惨な実を結びました。皆さんは今日の学びを通して自分が誰に似ていると思ったでしょうか。どんな人生を生きたいと思ったでしょうか。昨日夜明けの祈りの時間に歌った曲の歌詞が今日の御言葉で私が伝えたかったことをよく表現していたので、皆さんに紹介します。「1.キリストの御言葉の中にとどまり続けるなら、私達はキリストの心を教えられ、励まされ、振り向くとそこに豊かな実りがある。 2.十字架のキリストの愛にとどまり続けるなら、私達はキリストの恵みを教えられ、励まされ、振り向くとそこに豊かな実りがある。 3.愛し合う交わりの中にとどまり続けるなら、私達はキリストの愛を教えられ、励まされ、振り向くとそこに豊かな実りがある。」皆さん。自分の人生を振り向いた時、そこに何があるでしょうか。ロトはたぶん虚しさ、罪による実りしかなかったでしょう。しかし、信仰によって生きたアブラハムには豊かな実りがありました。私達がアブラハムのように仕える人、祈る人となりましょう。子ども達に主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるようにしましょう。この国の人々のためにとりなしの祈りを捧げ、時が良くても悪くてもしっかり主の御言葉を宣べ伝えましょう。すると、主は私達を必ず祝福し、私達を通してこの国を生かし、祝福してくださることを信じます。振り向くと、自分の人生に豊かな実りがあることに気づく時が来ると信じます。

14Genesis15M 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム

14genesis15m, 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム, 2014年創世記第15講一人子さえ惜しまずささげたアブラハム御言葉:創世記22, 23章要, 節:創世記22:12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 先週、行われたイースター修養会を大きく祝福してくださった神様に心から感謝します。何よりも私たちの罪を赦し、贖うために十字架にかかって死なれ、葬られましたが死者の中からよみがえられた私たちの主イエス・キリストの御名を賛美いたします。 今日からは再び創世記に戻ります。先々週までアブラハムの人生を見て来ました。彼は神様から「あなたは祝福となる」という約束をいただきました。でも彼は「祝福の人生」だとは言えないような歳月を過ごしました。決して平坦ではありませんでした。むしろ試練の連続だったとも言えます。75歳にして自分の生まれ故郷を離れて行きました。飢饉に直面する時もありました。愛する人ロトとの別れがあり、ロトのために戦争に巻き込まれることもありました。女奴隷ハガルのことで夫婦の危機に見舞われたこともありました。特に神様から約束された子どもが25年間も生まれませんでした。ほんとうに山あり谷ありの人生の中でさまざまな試練が彼を襲っていたのです。漸く約束の子イサクが生まれたのは、アブラハム100歳の時でした。その後も先に生まれていたイシュマエルの問題がありました。アブラハムの人生に試練が続いていたのです。ところが、またも神様はアブラハムを試練に会わせられました。この時間、アブラハムが経験した試練を通して神様への愛と信仰を学びたいと思います。また、私たちのために備えてくださる神様を学びたいと思います。22章1節をご一緒に読んでみましょう。「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。」とあります。「これらの出来事」とは21章に記された出来事です。神様の約束の通りに、イサクが生まれました。それはアブラハム夫婦にとって大きな喜びでした。アブラハム夫婦の不信仰によって女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルの問題も神様の助けによって解決されました。それで、アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在しました, 。その間にイサクはすくすくと成長したことでしょう。6節を見るとアブラハムはイサクに全焼のいけにえのためのたきぎを負わせています。それほど大きくなっていることでしょう。自分のことを思いだしてみると、父からたきぎ、お米、お魚などの荷物を負わせられたのは中学生の時でした。その頃、私が父と一緒に歩いていると、周りから「もう大きくなったね。お父さん。いいね。」とよく言われました。すると、お父さんは幸せそうに笑っていました。イサクも中学生の年齢になっていてアブラハムはイサクの成長を喜び、幸せを感じていたと思われます。ところが神様はアブラハムを試練に会わせられたのです。2節をご覧ください。「神は仰せられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」とあります。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」と言うのが神様からの命令です。単に「子どもを連れて山に行って祈りなさい」とか、「子どもを厳しくしつけなさい」というような命令ではありません。「子どもを連れて行って殺せ」という命令です。しかも全焼のいけにえとして殺すことです。「全焼のいけにえ」とは言葉の通りに全部焼いて煙にしてささげるものです。人が牛や羊を全焼のいけにえとしてささげるときは、まず動物の頭の上に手を置いて殺します。その後その血を祭壇の周りに注ぎかけます。そして、その動物の皮をはぎ、各部分に切り分け、内臓と足は水で洗います。それから全体が全部灰と煙になるまで徹底的に焼き尽くすのです。ところが神様はアブラハムにそのようなささげ方でアブラハムを神様にささげるように命じられたのです。親にとってこれほど残酷な、非人間的な行動があるでしょうか。全く常識では考えられないことです。アブラハムにとってもこれほど残酷な試練はないでしょう。まったく理解に苦しむところです。では、なぜ神様はこんな残酷なことをお命じになったのでしょうか。何のためにアブラハムをこんなに酷い試練に会わせられるのでしょうか。私は本文の御言葉を黙想しているうちに二つのことを考えられました。一つ目はアブラハムに神様を第一に愛することを確かめ、その愛を持たせるためです。神様を第一に愛しているかどうかを試してその愛を持つように訓練するのです。だから試練です。神様は、イサクという子が「あなたの愛している子」であることをご承知でした。イサクはアブラハムが100歳にしてやっと神様からいただいた子どもでした。しかも、彼の正妻サラとの間に生まれた唯一の子どもです。目の中に入れても痛くないほど愛していたのは言うまでもありません。さらに加えて、イサクの誕生は神様の約束の成就であったし、奇跡的な出来事でした。アブラハムはイサク誕生を通して特別な経験をしたのでいつでもどこでもイサクは神様からの素晴らしい贈り物だと証することができたでしょう。そのイサクをささげよ、というのが神様の命令なのです。ここで、神様はアブラハムに神様が与えてくださったイサクを第一に愛するか。それともイサクを下さった神様を第一に愛するかを確かめておられるのです。つまり、「アブラハムよ。おまえはわたしからの贈り物にいつまでも執着するのか。それとも贈り物の贈り主なるわたしにとどまるのか」という問いかけです。神様は私たちに対しても、「あなたは何を第一に愛しているか」と問いかける時があるでしょう。私たちにも神様から与えていただいたものがあります。それはそれで大変尊いものです。家族も、財産も、素晴らしい信仰的な経験も、一つ一つが神様からの贈り物です。それらを尊く思って感謝し、愛するべきでしょう。しかし、そのような賜物や信仰の体験は私たちが第一に愛する対象ではありません。私たちが第一に愛するべき対象は創造主であられる神様です。私たちは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を第一に愛しなければなりません。神様は聖書全体を通して神様がご自身が私たち人間をどんなに愛しておられるかを教え、私たちが神様を第一に愛することを求めておられます。ですから、この時間も神様は私たちに仰せられます。「アブラハムよ。ダニエルよ。マリアよ。あなたは何を第一に愛しているのですか。」二つ目は神様を恐れる信仰を確かめ、その信仰を持たせるためです。神様を恐れる信仰を試してその信仰を持つように訓練されたのです。神様はイサクがひとり子であることをも承知の上でアブラハムに命じられました。「ひとり子」とはどういう意味でしょうか。言うまでもなく「一人しかいない子」という意味です。アブラハムの場合、それ以上の意味があります。アブラハムには二人の子がおりました。イサクとイシュマエルです。そのイシュマエルは「奴隷の子があなたの相続人となってはならない」ということで追い出されました。約束の子イサク一人だけが残されたわけです。神様は「そのイサクをささげなさい」と命じられたのです。すなわち「あなたの子孫は海辺の砂のように、空の星のように数多くなるであろう。あなたから出る子孫が多くの国民となる」という約束を担うたったひとりの子、そのイサクをささげなさいというのが神様の命令だったのです。これは神様を恐れる信仰がなければ従えません。神様を恐れることができず、少しでも疑いがあれば「これこそ残酷だ、裏切りだ、非人間的だ」と騒ぎ立てるでしょう。神様はアブラハムがほんとうに神様を恐れているかを確かめ、その信仰を確実に持たせようとされたのです。それでは神様の命令に対するアブラハムの反応はどうでしたか。3節をご覧ください。「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクといっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」とあります。アブラハムは信じられないほど淡々と行動しています。何も大騒ぎしていません。黙々と、すべきことをしている姿が浮かびます。翌朝早くから行動するアブラハムから「さすがにアブラハムだなあ」とも思われます。羊や牛などを全部焼いて煙にするほどのたきぎだからかなりの量だったでしょう。それを割ったことを考えると、額から流れる汗をあごからポタポタ落としていたことでしょう。それでも何もしゃべらず、神様から言われた場所に着くまで三日も歩き続きました。三日目にアブラハムが目を上げると、神様がお告げになったその場所がはるかかなたに見えました。それでアブラハムは若い者たちにろばといっしょに残るようにしました。そして全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをイサクに負わせました。息子自身にたきぎを背負わせるときのアブラハムの心はどうだったでしょうか。それも痛々しい限りです。アブラハムは火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行きました。この姿を見ると、アブラハムは「イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」という命令を、残酷だ、非人間的だという感情的なレベルでとらえていません。アブラハムはそれを「神様への礼拝」として受け止めていました。だから、彼は若い者たちに「私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところの戻って来る」と言ったのです。モリヤの地に向かう途中で、イサクは父アブラハムに話しかけて言いました。「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」この時、父親のアブラハムは何と答えたらいいでしょうか。なかなか悲しみを押さえることができなかったでしょう。泣き出しそうになったのではないでしょう。しかし、彼はイサクの質問に対して「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えました。何と素晴らしい信仰の答えでしょうか。神様が備えてくださると信じ切っています。それに対してイサクもイサクです。「それはどういう意味ですか。どうしてそれが分かるんですか。」とも言える場面です。しかし彼は何も言っていません。父親を信頼し切っています。親子が互いに信頼し切っています。素晴らしい親子関係です。9節をご覧ください。神様が告げられた場所に着いた時、アブラハムはその所に祭壇を築きました。その上にたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。その時、イサクは反発して逃げることもできました。たきぎを負わせられるほどの力もあったからこそ反抗もできたのです。しかし、イサクは反発せず、親の指示、神様の御心に従いました。イサクの信仰と従順を見ることができます。それは父なる神様に対するイエス様の姿勢を思い浮かばせてくれます。イサクの従順はやがて神の御子イエス・キリストが神様の小羊として黙々と神様の御心に従われたことを象徴しているのです。10節をご覧ください。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしました。ここですでにアブラハムはイサクを殺していると思います。いや、全焼のいけにえとして神様に捧げ切ったのです。彼はイサクを捧げることによって、自分自身を神様に全く捧げ切ったのです。アブラハムがまさにイサクをほふろうとしたその時、主は主の使いを通してアブラハムに呼びかけました。「アブラハム。アブラハム。」。刀を振り上げ、今にも振り下ろそうとしているアブラハムに対して神様は、「ストップ!」とは言われませんでした。「アブラハム、アブラハム」と二度名前を呼ばれました。ここで神様はアブラハムの名を2回呼んでいます。今までも神様がアブラハムの名を呼ばれることは何度もありました。でも2回も呼んだことはありませんでした。今回は「アブラハム、アブラハム」と二回も呼んでいます。それほど事態が緊迫していたことでしょう。その緊迫感が伝わって来ます。主は彼がイサクを主にささげたと認められるまでは黙っておられました。しかし、神様を第一に愛し、神様を恐れるアブラハムの信仰を確認した時には二度も彼の名前を呼びました。12節をご一緒に読んでみましょう。「御使いは仰せられました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」神様は神様を恐れるアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。神様はアブラハムがまさしくひとり子イサクをささげたと見なしてくださったのです。 13節をご覧ください。アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいました。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。アブラハムはその場所を名付けて「アドナイ・イルエ」、つまり「主が備えてくださる」と呼びました。これはアブラハムの信仰告白です。アブラハムの信仰に対してヘブル人への手紙の著者はこう言います。「信仰によって、アブラハムは、試みられた時イサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」アブラハムの行為は、神様がご自身のひとり子、イエス・キリストを死に渡し、三日目によみがえらせたことを指し示す「型」であると言われています。神様は信仰によって生きる人々の「アドナイ・イルエ」の神様です。神様は信仰によって生きる人々の必要なものを備えてくださる方です。アブラハムは今回のことを通して「主は常に私たちを見守り、最善のものを備えていてくださる」ということを経験し、確信したでしょう。ほんとうに、アブラハムのように神様を第一に愛し、神様を恐れる人には必ず神様が最善のものを備えていてくださいます。神様はアブラハムが「アドナイ・イルエ」という真理を体験し、それがもととなって「主の山に備えあり」という言葉が人々に覚えられるようになるために、この試練を与えられたということにもなるわけです。「主の山に備えあり」という真理はそれほど大事なのでしょうか。私自身も経験して来た真理です。皆さんもご存知のように私の長男は中学校まで韓国学校で勉強をしたので都立の戸山高校は遠く感じられました。ところが、私は説明会の時に神様から「主の山に備えあり、戸山にも備えあり」と言うことが示されて確信し、挑戦することができました。その結果長男が卒業することだけではなく次男も戸山高に通っています。「アドナイ・イルエ」は今の真理なのです。 16, 18節をご覧ください。神様はアブラハムに対する祝福を確証されました。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 ここで、私たちは神様の約束がアブラハムの従順を通して成就して行ったことを学ぶことができます。アブラハムが神様を愛し、恐れて神様の御声に聞き従った時に主は彼に祝福を注いでくださいました。神様はアブラハムとの約束にアブラハムの神様への愛と信仰による従順も求めておられたのです。神様はアブラハムの愛と神様を恐れる信仰を見てアブラハムの子孫を、空の星、海辺の砂のように増し加えると言われました。また、将来キリストを通して与える敵に対する勝利と救いの祝福も啓示してくださいました。神様はアブラハムの子孫であるイエス・キリストの十字架と復活によって罪と死の力を打ち破り、地のすべての人々が祝福を受けるようにしてくださいました。アダム一人の不住順によって人々は罪と死に支配されるようになりました。しかしアブラハムひとりの従順によって救いのみわざは始まり、さらにイエス・キリストの従順によって救いのみわざは完成されました。 23章にはサラの死に関する記事です。そこにも神様の備えがありました。それでアブラハムは自分の妻サラをカナンの地にある、マクペラの畑地のほら穴に葬ることができたのです。以上を通して私たちは神様への愛と信仰、神様の備えを学びました。どうか、日々の生活の中で神様を第一に愛し、神様を恐れる生活ができるように祈ります。神様は私たちのためにベストを備えておられることを信じて今週も力強く信仰によって生きるように祈ります。