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14Genesis3M エデンの園と人間の幸せ

14genesis3m, エデンの園と人間の幸せ, 2014年創世記第3講エデンの園と人間の幸せ御言葉:創世記2:4−25要 節:創世記2:15, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。” 先週、皆さんは張パウロ宣教師を通して人間を創造された神様を学んだことでしょう。最後に人間が創造されて天地創造が完成されました。そのとき、神様は非常に喜ばれました。他の被造物にも存在価値があり、意味がありますが、人間創造は特別だったのです。人間の創造が終わると、なさっていたわざの完成を告げられました。結局、六日間なさっていたすべてのわざは人間のためだったことが分かります。そして、今日の本文では人間のために幸福のエデンの園を設けてくださった神様の愛、愛する人間が永遠に幸せに生きることを願っておられる神様の御心がよく示されています。この時間、御言葉を通して私たち人間がどんなに愛されているかを知り、その愛に答えて幸福のエデンを自分のものにして行くことができるように祈ります。4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。」とあります。この「経緯」という言葉は創世記の他の部分では「系図」と訳されています。これには「ストーリー」(物語)あるいは「ヒストリー」(歴史)といった意味があります。つまり、著者は人間の系図の一番目になるアダムの創造の時に、人間の歴史の中に働いておられる神様について書き記しています。それによって人間がいかに神様から愛されているか。どんなに祝福された存在なのか。示しています。そして天と地が創造された時の経緯を通して神様は愛する人間が幸せになることも示しています。では、人間が神様から愛されている証拠、祝福された存在である証拠は何でしょうか。第一に人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在に造られたことです。5‐7節をご覧ください。地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していませんでした。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからです。地球は創造の主人公である人間が現されるまでは何も動けない状態でした。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していました。その時、神様は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。こうして人間は他の被造物とは違って神様のいのちを持つ存在になりました。神様との交わることができる特別な存在になったのです。被造物として神様と交わりができる存在は人間しかありません。神様は人間を愛した余り、永遠にご自分の交わる存在にしてくださったのです。神様との交わりのために人間だけに霊的なものを知る知識、道徳的な価値を判断できる能力も与えてくださいました。だから、私たちは祈りもできるし、神様への賛美もできます。他の動物とは違います。動物も生きていける知恵が与えられているので敵が現れると身を隠したり、逃げたりします。それでゴキブリなどは、厳しい環境の中でも生き延びることができます。ゴキブリは核戦争があっても生き残るだろうと言われるほどです。また猿やゴリラなどの動物にも知恵が与えられていて、棒を使ってバナナを叩き落とすことができます。その棒を蜂蜜のつぼの中に入れて棒についた蜂蜜をなめることもできます。しかし、どんなに知恵があっても、動物は道徳的により良いものを目指すことはしません。日曜日ごとに礼拝することもしません。人間だけが快楽や安楽を捨ててでも価値あるものを求めます。損得を越えて正しいことを守り通そうとします。真の礼拝を求めます。それは神様からいのちの息が吹き込まれて神様との交わりができる霊的存在として造られたからです。第二に、人間のために素晴らしい環境を与えてくださったことです。8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。エデンとはスメル語では「平地」と意味する言葉ですが、ヘブル語では「喜び、楽しみ、幸せ」という意味を持つ言葉だそうです。つまり、神様は人間のために幸せの園(garden)を与えてくださったのです。神様は愛する人間が永遠に幸せに生きられるように幸せの園を設けてくださいました。その園には、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木がありました。川の水もありました。エデンの園には川があって園全体を潤していました。そのおかげで、そこにはさまざまな木が豊かに実を実らせていました。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつけていたことでしょう。毎月新しい実が出て来るのです。何を食べても賞味期限を確認する必要もありません。いつでも新鮮で美味しい自然食品を食べることができました。手を伸ばせばすぐに食べることができたのです。また、この川はピション、ギホン、ティグリス、ユーフラチスという四つの川の源流になっています。ピションの川沿いのハビラには良質の金とベドラハとしまめのうと言った宝石がありました。神様が人間に与えてくださった土地は農作物ばかりでなく、宝石も豊かにある土地だったのです。こうして「地球はいのちの星、宝の星」と言われるようになりました。神様は人間のために最も美しく素晴らしい環境を備えてくださったのです。第三に幸せな家庭を造ってくださったことです。どんなに素晴らしい環境に住んでいても、神様がご覧になると、ひとりでいるのは良くありませんでした。そこで神様は家庭を造ってくださいました。18節をご覧下さい。「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とあります。神様は人間の創造の時、人がひとりでいるのは良くないと思われました。事実、人は男一人でも、女一人でも、ひとりだけいるのは良くなく見えるものです。つまり、人は男か女一人だけでは何か足りないということです。人がどんなに強く、たくましく見えてもひとりだけでは足りません。結婚している方は分かるでしょう。家に帰った時に奥様がいないとどうでしょうか。なんかさびしく、家の空気も冷たく感じるのではないでしょうか。どこかに出かける時もひとりでいるのは良くありません。寂しさだけではなく何か忘れ物があるように感じるし、落ち着きません。奥さんも旦那さんがいないと寂しく感じるでしょう。ある奥様は「夫は家にいるだけでも安心できるし、力になる存在だ」と言いました。つまり、夫は妻の存在が、妻には夫の存在が必要だし、お互いに助け合うことが必要だということです。聖書を見るとソロモンには何人もの妾, めかけ, がいましたが、自分を真実に愛し、助けてくれるひとりの妻がいませんでした。それで彼の所有は多かったけれでも、彼の人生は光りませんでした。一方、イサクはちょっと足りないような人でした。しかし、リベカと言う立派な信仰の女性が妻であったお蔭で彼はアブラハムの信仰を受け継ぐことができました。イサクだけではなく、数え切れない夫たちが妻の助けによって立派な人生を生きることができました。去年放送されたnhk大河ドラマ「八重の桜」の八重さんも素晴らしい助け手のひとりです。新島嬢さんキリスト教に根ざした学校を作ろうとしても偏見を持つ人々の反発に遭いました。そこで葛藤する夫を支えたのは八重さんでした。「ならぬものはならぬ」の精神を持った八重さんが夫の新島さんを支えたのです。そういう八重さんの助けが同志社英学校の開校にもこぎつけます。その後も、二人の夢が一つになって同志社大学設立へと向かいます。このように、社会的にも霊的にもひとりだけではなく、互いの足りなさを補ってくれる信仰の同労者が必要です。そして、そういう家庭をつくることは大きな祝福であるのです。それでは神様は助け手をどのように造られましたか。21節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」とあります。ここで見ると男性は土地のちりで造られましたが、女性はアダムのあばら骨で造られています。神様は女を造る材料をアダムの頭とか、指の爪からとらないでわきにあるあばら骨から取られました。つまり、女性の位置は上でも下でもなく男性のわきです。男女は平等であるということです。22節をご覧ください。「こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」とあります。神様が女を人のところに連れて来られることが結婚です。結婚は自分が好きな人を選んで嫁にするするとか、旦那にするようなことではありません。自分のところに連れてきてくださった神様の導きを感じて悟り、神様が連れて来られたと信じて受け入れる結婚こそ聖書的な結婚なのです。では、神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節を男性だけで読んで見ましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」素晴らしい告白です。親にも、こうは言えないでしょう。自分の半身である妻を呼ぶときにのみ言える表現ではないでしょうか。アダムの奥さんや幸せを感じたことでしょう。実際に、夫は妻から認められ、尊敬される言葉を聞くと幸せになりますが、妻は夫からほめられると、幸せになるそうです。夫なる方は神様の傑作品である妻をほめましょう。「あなたはきれいですね。you are wonderful!」と。女性をほめることは花を咲かせることです。ほめられる女性はきれいになります。夫が自分の妻こそ神様の傑作品であると認め、告白することが家庭に平和と幸福をもたらすのです。24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とありまするのです。結婚は二人を一体とする神秘的事実です。体だけではなく、心もひとつになることによって幸せな夫婦になります。そのために信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じである必要があるでしょう。だから、クリスチャンはノンクリスチャンではなく、クリスチャンと結婚するし、同じクリスチャンでも同じ教会の人と結婚しようとするのです。結婚してから幸せな夫婦であり続けるためには互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合うために努力する必要があります。結婚によってふたりは一体となるのに、まだ心が父母を離れず、妻の料理より母の味噌汁が美味しかったというようなことを言ってはいけません。妻や夫が恥ずかしく思うようなことを言ってはいけないのです。本当に幸せな夫婦は二人の間に何も恥ずかしいことがありません。25節をご覧ください。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。素晴らしい夫婦関係を見ることができます。恥ずかしいと思わなかったということは二人の間に隠し事も、ウソもなく、罪がないということです。そのとき、夫婦は恥ずかしくない関係になります。私たちの家庭が夫は妻に、妻は夫に何も恥ずかしいことがないものでありますように祈ります。そのとき、家庭は神様に喜ばれる家庭になると信じます。エデンの幸せ、神様の祝福が皆さんの家庭に、夫婦の間にあふれるように祈ります。以上で、私たちは神様がいかに人間を愛してくださったかを学ぶことができました。神様は人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在にしてくださいました。エデンの園という素晴らしい環境を与えてくださいました。そして、ひとりでいるのは良くないので家庭を作ってくださいました。これらが私たち人間に対する神様の愛のしるしですが、私たちにとっては大きな祝福です。私たちがこの祝福の中で生き続けるためにはどうすればいいでしょうか。15節をご一緒に読んでみましょう。, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。”神様は私たちのために与えてくださった環境を耕せました。「耕す」(カルチベイト)は「文化」(カルチベイション)に通じています。人間は産業、芸術、教育などを通して文化を生み出すことで神様の愛を感じ、体験する存在として造られたのです。だから、私たちは神様から与えられた環境の中で文化活動を通して神様の恵みを味わい、神様の愛を体験することができます。それによって神様の形に造られた人として生かされている喜びを覚えることもできます。「またそこを守らせた。」とあります。「守る」とは自然を管理することであり、神様が与えられた御言葉を守ることです。神様が立てられた家庭の秩序を守ることでもあります。それを通して神様の形に似せて造られた人間、いのちの息が吹き込まれた人間として神様との交わり続けることができます。何よりも私たち人間は神様の御言葉を守る時に幸せに生きることができます。16、17節をご覧ください。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。私たち人間が最初に守るべき御言葉はこの2節だけでした。しかも、無限の自由と祝福の中でただ一つ善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言うことです。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、許可を与えてくださいました。何と恵み深いことでしょう。エデンでは毎日がご馳走のフルコースです。採るも自由、食べるも自由のバイキング状態だったのです。エデンの園での生活を想像すると、毎日が楽しく、心地よく、快適であったかと思わされます。ただ、「善悪の知識の木」だけが、食べてはいけないと命じられました。そして「食べたら、あなたは必ず死ぬ」と警告されました。なぜでしょうか。それは「人間が神様ではない、神様の命令のもとに生きるべき存在だ」ということをわきまえさせるためだったと思います。人間は神様から特別に愛される存在でした。人間は神様の創造の中心、文化を創造し、自然を守る使命を頂きました。エデンの園というすばらしい住まいにも恵まれました。すべて神様に造られたものの中で、人間は何から何まで特別扱い、特別待遇でした。しかし、そうであっても人間は神様ではないのです。善悪の知識の木を見るたびに、自分は神様の被造物にすぎない存在であることを覚え、神様を恐れよという命令だったのです。私たちの前に善と悪の道があります。神様に信頼し、神様の言葉に従うことが善です。神様が与えてくださった環境を守り、家庭を守ることが善です。夫婦関係、親子関係を守ることが善です。それこそ幸いの道でもあります。そして、神様に背き、神様から離れることは悪です。自分が地球の支配者であるかのように振る舞い、神様の造られた世界を汚し、壊すことは悪です。神様抜きにものごとを考え、判断し、神様抜きで正しく行動できる、神様抜きでも幸せになると思うことは悪です。それらは悪であって、滅亡と死へ道です。こういう知識の木から取って食べることは善悪の基準を無くしてしまうことになります。それは絶対にあってはいけません。善と悪をわきまえることは子どももできることだからその基準を覚えることは無視してしまいがちです。学校でも数学や英語を学ぶ時間は多くても倫理や道徳の時間はほんの少しです。しかし、それを無くしてしまってはいけないのです。ところが、人間はその善悪の木から取って食べてしまいます。エデンの園という最高、最善の環境におかれたのに、神様の愛と祝福を忘れてしまいます。神様を離れることが悪と知りながら神様抜きの人生を選んでしまうのです。本当に残念なことです。このことに関して来週に勉強します。私たちはイエス・キリストを信じることによってこの素晴らしいエデンの園を回復すことができます。信仰によって救われると神様との交わりができ、神様の御言葉を守るようになるからです。どうか、私たちが神様の御言葉を守ることによってエデンの園を通して示してくださった幸福を自分のものにして行くことができるように祈ります。無限に与えられている神様の恵みと祝福の中で神様の愛を経験しながら神様から与えられた御言葉もよく守って行きますように祈ります。

14Genesis18M ヤコブを祝福したイサク

14genesis18m, ヤコブを祝福したイサク, 2014年創世記第18講メッセージ(朴エズラ)ヤコブを祝福したイサク御言葉:創世記27, 1−45要, 節:創世記27, 33「イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」」「10本の指を噛んで痛くない指はない」という諺がありますが、親によって噛んで痛い指もあると言われています。今日の本文には、イサクとリベカの偏愛が子供たちにどんな影響を及ぼしたかを見ることができます。また、神様は彼らをどのように助けてくださったかをも学ぶことができます。罪深い人間の思いというのは、神様の御心に背く方向に行きやすいですが、神様は人間の思いを拾い上げて、神様のご計画が実現するように助けてくださるのです。そして、神様の祝福の価値を知っているヤコブが祝福されるように導いてくださいました。神様はイサクとリベカの家族とともにおられ、彼らの自己中心的な思いと高慢の罪の中でも彼らを助けてくださいました。私たちが、本文のイサクのように、自分の間違ったことを悟るとき、神様の導きに恐れおののき、素直に従うことが出来るように祈ります。?。祝福をだまし取るヤコブ(27, 32)1, 4節をご覧ください。年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったイサクは、長男のエサウを呼び寄せて祝福しようとしました。当時、イサクは137歳(ヤコブ77歳)と言われており、14年前に死んだ異母兄のイシュマエルの死, から、何か暗示をもらったか自分の死を備えようとしました(しかし、イサクが実際に死んだのは、180歳です, )。おそらく、イサクは、エサウが自分の長子の権利をたった一杯の煮物と交換にヤコブに売ってしまったことを知らなかったかもしれません。聖書での祝福とは、単なるこの世の富や成功ではありません。神様からの祝福は命ある者が生きていくための日々の生活の原動力です。イサクは神様が自分をどれほど祝福してくださったか、たくさん体験しました(25:11)。しかも、神様の祝福は、自分ばかりでなく、自分の子どもたち、将来の子孫までずっと続いていく大事な約束です(12:13)。イサクは自分が元気なうちに、それを長男エサウに譲りたいと思いました。エサウは神様の祝福の意味を知らず、いそいそと心躍らせて狩りに出かけました。それでは、そもそも、エサウはどんな人でしょうか。先週学んだように、エサウは穏やかな人のヤコブと違い、巧みな猟師、野の人であり、神様の祝福より現実的で目に見える肉的なものを求めました(25:27)。その結果、長子が受ける祝福の権利を軽蔑し、軽々しくその権利をヤコブに売ってしまいました(25:28, 34)。何よりも、エサウは四十歳に二人の異邦の女性と結婚し、二人の妻は親の悩みの種となりました(26:34、35)。もちろん、それにはしっかりと教えなかった親の責任もあるかもしれません。とくに、父親のイサクの責任が大きいのではないかと思います。なぜなら、イサクは穏やかで自分と似ているヤコブより、愛妻のリベカのように活動的なエサウが好きだったかもしれません。とくに、25章28節を見ると、イサクは猟の獲物を好んでいたので、ヤコブよりエサウを愛していました。イサクは全人生において神様の御前で生きてきました。父親が自分を生贄として捧げようとした時、従順して従いました(22章)。父親が紹介したリベカと信仰によって結婚しました(24章)。リベカが子供を産めなかった時、妻のために祈願し、その祈りに答えられました(25:21)。また、飢饉の時、神様の御言葉に従って、エジプトに行かなかったのです(26章)。イサクはエサウに対する偏愛を除いて、いつも神様の御心に適う人生を生きてきました。しかし、年を取り、視力が衰えてくると、霊的な目も暗くなるでしょうかね。イサクは神様に祈らず、自分の思いのままで長男エサウを祝福しようとする過ちを犯したのです。すでに、妻リベカを通して、子供たちに置かれた「兄が弟に仕える」(25:23)という神様の御心を聞いたはずですが、美味しい食べ物のことで目がくらみました。その結果、イサクの家庭に大きな問題が起きてしまったのです。5a節をご覧ください。リベカは、イサクが長男エサウに話しているのをひそかに聞いていました。霊的な分別力を失ったイサクも問題ですが、妻のリベカも問題をこじらせました。夫イサクが年を取り、霊的な分別力を失った時、きちんと神様の方法で解決せず、自分の思いと計画で解決しようとしたのです。つまり、愛していたヤコブと共謀して、夫と長男エサウを欺瞞しようとしたのです。もしも、その段階である奥様のように、「あなた、神様の御心も知りませんか。視力が悪くても、霊的な目はしっかりすべきでしょう」と正したなら、家庭問題がそこまで深刻にならなかったでしょう。しかし、普段頑固なイサクの性格のせいか、活動的なリベカも今回はなぜか、夫を騙す計画をたくらみました。5b, 7節をご覧ください。まず、リベカはヤコブに、イサクから聞いた話を伝えた後、愛する息子ヤコブを共謀者にしてしまったのです。もしかするとリベカは、双子が生まれる前に神様がくださった言葉を思い出したかもしれません。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」という言葉(25:23)です。神様の御言葉を覚え、その御言葉に従おうとしたリベカの心は理解できます。しかし、残念にもリベカは神様の方法でこの問題を解決しようとしませんでした。そのまま放置すると、神様の御言葉の通りにならないという焦りのため、自分が計画を立てて神様の御心を成し遂げようとしました。8−10節をご覧ください。“それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。/さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。/あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。”リベカはヤコブに命じて、強引に従えわせようとしました。それほど切迫した気持ちはよく理解できますが、それは結局家族に大きな問題を起こしてしまいます。リベカがこの計画を息子ヤコブに話した時、ヤコブはためらいました。11, 12節をご覧ください。“しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。/もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」。”ヤコブの躊躇は、父イサクに嘘がばれたときのものだけではなく、父を騙すことによって、祝福どころか、のろいを招くことへの恐れがありました。しかし、母リベカは、息子ヤコブの話を通して悟ることができず、自分の計画と思いのままで強引にヤコブを自分の計画とおりに従うようにしました。13節をご一緒に読んでみましょう。“母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」”。呪いは自分が引き受け、祝福だけを息子ヤコブが受けるようにという決意です。しかし、リベカは自分の言葉がどういう結果を招くかを悟らず、自分の思いのままに進んでしまいました。その結果、神様に祈らず、ヤコブが夫イサクを騙して祝福を受け取るように仕掛けました。それによってエサウとヤコブの間の兄弟関係も悪化され、結局愛する息子と別れて、二度と彼に会えなくなります。14−17節をご覧ください。ヤコブはお母さんの指示通りに子やぎを取ってくると、リベカは夫イサクの好むおいしい料理をこしらえました。また、長男エサウの晴れ着を取って来て、それをヤコブに着せました。さらに、完全犯罪のために、子やぎの毛皮をヤコブの手と首のなめらかなところにかぶせて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡しました。リベカは、エサウを出し抜いてヤコブを跡取りにするために、ヤコブをエサウに変装させてイサクからの祝福を横取りさせる準備を徹底的にさせました。18, 19節をご覧ください。ヤコブが「お父さん」と呼びかけると、イサクは「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねました。双子の声は聞き分けにくいかもしれませんが、さすがイサクも少し声が違うと思ったか、「だれだね、おまえは」と聞いたのです。ヤコブはドキリとしましたが、大胆に嘘をついて、「私は長男のエサウです。」, と答えました。イサクはヤコブの料理を前にして、疑いが消えません。20節をご覧ください。イサクは続けて「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」と聞くと、ヤコブは思わず「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」と答えてしまいました。おそらく、ヤコブはうそがばれるのではないかと冷や汗が出たでしょう。神様の方法ではなく、人間の計画で祝福を得ようとした時、結局、神様の名前まで出して嘘ついてしまいました。神様の名前まで出してうそをつくというのは、「あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない」(出, 7)、「わたしの名によって、偽って誓ってはならない」(レビ, 12)という神様の御言葉を破ることになります。みだりに神様の名前を出して嘘をつくことは重大な罪です。この後、ヤコブは兄エサウに憎まれ、愛する母リベカと別れて、ハランの地で20年にも及ぶ苦難の逃亡生活を強いられます。何よりも、自分も叔父ラバンに何度も騙されるようになります。21−27a節をご覧ください。イサクはヤコブに触って確かめますが、ヤコブの腕がエサウのように毛深かったので「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」, と言い、もう一度「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」, と尋ねました。しかし、ヤコブはイサクのこの念押しに「私です」と力強く答えました。最後、ヤコブが口づけすると、イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福しました。27b, 29をご一緒に読んでみましょう。「ああ、わが子のかおり。【主】が祝福された野のかおりのようだ。/神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。/国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」神様は、イサクの過ちと、リベカとヤコブの人間的な計画を知りながらも、黙っておられました。いや、その中で神様が働いておられたのです。イサクはエサウを祝福するつもりでしたが、ヤコブを祝福してしまったのです。イサクは、父アブラハムからの祝福が次の世代で実現されるという望みを持ってヤコブを祝福しました(へブル11, 20)。イサクの祝福は大きく、(1)雨と作物の豊かさ(申命記33:28;箴言3:20;詩編133編)、(2)国々のリーダーになること, ?列王記9, 21;マタイ12, 28;マタイ28, 20;黙示録22, 5;ピリピ, 、(3)他の国民に神様の祝福を伝える役割でした。ここから分かるように、神様からの祝福は、私たちが単純に思い描いてしまうように楽に生きていくことや、心配事がなくなること、苦しい経験、辛い経験、悲しい思いをしないというようなことではありません。つまり、神様の祝福は一時的なものではなく、その生涯にずっと共におられるということにあるのです。こうした神様の祝福は、私たちの人生でも同じく言えます。私たちの歩みは、世の人々の幸せの基準からすれば、決して楽な生き方をしているわけではありません。しかし、私たちのすべての生活の中で、神様が私たちと共におられることを体験しています。苦しみの中にも、悲しみの中にも、自分の描いた通りになかなかならなくても、私たちは神様が私たちと共におられることを、たびたび体験するのです。そして、その神様こそ、私たちとともにおられ、私たちの人生を導いてくださる方であると告白するのです。ですから、私たちが愛する人々も、この祝福の中で生きて欲しいと願うのです。神様とともに歩むことが、愛する私たちの家族と子どもにとって、ほかの何にも勝る幸いとなるからです。30−32節をご覧ください。イサクがヤコブを祝福した後、エサウが料理を持ってきました。しかし、すでに祝福の受け渡しは終わってしまいました。?。激しく身震いするイサク(27, 33−45)33節をご一緒に読んでみましょう。“イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」”騙されたことを知った時に、イサクは激しく身震いしました。その身震いは、自分を騙した妻リベカと息子ヤコブに対する怒りや悲しみに震えたのではなく、神様の臨在を感じたからでした。神様の御心は、神様の祝福を煮物一杯に売ってしまうようなエサウではなく、その祝福の素晴らしさを知っているヤコブを継承者として立てることでしたが、イサクは自分の思いのままでエサウを立てようとしました。子供たちが生まれる時、リベカにくださった神様の御言葉の意味を深く考えるべきでした。何よりも、エサウが神様を知らない女性たちと結婚し、自分とリベカの悩みの種になった時、イサクは悟るべきでした。父アブラハムがどれだけ苦難の人生を通して神様の祝福をいただき、それを継承させるために、信仰の女性リベカと結婚させたその思いを忘れてはいけませんでした。しかし、人間的な好みのため、神様の導きに鈍感になり、盲目的にエサウを愛し、息子ヤコブに騙されて、やっと神様の御心に気づくようになったのです。ヤコブに騙され、ヤコブを祝福するようにさせた神様の働きに気づいた時、いかに神様に祈らず、自分のわがままで物事を決めたかを悟ったのです。神様が人間の思いや人知を超えて生きて働いておられることを悟った時、その神様に対する恐れがイサクを震えさせたのです(エペソ3, 19)。人間がどのように振舞っても、神様のご計画を妨げることはできません。私たちのすることは全て、私たちの時でさえも、神様の御手の中にあるわけです(詩, 15;詩, 7;詩, 5)。そしてその全てが、神様のご計画が実現するために用いられるわけです。人間が神様に従おうと、背こうと、どちらにしても実現するのは神様の御心です。そのことを知った時、人間は震えずにはいられないのです。心の底から神様を恐れるようになるのです。今日の御言葉を通して何故イサクのような人が、信仰の先祖となったのかがわかるような気がします。イサクも私たちのように弱さを持っていましたが、神様の臨在を感じた時、身震い、自分の自我と自己中心的な考えをおろし、神様の御心に従ったからです。神様はこのようなイサクを救いの御業に用いられました。私たちもイサクのように神様の御心を感じた時、身震い、悔い改める生活をしていきたいと思います。そうするとき、私たちの生活には霊的な変化があり、成長があり、未熟な私たちを神様は用いてくださると信じます。神様は、時には思わぬ出来事を通して、私たちの過ちを悟らせる場合があります。時には失敗を通して私たちの過ちを悟らせます。そこで、神様は信仰の人たちを試練に会わせられます, 創22:1;ルカ8:13;ルカ22:28;?コリント10, 。なぜなら、失敗や苦難のような試練と艱難が忍耐を生み出し、私たちの罪深い品性が変えられ、いずれ信仰の希望に至るようにするからです, ロマ5, 3、4, 。ダビデは、偉大な信仰の人でしたが、彼も情欲に弱く姦淫の罪を犯してしまいました。当時の権力者のように、王の権力で部下のウリヤの妻バテ・シェバを奪いました。しかし、神の人、ナタンに自分の罪に対して責められた時、ダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と告白し、悔い改めました(?サムエル12, 7、13)。一方、ダビデと対照的に、サウルは、神の人サムエルの責めの言葉に悔い改めませんでした, ?サムエル15, 。聖書の中の偉大な信仰の先輩たちは罪を犯さなかった人ではなく、罪を犯した後、それに気づいた時、神様の前で真摯に悔い改め、悔い改めに相応しい実を結んだ人たちです。イサクもそういった人でした。私たちもイサクのように、弱さのゆえ自己中心的なことを行ったとしても、神様の悟りに敏感に反応して悔い改めることができるように祈りたいと思います。とりわけ、問題がある時だけではなく、祝福の時も祈って、物事を決めることが出来るように祈ります。イサクとリベカも子供が生まれない時はよく祈ったはずですが、子供に祝福を与える過程ではイサクもリベカもあまり祈らなかったのです。また、祈る時は、自分の思いを主張せず、ゲツセマネで祈られたイエス様のように神様の御心を成し遂げてくださるように祈りたいですね(マタイ26:39)。34−40節をご覧ください。イサクは、泣きながら祝福を求めるエサウに、すでに神様からの祝福が終わったことを伝えました。エサウの子孫の地エドムは、農耕には向きませんでした。そしてエドム人は、ヤコブの子孫イスラエル人に、ダビデ王の時代に支配されます(?サムエル8, 14)。しかし、イサクが「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」, と付け加えたように、のちに独立することになります(?列王記8, 20)。騙したヤコブに問題があったかもしれませんが、エサウにはもっと深刻な落ち度がありました。ヤコブが食べ物の引き換えに長子の権利を求めた時、ヤコブが後継ぎになりたがっていることをエサウは心得ていなければなりませんでした。しかし、彼は自分にとって都合のいいようになるだろうと考えていたのです。神様からの祝福を受け継ぐということを軽く考えていたということになります(25:34)。神様からの祝福を受け継ぐということほど大切なことはありません。エサウは騙されたことを知った時、悲痛な叫びをあげて激しく泣きました。神様の祝福にあずかることができないということはそういうことです。神様の祝福にあずかることができるかどうかということは人生最大の問題です。41節をご覧ください。“エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」”エサウは父イサクのように悔い改めて、神様の御言葉に従っていこうとすべきでしたが、むしろ自分の感情のままに弟を殺そうとしました。上記で上げたサウルもエサウのようにダビデをずっと殺そうとしましたが、結局惨めな最後を遂げるのです。42−45節をご覧ください。エサウの殺意の問題を解決するために、リベカはヤコブを、しばらくの間、兄ラバンのもとに送るという計画を立てます。ところが、これは、彼女の予期せぬ方向に流れました。ヤコブはラバンのところに行きますが、20年間離れて、彼が戻ってこないうちに、リベカは天に召されます(31:38)。神様の御心を知っていても、神様の方法ではなく、自分の思いと計画で行う時、試練が待っているのです。私たちがいつも神様の方法で神様の導きに従う人になるように祈りたいと思います。何よりも、イサクのように神様が悟らせてくださった時、謙虚に自分の罪を認め、悔い改める生活が出来るように祈ります。

14Genesis9M あなたの名は祝福となる

14genesis9m, あなたの名は祝福となる, 2014年創世記第9講あなたの名は祝福となる御言葉:創世記11:27−12:20要 節:創世記12:2「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」 今日、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に遣わす派遣礼拝をささげるように導いてくださった神様に感謝します。二人の前で言うことは失礼なことですが私はこの二人にさまざまな面で助けられて来ました。また二人の謙遜と忠実さから教えられる時も多くありました。ほんとうにこの教会にも多大な影響を及ぼして来たと思います。だから、この家族を福岡に遣わしたくありませんでした。なんとか東京に戻って来てほしいと思っていました。私にはバベル塔を建てたノアの子孫たちのように、彼らと一緒にこの東京ubf教会を大きくして行きたいという心もあったのです。しかし、神様は私たちが一つのところに集まってバベル塔を建てることより、散らされて行くことを望んでおられました。神様はアブラハムを召して祝福し、彼を通してすべての民族が祝福されるようにしたようにヨセフ宣教師家族を祝福し、彼らを通して九州大学の学生たち、福岡の人々も祝福されることを望んでおられます。 ですから、神様は派遣礼拝の御言葉として創世記12章の御言葉を与えてくださったと信じます。実際に今日の本文は派遣礼拝だから私が特別に選んだのではありません。私たちが選んだ聖書の個所でもありません。私たちは16日に派遣礼拝をささげようとしていました。そうなったら派遣礼拝の御言葉が12章ではなかったはずです。ヨセフ宣教師の事情があって一週間前にしたのですが、不思議にも創世記メッセージの順番が12章になっているのです。神様の導きに驚き、心から感謝します。では神様はアブラハムをどのように召され、どのようにして遣わされたでしょうか。アブラハムは神様の召されに対してどのように反応したでしょうか。この時間、アブラハムの神様を深く学び、御言葉を聞いて従ったアブラハムも深く学ぶことができるように祈ります。先週、私たちはノアの方舟による新しい歴史は失敗したことを学びました。神様は人々が集まってバベル塔を建てるのをやめさせました。主が人々をそこから地の全面に散したからです。しかし、愛の神様は人間をあきらめませんでした。人類の歴史がバベルの町を建てることで失敗しても全くあきらめませんでした。そして今度は神様とともに歩み、全き人であったノアとは違う人を得られます。神の御心にかなっていたノアのように偉い人ではなく、平凡な人です。偶像崇拝が盛んなところでそこの人々と一緒に偶像崇拝をしている人です。この世の知者でもなく、権力者でもなく、この世の愚かな者であり、この世の弱い者です。75歳の年寄りアブラハム、その年までひとりの子どももいなかったアブラハムを選んだのです。神様はこのアブラハムを通して全く新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられました。そこで、創世記の著者は12章から紹介するアブラハムの歴史を始める前に彼の家族関係と生まれ故郷についても書き記しています。11章27、28節をご覧ください。「これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。」とあります。アブラムの父はテラです。ヨシュア記24章には彼が偶像崇拝者であったことを記しています。アブラムの3人兄弟の中でハランは父テラの存命中に死にました。後でハランの息子ロトはアブラムが連れて行きます。娘ミルカはナホルの妻になります。そして、アブラムの妻サライがいますが、彼女は不妊の女で、子どもが生まれませんでした。 そこで、テラはアブラム、ロト、サライとを伴い、カナンの地に行くために、カルデヤ人のウルから一緒に出掛けました。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住み着きました。そこで平凡な生活をしていたテラは205歳の時に死にました。その時、アブラハムにどんなことがありましたか。12書1節をご一緒に読んでみましょう。「主はアブラムに仰せられた。『あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい』」「アブラム」は後に名前を変えられて、アブラハムと呼ばれるようになった人物です。今から4千年ほど前の人で、イスラエル民族の先祖となった人です。神様はアブラハムに「生まれ故郷、父の家」を出て行くように命じられました。年寄りの人が生まれ故郷を出て行くことはそれだけでも厳しいことです。普通はなかなか忍び難いことです。さらに、父の家を出て行くことも大変なことでしょう。今から4000年前の古代社会においては、一切の人間の絆と、身の安全、命の保証すら、捨て去ることを意味します。神様が私たちをお招きになるときにも、「自分を捨てて私に従いなさい」と言われます。それは、私たちにとっても人間の絆、身の安全、いのちの保証すら神様に委ねなさいと言われることでしょう。今まで築き上げてきた人間の絆、自分の安全、生活のすべてを捨てるほどに神様に委ねるということはなかなか厳しいことでしょう。神様のお招きに「はい!」と言って従うことは、やさしくないと思います。ところが、神様は出て行くことを命じるだけではなく、それに伴う祝福も約束してくださいました。2、3節をご一緒に読んでみましょう。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」ここに、「祝福」という言葉が5回も繰り返されています。創世記3章のアダムの堕落から11章のバベルの塔までの間には「呪い」という言葉が何度もありました。そのすべての呪いを覆すような力を感じます。神様は今までの人類の呪いの歴史を、祝福の歴史へと変えようとしておられるのです。その決定的なターニング・ポイント、転換点においてアブラハムの信仰が用いられるのです。ヘブル人への手紙11章によるとアブラハムがそれを聴いて信じたのですが、その信仰が人類の歴史を祝福の歴史に変えて行くターニング・ポイントになったのです。私は個人的に大学1年生の冬が呪われる人生から祝福される人生に変えられるターニング・ポイントになったと思っています。その時、私は神様がアブラハムに与えられたこの御言葉を自分にも与えられたと信じて祝福の人生を始めたからです。その時、牧者宣誓をした私の所感のタイトルは「あなたは福のかたまりになれ, &#45320, &#45716, &#48373, &#45929, &#47532, &#44032, &#46104, &#46972, 」でした。振り返ってみると、その後の私は祝福された人生を生きて来たと思われます。何の問題もなかったわけではありませんが神様から愛され、祝福された人生になったと告白できます。神様に心から感謝しています。神様がアブラハムに約束された祝福は、内容的に考えてみますと、大きく四つ数えることが出来ます。一つ目はアブラハムが大いなる国民となることです。二つ目は彼が祝福そのものになることです。つまり、祝福の源、祝福の基(もとい)となることです。三つ目は彼に土地が与えられることです。四つ目は彼に約束の子、イサクが生まれることです。 先ず、大いなる国民となります。これは、バベルの塔を建てて名を挙げようとして失敗した人々と、ちょうど対照的です。アブラハムの子孫は自分の力によってではなく、神様の祝福によって大いなる国民となるのです。 二つ目にアブラハムは「祝福となる」ということです。これは神様がアブラハムを通して全世界をお救いになるという、約束です。彼が選ばれたことの使命が、この中に語られています。アブラハムは祝福そのものとして救いのみわざに用いられるのです。三つ目にアブラハムに土地が与えられる、と約束されています。7節を見ると神様は「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束してくださいました。土地は人間が生きて行く支えです。罪を犯した人類に対する神様の呪いは、全部「土地を追い出される」という形で語られていました。アダムとエバも、カインも祝福されていた土地から追い出されました。農耕社会において人間に土地がないということはとても悲しいことです。私は農民の子どもとして育ちましたからその悲しみと苦しみを少しは理解しています。2011年東日本大地震以後、福島、東北地方の人々が今なお苦しんでいるのは何でしょうか。それは土地を使えなくなっているからです。多くの人々が生存の根拠を奪われ、故郷から出て行きました。ところが、アブラハムには、土地が与えられると約束されているのです。四つ目に、約束の子が生まれることです。具体的に、イサクが与えられます。それは、地上の命が神様によって祝福されていることを意味します。このようにして、不妊の女だったアブラハムの妻サラの胎から子どもが生まれるようになりました。夜空に輝く星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫が生まれるようになったのです。実際に、アブラハムの生存の時に息子が生まれ、その後、すべてが実現されています。では、アブラハムはどのようにお応えしたのでしょうか。4節をご一緒に読んでみましょう。「アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。」アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけました。彼は「なぜ自分なのか」と問い返すようなことを言いませんでした。具体的な説明も要求しませんでした。彼は問い返す必要も感じなかったようです。ただ、約束してくださった方は真実な方だ、と信じているのです。無条件的に、単純に従いました。ほんとうに幸いな人です。イエス様はトマスに「「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。これを、「見ないで(確かめないで)信ずる信仰」とか、「聴いて信じる信仰」と言います。アブラハムの信仰は、「聴いて信じる信仰」です。そして神様は、このアブラハムと共に、新しい、人類を救う歴史を始められました。神様の御言葉を聞いて信じる人はアブラハムのように祝福され、用いられます。 また、アブラハムには感謝と祈りの信仰がありました。7、8節をご一緒に読んでみましょう。「そのころ、【主】がアブラムに現れ、そしてと仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。」 「祭壇を築いた」というのは神様への感謝を表したことです。事実、これから展開される彼の人生を見るとこのようにして、祭壇と共にあった生涯でした。私たちの人生の歩みにはいろんなことが起こります。経済的困難な時もあります。精神的に疲れている時もあります。病気、失敗、挫折、そういう暗い道を歩む時もあるのです。でもそのような中でも神様が私たちと共にいてくださいます。私たちを必ずいやし、救い、回復してくださいます。時には試練を通して、私たちを訓練し、そのような試練に打ち勝つ信仰へと成長させて下さいます。先ほど、私はアブラハムに与えられた約束の御言葉を信じた時が呪われる人生から祝福される人生へのターニング・ポイントだったと言いました。でも、毎日が順風満々ではありません。その後も何度も困難や試練に遭いました。今月、私は弟の墓を造ってあげるために韓国に行きますが、9年前に亡くなった弟の遺骨を葬るためです。私の弟が交通事故で亡くなってから6年の間に私の祖母、父、母が次々天に召されて行きました。愛すると死別することはとても悲しいことです。, 大変つらくて悲しい時期を通りました。でもそのような経験の中で私は人を赦すこと、愛することなどを学び、神様の愛と恵みも強く感じることができました。そして、感謝の祭壇を築くたびに、主からの恵みと祝福が段々大きく感じられるようになりました。それで何事も神様に頼り、祈れるようになりました。アブラムは晩年、人生最大の危機と同時に最高の祭壇を築かなければならない時を迎えます。それは自分の独り息子イサクを祭壇に献げるということでした。どんなに辛くて大変だったでしょうか。自分が死んだほうがましだと強く感じたでしょう。でもそれを通してアブラハムは神様が御独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに自分を愛しておられるということが分かったことでしょう。このようなアブラムの感謝と祈りの祭壇は私たちも常に神様への感謝と祈りが必要であることを教えてくれると思います。それを通して私たちも神様の愛を体験して行くことができるからです。本当に、私たちが神様に自分自身をささげる生活をするときに不思議な神様の祝福も体験して行くことができます。パウロはそれを深く悟ったことでしょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。, ローマ12, 」どうか、私たちが神様の約束の御言葉を信じてアブラハムのように自分自身を神様にささげる生活ができるように祈ります。以上で、私たちはアブラハムの新しい出発、神様の御言葉に動かされて動く祝福の人生を出発したことを学びました。今日の御言葉がヨセフ宣教師と直美牧者の人生においてターニング・ポイントになりますように祈ります。呪いから祝福へ変えられるターニング・ポイントではないでしょう。すでに救われているからですう。でも、私は日本ubfのみわざにおいて一つの家庭から大いなる国民を形成して行くみわざのターニング・ポイントになりますように祈ります。昨日、聞いたのですが、ヨセフ宣教師の長男の禄也は夢の中で多くの友達に御言葉を宣べ伝えていたそうです。その中でお母さんは信仰がない顔をしていたとも言ったそうです。それもあって○○牧者は新しい福岡のみわざを準備して行くために断食祈りを決断したそうです。このような話を聞きながら私は繊細な神様の導きを感じました。神様が子どもの夢を通して福岡開拓のみわざを備えて行かれることも悟りました。これから○○牧者は寂しさも経験すると思います。すると子どもの目には信仰がなさそうに見えるかも知れません。でも、禄也君が夢の中で御言葉を宣べ伝えていたことを思いだしてください。それからアブラハムひとりから夜空の星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫ができたことを覚えていてください。神様が○○牧者家族を大いに祝福して九州大学の学生を始め、福岡の人々を祝福してくださることを信じます。私たちひとりひとり神様の御前で個人的に御言葉を聞いて従いますように祈ります。そうしてほんとうに祝福された人生に変えられて行きますように祈ります。

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14New2.この水は良くなる

14new2, この水は良くなる, 2014年新年修養会第2講この水は良くなる御言葉:エゼキエル書47:1−12要 節:エゼキエル書47:81.1,2節を読んでみましょう。エゼキエルは、幻の中で神殿の入口に連れ戻された時、どのような光景を見ましたか。「神殿から水が流れ出る」とは、何を意味するのでしょうか, 参照.ヨハネ7, 。2.3−5節を読んでみましょう。神殿から流れ出る水は、次第にどうなって行きますか。これは、何を意味するのでしょうか, 参照.ヨハネ1, 。3.6−10節を読んでみましょう。「川の両岸にある非常に多くの木」は、何を指していますか。これは、何を意味するのでしょうか, 。4.11節を読んでみましょう。その「沢と沼」はどうなりますか。ここで、「沢と沼」は何を意味しているのでしょうか。5.12節を読んでみましょう。川のほとり、その両岸になる果樹はどれだけ豊かになりますか。また、その葉には、どんな効能がありますか。そのようになる理由は何でしょうか。聖所から流れ出ている水が、私たちにどんな望みをもたらすのかについて、話して見ましょう。

14Genesis11M 星を数えることができるなら、それを数えなさい

14genesis11m, 星を数えることができるなら、それを数えなさい, 2014年創世記第11講星を数えることができるなら、それを数えなさい御言葉, 創世記15, 1−16, 16要節, 5「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」フランスの数学者・哲学者・思想家だったブレーズ・パスカルは「神を感ずるのは心情であって理性ではない。これが信仰と言うものである。」と言いました。私も共感しているところです。アブラムを召され、彼を導かれた神様を理性では理解することができません。アブラム自身も理性では神様の導きが理解できなかったことでしょう。ところがアブラムは心情で神様を感じ、御言葉を信頼して従いました。すると、彼は神様の御言葉を体験することができます。そうしてますます深く神様と交わり、信仰が成長して行きました。先週、14章を通して学んだようにアブラムはロトを救い出すために自分の家で生まれたしもべ318人を召集してケドルラオメル大同盟軍と戦い、勝利しました。でも、それは理性では理解できない非常識、無鉄砲の行動でした。何とか国々の王たちと戦って勝利しましたが、戦いの後には連合軍の報復を恐れるようになりました。その上、命がけの戦いで救い出したロトは再びソドムの地での世俗的な生活に戻ってしまいました。この現実を思うと、ほんとうに寂しく、虚しくもなりました。そんなアブラムに主のことばが臨まれました。神様は現実の問題に縛られているアブラムに約束の御言葉を与えられます。彼の家庭の問題も解決してくださいます。この時間、御言葉を通して偏狭な自分の世界、現実問題から目を上げて神様の世界を仰ぎ見ることができるように祈ります。神様の御言葉を信じて神様に義と認められ、祝福される人生を生きることができるように祈ります。?.恐れるな。わたしはあなたの盾である15章1節をご覧ください。「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」」とあります。神様は連合軍の報復を恐れているアブラムに「アブラムよ。恐れるな。」と励ましてくださいました。神様は「アブラムの盾である。」から恐れる必要がありません。「盾」は昔の戦いで自分を守る武器です。現代の家やパソコンを守るセキュリティ・システムと言えます。神様は最高のセキュリティ・システムより安全に私たちを守ってくださるお方です。神様は高感度のセコムのレーザーセンサーよりも遥かに高い感度の聖霊のセンサーで私たちを守ってくださいます。それだけではありません。神様は報いてくださる方です。神様は「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と約束してくださったのです。実際に、神様が信仰によって良心的に生きている人が受ける報いは非常に大きいです。やがてアブラムは体験して行きます。子どもが生まれるし、あらゆる面で祝福された人生であると告白するようになります。 ところが、私たちはアブラムと同じく、神様の御言葉に従って来たにもかかわらず今の状況が良くなければ恐れと不安感に苛まれます。漠然として不安感に苛まれて苦しんでいる人もいます。何度も挑戦したのになかなか就職が決まらないと不安になります。「はたして就職できるだろうか」と恐れます。就職すると安心して生きられるでしょうか。会社員は「リストラされるかも知れない。」「この会社が倒産するかも知れない。」と言う不安感に苛まれている場合が多いです。未婚の方は結婚に対する不安と恐れがありますが既婚の方は子育てや子どもの将来のことで恐れ、不安感に苛まれて苦しみます。それだけではありません。今月8日未明に乗客乗員239人を載せたマレーシア航空機が姿を消してしまいました。いつ、どこで何が起こるか分かりません。通り魔事件もあります。会社生活、社会生活の中では中傷・あざけり、おどし等などが私たちに襲って来ます。私たちが信仰によって勝利したとしてもサタンの報復は終わっていません。私たちの敵であるある悪魔が、ほえたけるししのように食いつくべきものを捜し求めながら、歩き回っています(?ペテロ5, 8)。だから、私たちはしばしば恐れと不安感に苛まれて苦しむのです。しかし、神様を信じている人は恐れなくてもいいです。神様は私たちにも言われます。「アブラハム寺崎よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」「祈祷よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」神様は必ず私の盾、あなたの盾となってくださいます。この険しい世の中でも、神様は私たちを守り、私たちの行く先々に勝利を与えてくださいます。また私たちの受ける報いは非常に大きいものになります。 ですから、私たちは安心して平安に生きることができます。私たちが理性的に考えないで心から神様に信頼するならば、私たちは衣服の下に防弾チョッキを付けているようなものです。神様があらゆる敵から私たちを守ってくださるからです。また、神様は神様を信じて生きる私たちに報いてくださいます。私たちの受ける報いは非常に大きいものです。 ○○牧者はフランスで留学してきて東京大学を卒業しました。日本社会で言うところの典型的エリート街道驀進中のキャリアウーマンでした。でも、イエス・キリストを信じてからアブラムのように新しい出発をしました。世間では理解できないほどに貧しい留学生と結婚してアルバイトしながら学生の夫を支え、二人の子育てもしてきました。将来に対する恐れと不安もあったことでしょう。でも彼女は○○姉妹を始め、兄弟姉妹たちに仕え、赤門フェローシップのみわざに同労して来ました。オーケストラを結成し、忠実に仕えて来ました。それにもかかわらず、夫の崔ヨセフ宣教師の卒業が伸ばされ、就職がなかなかできなかった時もありました。ヨセフ宣教師が福岡に行っている2年間は夫と離れて生活をしてきました。時々、このような事情を考えると私自身が心配になりました。ところが、神様は今年ヨセフ宣教師を福岡ubfの支部長、九州でトップの秀才が集まる九州大学の準教授にならせてくださいました。すでに兄弟姉妹たちも送ってくださって霊的に育てるようにしてくださいました。 私はこの家族を見ながら神様がご自分を信じる者たちの盾となって守ってくださること、彼らに非常に大きい報いがあることを深く悟り、確信するようになりました。神様は決してご自分を信じる者たちが滅びるようにすることはなさいません。ご自分の子どもたちを手放して置くこともなさいません。宇宙的なセキュリティ・システムで私たちを守り、私たちの将来を保証してくださいます。神様は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいます。私たちの盾となり、非常に大きい報いとなってくださる神様に心から感謝を申し上げます。 ?.天を見上げなさい 2, 3節をご覧ください。「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」とあります。アブラムは神様から「非常に大きい報い」と言われても理解できませんでした。彼の心には子どもの問題しかなかったからです。そこで、彼は「私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と言いました。彼は落胆していることが分かります。私たちもなかなか自分の問題が解決されない時は、神様の御言葉が聞こえません。神様は大切な事ほど小さな声でささやきますが、それを聞き取ることができないのです。では神様はアブラムをどのように助けてくださいましたか。4節をご覧ください。「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」」とあります。原語のヘブル語では、かなり強い語調で「その者があなたの跡を継いではならない。」と命じられているそうです。神様は、強い意志でアブラムから生まれてくる者がいるのだとおっしゃったのです。神様はアブラムが理性で考えて現実の可能性ばかりに目を向けることを叱られました。そして、ただすべてをお造りになった神様にある可能性を覚えるように助けておられます。それは天を見上げることでした。5節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」神様がアブラムを外に連れ出して神様が造られた世界の天を見上げるように命じられました。それは人間の可能性ばかり考えないで天地の創造主であられる神様を仰ぎ見なさいということです。それから神様が造られた星を数えることができるなら、全能の神様を考えなさいということです。実際に、アブラムが天を見上げて星を数えると、それを数えることができたでしょうか。東京に住んでいる私たちには星を数えることができるかも知れません。最近は朝5時になってもかなり明るくなっていますが、まだ暗い時は夜空の星が見えます。時々私は数えてみます。12個くらいで数えられなくなります。47個まで数えてみたいと思いますが一度もできませんでした。しかし、実際には数え切れない星があります。私たちの太陽系が属する銀河系には、2, 000億個の星があると言われています。そして、宇宙には銀河が1, 000億個以上もあると考えられています。まさに天文学的な数の星があるといえるでしょう。それらをどうやって数えることができるでしょうか。地球から人間の目で見える星の数だけでも7, 500個くらいだと言われていますがそれでも数えることは無理です。この無限な世界を造られた方が神様です。ですから、神様には不可能なことがありません。おそらく、アブラムは天を見上げて無限な世界を造られた全能の神様に気づかされたことでしょう。その時に、神様は「あなたの子孫はこのようになる」と仰って下さいました。神様のご計画は実に遠大なものでした。アブラムの想像をはるかに超えていました。神様はアブラムから子どもが生まれることだけではなく、その子孫は数えることができないほどに多くなると約束してくださったのです。私たちは自分の人生を自分の可能性の中で切り開くものだと考えています。自分の学歴や会社の資本金、親からの相続財産などで自分の人生が決まると思っています。ですから、それらの有無によって自分の人生の可能性も決めつけてしまいます。しかし実際はそうではありません。アブラハム寺崎牧者の家庭でも7年目に子どもが生まれました。奇跡は起こります。決して神様には不可能なことなどないのです。神様のご計画の通りにアブラハムの子孫は夜空の星のように数多く広がりました。イサク、ヤコブ、ヨセフに続いてダビデに繋がり、ダビデの子孫からイエス・キリストが生まれました。イエス様がお生まれになるとき、東方の博士たちがメシアの星を見て遠い東からベツレヘムまで訪ねて来ました。それで、ユダヤ人だけではなく、キリスト教も、イスラム教もアブラムの子孫であることを誇りにしています。このように、神様は私たちひとりひとりにも遠大な計画とビジョンを持っておられます。イザヤ55章8,9節を見ると, 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。エレミヤ29章11節を見ると「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。 ――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。天が地より高いように、神様のご計画は私たちの思いより高く遠大なものです。時々、私たちはちっぽけなことで悩み、恐れています。しかし、神様は私たちが夜空に輝く星のようにこの世の中で輝く将来と希望を与える計画を持っておられます。この時間、私たちが目を上げて神様の広大な世界、荘厳な世界を見ましょう。今の現実が暗ければ暗いほど、苦しければ苦しいほど天を見上げてください。夜空に輝く星を数えてみてください。神様は私に災いではなくて平安を与える計画を持っておられます。神様のなさることは、すべて時にかなって美しいものです。神様は必ず私たちに最高のもの、最上のものを与えてくださいます。神様はアブラムに息子イサクを与えてくださいました。ですから、私たちは神様の約束の御言葉を信じ、私に対する輝かしい将来と希望も計画しておられることも信じて行かなければなりません。どうか、神様が夜空に輝く星のような祝福を計画しておられることを受け入れてどこまでも神様の御思いに心を合わせて生きることができるように祈ります。では、神様の約束に対するアブラムの反応はどうでしたか。 6節をご覧ください。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラムは主を信じました。アブラムは自分に与えられた約束の御言葉を信じました。それを神様は喜ばれます。人間的には何の根拠もありません。ただ、神様がそう言われるので信頼します。それが信仰です。人間的な根拠を求め、理性的に考えるのではなく、それを超えて素直に信じるのです。父親が約束したことを、子どもが「どうせ父さんは口だけなんだから」と考えてしまうなら、親としては悲しいことです。しかし、「ぼくは父さんを信じるよ」と信頼してくれるなら、嬉しいものです。それと同じように、私たちの父なる神様は、私たちが約束の御言葉を信じることを喜ばれます。満足なさいます。そして、そのような信仰を神様は喜ばれ、義とされるのです。神様は私の立派な何かを根拠にして喜ばれるのではありません。子が父を信頼するように、神様を信頼し、神様の御言葉を信じる者を神様は喜ばれるのです。そのような者を神様は義と認められます。私たちもアブラムのように神様の御言葉だから素直に受け入れて信じる信仰を持って生きるように祈ります。神様に信頼しながら歩む人生は、神様に造られた者として神様の造られた世界で、神様の御力を味わいながら歩む人生になります。アブラムはその信仰の人生を選び取りました。すると、神様は彼の信仰を義と認められることだけではなく、彼をカルデヤ人のウルから連れ出した目的を教えてくださいました。それはカナンの地をアブラムの所有として与えるためでした。8, 21節を見ると神様がアブラムと彼の子孫が所有する地に対して契約なさったことが記されてあります。?.主は私をご覧になっている16章にはサライの問題を解決されたことが記されてあります。神様は、アブラムの子孫を星の数のようになさると約束されました。年老いたアブラムはそれを信じました。しかし、現実を見ると妻サライにはすぐに実現しそうには思われませんでした。そこで、サライはアイディアを出してひとつの提案をしました。自分には子ができないので、女奴隷のハガルによって夫アブラムの子を得ることです。いわゆる、代理母出産です。このような方法は当時の一般的な風習でもありました。そこで、アブラムもあまり深く考えませんでした。人間的には問題がなかったからです。しかし、それは信仰的な方法ではありませんでした。ハガルが妊娠すると、彼女は高ぶるようになりました。主人であるサライを見下げるようになりました。これでは本末転倒です。妻であるサライの立場がありません。サライは厳しい仕打ちをハガルに向けるようになります。ついにハガルは、サライの顔を避けて逃げ出しました。アブラムは神様の約束の御言葉を信じて義と認められたし、サライもそれを知っていたはずです。ところが、彼らは不安感と焦りに苛まれて人間的、理性的に考えてしまいました。その不信仰から家庭に問題が生じました。夫婦が信仰の中心を守り続けたなら、家庭問題も生じなかったはずです。新約時代のバプテスマのヨハネ「あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」と言っています。もし、アブラムとサライがこういう信仰を持っていたなら家庭の危機が来なかったでしょう。ところが、彼らは理性的に考えてあれこれをもって実現しようとした結果、問題が大きくなってしまったのです。ただ、あわれみ深い神様はサライとアブラムの失敗にもかかわらず、その家庭を見捨てませんでした。神様はハガルに現われて家に戻って女主人に仕えること、お腹の子をイシュマエル(「神は聞かれる」の意)と名付けることを告げてくださいました。このような神様の助けによってハガルは勇気を得ました。顔も見たくないと思っていたサライのもとに帰ることができました。それは、奴隷の自分さえも、主はご覧になっているのだと知ったからです。それまでのハガルにとって、神様は、アブラムにしか現れてくださらない遠い存在でした。しかし神様は自分もご覧になっておられました。神様は卑しい女奴隷の自分にさえ語ってくださいました。そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼びました。エル・ロイ」とは「神は私をご覧になっている」という意味です。ハガルはこの事件を通して、霊的な視点が開かれるようになりました。それが「エル・ロイ」です。神様が私をご覧になっているという視点です。私たちには誰も分かってくれるはずがないと思われる悲しみや苦しみに悩む時があります。自分の苦労を誰も認めてくれない時もあります。しかし、神様は私をご覧になっておられます。この時間、一緒に神様に告白してみましょう。「あなたはエル・ロイ」そうです。主は私をご覧になっているのです。私の主はエル・ロイです。 どうか、私たちひとりひとりが天を見上げて神様の世界を見ましょう。そしてこの世界を造られた神様を信じ、神様から与えられた御言葉を信じて生きるように祈ります。

14Genesis23M 夢見るヨセフ

14genesis23m, 夢見るヨセフ, 2014年創世記第23講                               , 夢見るヨセフ御言葉:創世記37−38章要, 節:創世記37, ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。 皆さんは、何か夢をもっていますか。それともただなんとなく生きていますか。あるいは、考え中ですか。私が職場で生徒たちに聞いてみると「考え中です。」と答えるが人が意外に多くいますね。今日から学ぶヨセフは夢見る人でした。彼はどんな夢を持っていたでしょうか。その夢はどのようにして実現されて行ったでしょうか。聖書に「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言16, 9、新共同訳)」とあります。計画するということは夢見ることでもあります。私たちが夢を持っているだけでも、主は私たちの一歩一歩を備えてくださるのです。私たちはヨセフの生涯を通してそのことを学ぶことができます。この時間はヨセフ生涯の初期段階で彼が夢を見たこと、それによって試練の場に追い出されるようになったことを学びました。またそのころのこととしてイエス・キリストの先祖となるユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを学びます。ここで、私たちはヨセフの生き方、救いの計画を進められる神様の働きを学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して夢見るヨセフを学び、哀れみ深い神様の救いのご計画を学ぶことができるように祈ります。37章1, 2節をご覧下さい。「ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。」とあります。先週まで私たちはアブラハム、イサク、ヤコブの神様を学びました。ついに創世記の中心人物の最後の人であるヨセフを学びます。ところが、創世記の著者は「これはヤコブの歴史である。」と書いてあります。なぜでしょうか。それはヤコブの後半部の生涯がヨセフの生涯と不可欠な関係があるからだと思います。つまり、ヨセフはアブラハム、イサク、ヤコブのように神様に選ばれた族長ではありません。族長時代の最後の人物であるヤコブの子どもです。そこでヤコブの歴史の中に中心人物であるヨセフの生涯が紹介されているのです。 そしてヨセフの生涯も十七歳のときから紹介されています。彼は兄たちとともに羊の群れを飼っていました。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいました。ビルハとジルパは父の妻であっても奴隷だった人たちです。その奴隷から生まれた兄たちの悪いうわさを父に告げました。どんな内容を告げたのかは分かりません。確かなことは良い話ではなく兄弟たちの悪いうわさを告げたことです。それが兄たちに知らされると兄たちの気持ちを良くありませんでした。ヨセフが嫌になったでしょう。結局、ヨセフは兄達から憎まれるようになりました。その上にヨセフはヤコブの年寄り子です。父から最も愛されました。それは父の偏愛でした。ただ父親からヨセフのことを考えてみると彼にはこのような愛が必要でした。ヨセフの母親ラケルは早く死んだからです。でも父の偏愛は子どもたちの不和の火種になりました。腹違いの兄たちには理解できません。兄たちはヨセフを憎み、彼と穏やかに話すことができませんでした。さらに、兄達がますますヨセフを憎むようになったことが起こりました。あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げました。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」この夢はヨセフが兄弟たちを支配するようになることを意味します。ヨセフにとっては嬉しい夢です。しかし、兄達にとっては嫌な夢です。腹が立つ夢でした。ところが、ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話しました。「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」。今度の夢は兄達だけではなく父と母も彼を拝む内容でした。ヨセフがイスラエルのすべてを支配することを意味します。父ヤコブにとってもあまり好ましい夢ではありません。父は彼をしかって「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と言いました。でも、父は兄たちとは違いました。兄弟たちはヨセフをねたみましたが、父はこのことを心に留めていました。自分も石を枕にして横になった時に見た夢を通して神様に出会い、ベテルまで守まれ、導かれ、祝福されことを経験したからでしょう。以上で私たちは兄たちとヨセフの考え方の違いを発見することができます。兄たちは父の偏愛ぶりを見てヨセフを憎みました。ヨセフの告げ口、ヨセフの高慢な態度を見たので、彼らはますますヨセフを憎みました。しかし、ヨセフは兄たちの心を見ないで夢を見ました。それはある意味では空気を読めない人の態度です。でも青年の時に夢を見ることはとても大切です。特に、自分が心に抱く野望としての夢ではなく、神様が心に示しておられるご計画としての夢を見るのことです。特に若い時に夢を見る、夢を持つということはとても大切です。これまで、この世界は夢を見た青年によって支配されて来ました。1800年代後半、ライト兄弟は人類が金属の翼で空を飛ぶ姿を夢見ました。十年後の1903年12月17日、ライト兄弟の飛行機がノースキャロライナの砂浜で初飛行しました。1940年、ビリー・グラハムと仲間の数人の大学生が集まって、神様から遠く離れた人々に福音を伝えるために、世界中のスタジアムをいっぱいにすることを夢見ました。資料によると、彼らは2億1千5百万人の人々に福音を直接伝えました。そして十億以上の人々に、テレビやラジオを通して福音を語ったのです。1960年代、私たちubf先輩たちは使徒の働き1章8節を通して地の果てにまで行って世界のキャンパスに福音を伝える世界宣教を夢見ました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」その頃、韓国は朝鮮戦争が終わったばかりでとても荒廃していました。一人当たり国民所得, は80$にすぎませんでした。先進国の援助を受けなければ国の維持ができないほどでした。若者たちはなかなか夢を見ることができずさまよっていました。しかし、故李サムエル宣教師を始め、ubf先輩たちは夢見ていました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、韓国のキャンパスに福音を伝えることは軽いことであって全世界の大学生たちに福音を伝え、救うことができる」という夢を見ていたのです。その夢のためにある先輩は看護師、ある先輩は新聞配達員、ある先輩は留学生、大使館の運転手になって宣教師として世界に出て行きました。事実、まだ後進国であった韓国の青年が、労働のアルバイトをし、勉強しながら宣教をすることは至難のわざでした。でも先輩たちは夢を持っていたから世界の国々に遣わされて福音を宣べ伝えました。今は98か国に宣教師たちが遣わされています。その国々で数多くの大学生たち福音を伝え、救うみわざのために用いられています。ヨセフはエジプトで総理大臣になりますが、世界中の大学で教授として働く宣教師や牧者も多くなって来ました。多くの方が宣教地で弁護士、医者、外交官、事業家としてリーダー的な役割を果たしています。神様を信じている人が夢を持ち続ける時、神様はその夢が実現するように助けてくださいます。ヨセフは少年の時から夢を持っていたゆえにその後の人生は主が一歩一歩を備えてくださいました。私たちも目先のことだけを見ないで10年、20年後のことを考えながら夢を持つことができるように祈ります。2041年までにこの国の47都道府県のキャンパスに聖書先生、牧者たちが立てられること、アジア47か国に宣教師を派遣する夢を持ち続けて祈りましょう。ヨセフは夢を持っていましたが、この夢が実現するためには神様の訓練も必要でした。そこで神様はヨセフが試練の場に追い出されて行くことを赦されます。 37章12節〜28節までの御言葉はヨセフが訓練の場、試練の場に追い出される場面です。ヨセフは父から兄さんたちが羊の群れを飼っているシェケムに行って来ることを頼まれました。ヘブロンからシェケムまでは70キロも離れています。歩いて行くと二日間もかかる距離です。私は子どもの頃、父親から「タバコを買って来なさい」と言われた時、ただ700m位離れた所でも嫌がっていた記憶があります。ヨセフは70キロも離れている所であっても「はい。まいります。」と答えていました。答えただけではありません。ヨセフはヘブロンからシェケムまで行きました。ところがシェケムまで行ってみると、兄達はいませんでした。そこにいる人の聞いてみるとそこからドタンのほうへ行ったことがわかりました。兄たちは良い牧草地を求めながらドタンまで行ってしまったのです。ドタンはそこから24キロも離れた所です。一日も歩いて行かなければならない距離です。こうなると諦めたくなるでしょう。特に穏やかな話もできない兄たちのためにもう一日も歩いて行くことは嫌でしょう。そのまま家に帰ることもできました。しかし、ヨセフはドタンまで行きました。ここでヨセフの生き方も学ぶことができます。彼には父への従順と尊敬がありました。任されたことに対する責任感と忠実さがありました。ヨセフは父かたら頼まれたことに対して素直に答え、その目的を達成するまで忠実に行ないました。仕事も勉強も焦らずコツコツが大切であると言われます。彼は適当にやってしまうのではなく、小さいことにも忠実な人だったのです。こういう生き方で生活して行ったので彼は後に異国の地エジプトでも総理大臣になって行きます。小さな事に忠実であった時、大きなことにも忠実な人になり、大きなみわざにも用いられるようになったのです。ではドタンまで行ったヨセフを迎える兄たちの態度はどうでしたか。18節をご覧ください。「彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうと企んだ。」とあります。普通の兄だったら、はるかかなたに弟が見えると走って行って迎えることでしょう。そんなに遠くまで探しに来た弟を喜んで迎えてくれたはずです。ところが兄たちは弟を殺そうと企みました。憎しみはついに殺人に発展しました。ただ、長兄のルベンはこれを聞き、彼らの手からヨセフを救い出そうとしました。それでルベンは兄弟たちにヨセフを荒野のこの穴に投げ込みなさいと言いました。結局、ヨセフが兄たちの所に来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込みました。不幸中の幸いに、穴の中に水がなかったのですが、兄たちが食事をイシュマエル人の商人が来ました。そこでユダの提案があってヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚で売りました。結局、ヨセフは兄さんたちに踏みつけられて、エジプトに奴隷に売られました。来週学びますが、エジプトではヨセフが大変な試練に遭い、過酷な訓練を受けるようになります。でも、ヤコブはそれらのことを知らずにヨセフの兄たちから騙されます。兄たちはヨセフが悪い獣にやられたかのように父を騙したからです。愛する息子を失ったヤコブは幾日もの間、その子のために泣き悲しみました。ヤコブのヨセフへの偏愛は他の子どもたちに憎しみを呼び起こし、自分にも悲しみをもたらしました。ヨセフの兄たちも一生罪悪感にさいなまれるようになります。ところがここにも見えない神様の摂理がありました。もしヨセフが父の家でいたなら彼の夢は果たされなかったでしょう。神様は彼に指導者となる夢を与え、それを実現させるために温室のような家から荒野に連れ出して訓練されました。この訓練はわしの訓練でした。鷲は自分子を翼に乗せて高いところから落とすそうです。するとわしの子は必死に翼をばたばたします。そうして地面に落ちて死ぬ直前に親のわしは翼で受け取ってくれるそうです。このような訓練を繰り返すと後には翼が強くなり力強く空を飛ぶ鳥の王子になります。霊的な指導者になるためにも多くの訓練が必要です。以上で私たちはヨセフから二つのことを学ぶことができると思います。一つ目は人の憎しみを見ないで夢を見て生きていたことです。ヨセフの兄たちは父ヤコブの偏愛を見ました。ヨセフが母親を早く亡くしていたことは考えず、父親から愛されていること、長服を買ってもらっていることを見て彼を憎みました。弟が夢を話しますとそれを可愛がってあげるのではなく、それを妬み、殺そうとしました。その結果、弟を穴に投げ込み、そこから出して売ってしまいました。その後、罪悪感、罪意識に苦しみます。しかし、ヨセフは夢を見ていました。だから兄たちから憎まれても彼らを憎まず、親切に仕えました。兄たちの悪に対して悪を持って仕返しするのではなく、父の言葉に忠実に従い、自分がやるべきことを忠実にやって行く生活をしていました。ヨセフが兄たちと同じように考えていたならいろんな場面で兄たちにつぶやき、仕返しを計画して行ったと思いますが一言も文句を言わず、自分に与えられたことを忠実に行なっていたのです。それは夢を見ていたからだともいます。二つ目は夢を見ている人に試練も伴われることです。ヨセフに夢がなかったら兄たちからの虐めもあれほどひどくなかったでしょう。ヨセフに夢が持ち、その夢を兄たちに話したからこそもっとひどく虐められました。ついに、売られて奴隷になって行きました。そこでもさまざまな試練に遭います。このように、私たちが夢を持っていてその夢が実現されるまでは自分の十字架を負い、訓練も受けれらることを覚悟しなければなりません。私たちは夢を持っていてその夢の実現のためにどんな苦難も受ける覚悟をしなければならないのです。そして、私たちが夢を持ち、その夢のために自分の十字架を負うこと、苦難を受けることも覚悟するなら神様がそれに耐える力も、試練に打ち勝つ力も与えてくださいます。私たちの一歩一歩を備えてくださいます。その神様の導きによって私たちの夢は実現され、私たちもヨセフのように神様に用いられるようになります。38章はユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを言っています。38章を読んでみると、ユダは嫁であるタマルと寝て子供を産んだことが書いてあります。何でこんな汚い話がヤコブの歴史、美しいヨセフの話の中に出て来たでしょうか。それを理解するのは難しいです。ただ、マタイ1, 3に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と記されてあります。ユダはイエス様の系図に出るほど大切な人物であることが分かります。そして、彼も生まれ変わる前には淫らな人であり、約束を守らない不真実な人であったことも分かります。遊女の格好していた嫁と寝て二人の子どもを産んだのです。そんな彼が悔い改めた時にイエス様の系図に出るようになったのです。それは一方的な神様の恵みです。私たちもユダのように生まれながらにしてのろいの子でした。しかし、今や、私達は怒りの子でもなければ、滅びの子でもありません。主イエス・キリストによっていっさいの古きものは葬られ、彼とともによみがえされたのです(コロサイ3:1)。これが恵みの世界です。これが福音の世界です。そういうわけで、私たちも恵みの世界に生きています。自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストの十字架による赦しと救いを信じることによって救われています。イエス・キリストの系図に載せられる人になっています。「いのちの書」に名前が記されている人間なのです。だから、イエス・キリストは世の終わりまでいつも私たちのともにいてくださいます。どうか、今週も主の一方的な恵みに感謝し、主とともに歩んで行きますように祈ります。

14Genesis6M 主の心にかなっていたノア

14genesis6m, 主の心にかなっていたノア, 2014年創世記第6講 主の心にかなっていたノア御言葉:創世記6:1−22要 節:創世記6:8「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」 今日は東京UBF教会開拓26周年記念礼拝をささげています。ここまで私たちを助け、導いてくださった神様の恵みを心から感謝します。今日まで来たのは主の恵みです。新聖歌331番をご一緒に歌ってみましょう。, これからも、神様は私たちのうちに力あるわざ、しるしと不思議を行なわれ、私たちひとりひとりを助け、導いてくださることを信じて感謝します。振り替えてみると神様は私たちが足りなくても小さなノアとして生きるように守り、導いくださいました。日本はクリスチャン人口が1%にも至らないと言われています。自分のクラスでたった一人きりのクリスチャン、職場でただひとりのクリスチャンである場合が多いということでしょう。こんな時代にあってもノアのように生きようとする方たちがいますし、この教会にもいるということは大きな感謝です。, 私は海外に行くと、「日本宣教は難しいでしょう」と言われる場合が多くあります。すると、私は「人数は少ないけれども、敬虔なクリスチャンがいますよ。」と答えます。事実、私は26年間宣教師として働きながら日本のクリスチャン、UBFの牧者、兄妹姉妹たちから多くのことを学び、感動する時も多くありました。そういう意味で26周年の礼拝にノアを深く学べることは神様の導きではないかと思われます。どうか、本文の御言葉を通して主の心にかなっていたノアを深く学び、私たち自身も主の心にかなっている者として成長して行きますように祈ります。 ノア時代はイエス様が最も堕落した時代として取り上げられた時代です。イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」と言われました。では、ノア時代は具体的にどうでしたか。, 2節をご覧ください。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。ここで、「神の子ら」とは神様を信じたセツの子孫であると思われます。, 先週、学んだように、人類は二つの流れに分かれました。カインの家系とセツの家系の二つに分かれていたのです。カインの子孫は自分の力で町を作り、人間中心の文化を発展させていきました。一方、セツの子孫は礼拝と祈りを重んじて行きました。素朴ながら、神様を信じる信仰と祈りを受け継いで行きました。彼らは神様と共に歩む生活の中で驚くべき長寿を恵まれました。メトシェラは969年も長生きしました。自然で、素朴な生き方をしているセツの子孫は美しく魅力もありました。ところが、神の子らが人の娘たちを自分たちの妻としました。そこで不敬虔で不道徳な人々が敬虔な人々の娘たちを交わるようになっていたのです。すると、セツの子孫はカインの子孫に影響されました。彼らも不信仰、不道徳な人になって行きました。ついに、世界は神様なしに、十分に楽しくやって行けると考える人々の勢いに圧倒されてしまいました。祈ることを始め、敬虔に生きていた人々でさえ、その人格によってではなく、肉体的、性的な美しさを重んじる世界になってしまいました。人々は生きれば生きるほどに、人として本来あるべき姿を失い、腐敗して行きました。そこで、神様はどう思われましたか。, 3節をご覧ください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。」とあります。神様が創造された人間は神様とともに永遠に生きることができました。しかし、人間が罪を犯した罪のために死ぬべき者となりました。それでも神様は人間に900歳代という長生きを許しておられました。ところが、神様は人間の寿命を120年に引き下げられると宣言なさいました。それは人が肉にすぎないからです。本来、人間は神様との交わることができる霊的な存在として造られました。神様は人のうちにとどまられ、人と交わることを喜んでおられたのです。しかし、肉にすぎない人のうちに神様が永久にとどまることはできなくなってしまいました。長く生きれば生きるほどに、罪をたくさん犯していく人間の現実を見ると、長生きも祝福ではなくなりました。むしろ、寿命を短くした方が恵みであると言えるようになっていました。なぜなら、肉にすぎない人間ばかり増えるし、神様より人間の力を誇る者が増え続けて行くからです。, 4節をご覧ください。「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」とあります。人間が腐敗して肉体的な価値観に染まって行くと、その結果としてネフィリムが生まれてしまいました。ネフィリムとは巨大な体の持ち主、巨人族のことです。彼らが昔の勇士であり、名のある者たちでありました。つまり、神様に祈り、神様とともに歩んでいる敬虔な人よりもネフィリムのような人が有力な人になっていたのです。背が高く、体力、財力を持つネフィリム族が勝ち組で、その力が正義となっている時代になっていました。弱き者は見下され、敗者はさげすまれる時代でした。イケメンが好きで神様に祈る人、神様とともに歩む敬虔な人は嫌われるような時代になっていたのです。このように、肉にすぎない悲惨な状態になってしまった人間社会に対する神様の御心はどうでしたか。, 7節をご一緒に読んでみましょう。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」神様は人の悪、いつも悪いことだけに傾く人間、神様から離れて行く人間をご覧になりましたが、あまりにも悲惨な状態でした。11,12節によると、暴虐に満ちていました。すべては神様から離れて行った人間の罪の結果です。だから、私だったら、腹が立って「こんな人間を一気に滅ぼしてしまおう」と思ったでしょう。神様は人に近づき、愛し続けたにもかかわらず、人が神様から離れて行き、堕落してしまったからです。人間は怒られても完全に捨てられても文句を言えない状態になっているのです。だから神様もそのまま置いてしまっても、滅ぼしてしまってもいいのです。しかし、神様はすべてを人間のせいにしませんでした。ご自分が地上に人を造ったことを悔やまれ、心を痛められました。神様は人の罪をご自分のものとして、深く心を痛められたのです。ダメな子、出来の悪い子のために、どこまでも心を痛める父、母のような神様の愛を感じます。, 神様は自分の罪の中にあって、罪の恐ろしさを知らず、かえって罪を誇りとしている人間なのに、その人間に対して寛容だったのです。人間の罪だけを指摘して責めるようなことをなさいませんでした。むしろ、その罪をご自分の問題として悲しみ、心を痛められるのです。ここで、神様の寛容とあわれみを学びます。私たちがどんなに酷い状態に陥っていても、神様は裁判官のように私たちの罪をさらけ出してさばくのではありません。むしろ、私たちの弱さに心を痛められる神様です。しかし、主なる神様は罪や悪と永遠に共存できるお方ではありません。きよく、正しい神様は少しの汚れも共存することはできないのです。きよく正しいお方であるだけに不敬虔や罪に対する怒りも大きいものです。そこで神様の悩み、言葉で言い尽くせない心の痛みがあったことでしょう。この神様の御心を仰ぐとき、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」という言葉が私の心に伝わって来ます。その決心の重さがどれほど重かったでしょうか。私には計り知れません。ご自分が造られたものを、ご自分の手で打ち壊さなければならない神様の御心はどんなに痛かったでしょうか。その御心は、アブラハムが自分の子どもイサクを自分の手で祭壇にささげ、殺そうとした時よりもはるかに深かったでしょう。その心痛は罪深い私たちを救うためにご自分のひとり子を十字架につけて死なせる時に通じていると思われます。では、神様がご自分の創造のやりなおしをされようとしておられた時に誰が主の心にかなっていましたか。, 8節もご一緒に読んでみましょう。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」これは、「しかしノアは主の恵みにかなっていた」と訳することができます。【新共同訳】では「しかし、ノアは主の好意を得た。」と訳しています。ノアは神様の前に恵みを見出していました。つまり、彼は他の人たちと同じく自分の力によって頑張って神様の御心にかなっていたのではなく、主の好意を得ていたのです。その主の恵みによって神様とともに歩む人でした。主の心にかなっていたから恵みを得ていたのか、恵みを得ていたから主の心にかなっていたのか、は卵が先か、鶏が先かと言う問題のようです。ただ、私はノア自身もその時代の人々とは違って神様とともに歩んでいたのですが、神様の好意を得たからこそ主の心にかなっていたと思います。ノアが生きている時代の人々は神様から離れていました。人々は人間の体力、学力、財力、権力などを崇め、愛していました。ほとんどの人が肉欲、物欲の奴隷になり、この世と調子を合わせていました。しかし、ノアはこの世と調子を合わせませんでした。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神様に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える生活をしていました。それで、彼は神様の御前に好意、恵みを得ていました。神様は彼に御目を留められました。ノアはイケメンではなくても、神様の目には信仰の巨人でした。神様はこのノアに手を伸ばされ、人類の救いのために用いようとされました。人々はノアとその家族に目を留めなかったのですが、神様は彼とその家族に目を留められ、肉にすぎない人々、どうしようもない、救いがたい人類を救うために用いられるのです。このように、神様は今も小さなノアたちを用いてこの日本と世界に救いの手を伸ばされます。ノアのように神様から恵みを見いだして生きようとしている人々を通して救いのみわざを成し遂げて行かれるのです。 私たちが住んでいる日本におけるクリスチャン人口は本当に少ないものです。私たちUBF教会を開拓してから26周年になりました。その間、私たちの教会は成長して来ました。でも、今なお日本のクリスチャン1%の壁を壊すことができませんでした。去年の調査によると、主日礼拝に参加しているクリスチャンは人口の0, 4%であるそうです。だから、私たちクリスチャンは自分の家族の中で自分だけがクリスチャン、学校に行けば、クラスの中でただ一人、学校でもたった一人きりのクリスチャンだという方が多いでしょう。それで、去る26年間、私たちの教会に来られた方たちの中では数多くの方たちがノアのように生きることをあきらめました。100人の中で自分だけがクリスチャンとしてアイデンティティを持って主の心にかなっている生活をすることはやさしくなかったでしょう。 しかし、考えてみればそのような現実があるからこそ、この日本でノアのように生きようとしている人々は神様にもっと喜ばれることでしょう。今はノアの時代のようにイケメンが好きで、美しさばかり求める人々が多いからこそ、神様はノアのように敬虔に生きようとしている人々に目を留めてくださるのです。皆さんには神様の目を留められているのです。これは大きな恵みであり、特権です。そして、神様はノアのような人々を通してこの日本と世界に救いの御手を伸ばそうとされます。それで、今日も、私たちが自分の家族の中で、クラスの中で、学校で、職場で、ノアのように主の前で恵みを得る者として生きることを願っておられます。主なる神様の心にかなっていたノアのように生きることです。では、ノアは具体的にどのような生活をしていましたか。9節をご覧ください。「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。正しい人であったというのは神様と正しい関係を持っていたことを意味します。彼はネフィリムのように自分の力を誇るのではなく、神様に頼り、神様に祈りながら神様と交わる生活をしていました。全く神様を信頼して生きていたという点において全き人でした。人々が肉にすぎないほどに堕落した時代にあっても全く神様に頼り、神様とともに歩んでいました。そのように生きることはなかなか難しかったでしょう。この世と調子を合わせず、職場の雰囲気に調子を合わせないと、空気を読めない人間だと言われるでしょう。回りの人々から非難されたり、疎外されたりします。はなはだしくは虐められる時もあるでしょう。ところが、ノアはそのような状況の中でも、罪の文化、世と調子を合わせませんでした。神様の御前で確かな価値観を持って神様の御言葉に従って生きる生活に励みました。99%の人々が飲んだり、食べたりすることを大切にしていても自分は敬虔に生きようとしていたのです。11節を見ると「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」ことが分かります。それほど堕落し、暴虐で満ちていてもノアは神様とともに歩んでいたのです。それで、神様はノアにどんな恵みを施されましたか。13, 14節をご覧ください。「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」とあります。神様はノアに裁きの計画を言われてから箱舟を造るように言われました。そして箱舟の大きさや形やどんな材料を使うかについて詳しく言われました。ゴフェルの木は舟の材料としては最高のものでした。木のやには防水の役割をします。箱舟の長さは約140メートル、その幅は約23メートル、その高さは約14メートルです。総容積は、40, 立方メートル近くにも達し、そこから導き出される排水量は、ほぼタイタニック号にも匹敵するものです。ノアの神様の御言葉に対する畏敬心はどうでしたか。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」120年後に洪水が起こるから箱舟を準備するように言われた時、それを信じて準備することはやさしくなかったでしょう。また、それを作り上げる作業は大変なものです。ノアはそういう内的外的障害を越えて神様から言われた通りに箱舟を用意する生活をしました。彼は適当に自分の都合に合わせたのはありません。神様が命じられた通りにしたのです。そしてこの箱舟を教会のひな型として見ることもできます。教会は罪に満ちたこの世の海の中に浮かぶ箱舟であるということです。そしてこの箱舟は、神様の御心に従うクリスチャンが作り上げなければなりません。イエス・キリストが来られるその日までは箱舟を作る期間であるでしょう。そして、イエス・キリストを信じる者はだれでもこの箱舟の中に入ることができます。この箱舟に入っていれば、安全です。やがてキリストの再臨の時がやって来ます。その時、この世は、終末のときさばきによって滅ぼされます。しかし、その時、ノアのように生きていた人、神様とともに歩んでいた人は救われます。つまり滅ばないで永遠の命を持つことができるのです。どうか、私たちが忠実に現代の箱舟である教会を作り上げて行きますように祈ります。ノアのように主の御名によって祈り、御言葉に忠実に従いますように祈ります。特に、東京UBF26周年を迎えたこの日、救いの箱舟であるこの教会を作り上げてゆく心を新たにして行きたいと思います。私たちひとりひとりがノアのように生きようと信仰の決断をして神様とともに歩んで行きましょう。主の心にかなっていたノアのように生きることを決断して行きましょう。どうか、全く神様に信頼する全き人として御言葉に忠実に従いますように祈ります。

14Genesis8M 人類の歴史とバベルの塔

14genesis8m, 人類の歴史とバベルの塔, 2014年創世記第8講人類の歴史とバベルの塔御言葉:創世記9, 18−11, 26要, 節:創世記11, 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」先週、私たちは大洪水の後に箱舟から出たノア、ノアに与えられた契約のしるしについて学びました。神様はご自分が創造した世界ですが、人が肉に過ぎないほどに堕落した時、大洪水によってさばかれました。でも愛と希望の神様は地球を完全に捨ててしまうことはなさいませんでした。地球という本体を壊さなかったのです。大洪水の後、かわききった地をリカバリします。箱舟から出て来たノアの家族を通して新しい人類の歴史を始められるのです。ではどのようにして人類の新しい歴史が始まったでしょうか。また、どのようにして人類に異なる言語が存在するようになったでしょうか。ここで、私たちはなかなかなくならない人間の罪、人間の高慢をさばかれる神様について学ぶことができます。?.新しい人類歴史(9:18−10:32) 9章18、19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」とあります。ここで、私たちはノアの3人の息子たちから全世界の民は別れ出たことが分かります。この3人はどのような人格を持っていましたか。 20、21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」 ここにはノアの失敗が記されてあります。酔っぱらって裸になっていることは醜態です。ぶどう畑で働く農夫だったノアがぶどう酒を飲むことは自然なことでしょう。ぶどう酒を飲んだことには問題がなかったと思います。ところが酒を一杯、二杯と飲んでいくうちに酔ってしまいました。判断力を失い、裸になっていました。これは本当に恥ずかしいことでした。だれにも見られてはいけないような姿です。ではこのノアの醜態に対する息子たちの反応はどうでしたか。 22節をご覧ください。「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。ここで「告げた」ということは嘲笑したことです。ハムは裸になっている父の醜態を見て嘲笑ったのです。「あれが信仰人の姿なのか。」と軽蔑しました。それに対し、セムとヤペテはどうしましたか。23節をご覧ください。「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」とあります。彼らはハムを通して父の恥ずかしい行動が分かった時に嘲笑いませんでした。そのままにして置くこともしませんでした。彼らは父の醜態に後ろ向きとなって行動しました。しかも、彼らは父の裸をおおいました。彼らは顔をそむけて、父の醜態を見ませんでした。彼らは父の弱さに同情し、父の恥をかばってあげたのです。これは息子として当然なことです。子どもは父を尊敬し、父の弱さをかばわなければならないでしょう。父親だけではなく、人の弱さに付けこむことはよくありません。私たちクリスチャンは神様の愛によって弱い人の手助け、フォローし、味方をするように気をつけていなければなりません。吉野弘さんの祝婚歌の中に「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい。」とあります。ほんとうにそうだと思います。ハムが「ノアが裸になっている」と告げるのはウソを言ったのではありません。正しいことです。でもそれが見られたことで恥かしく思う人を傷つけやすいものだと気付いていなければならないのです。ところが、そういう人より人の弱さに付けこむ人が多いです。人間は自分が完璧でもないくせに、他人には完璧な行動を要求します。他人の欠点、弱点をすぐに暴き立てようとします。 時々私は本屋で立ち読みをしていますが、週刊誌の記事はほとんどが告げ口です。人の失敗や弱さに同情し、かばってあげるような記事はほとんどありません。人の罪と失敗さらけ出して辱めようとしているような感じです。それはほとんどの人々が人のうわさや告げ口に興味を示すからでしょう。このような世の中で自分だけが人の弱さをかばい助けることはやさしくありません。人々の多くは強いものには良くあわせ、弱い者には厳しくなる傾向があるからです。しかし、私たちクリスチャンだけでも、人の弱点や欠点をすぐに暴き立てるようなことをしないように気をつけているべきだと思います。なぜなら私たちを愛しておられる神様の愛は多くの罪をおおうからです。ハムのように、人の罪と咎をあざ笑うものではありません。神様の愛は、セムとヤペテのように人の弱さをかばい助けることです。聖書に「愛は多くの罪をおおうからです(?ペテロ4:8)。」とあります。また、聖書に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストのうち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(?ペテロ2:24)」とあります。神様は私たちの罪と咎をさらけ出すようなことをなさいませんです。罪に定めない愛によって私たちの罪と咎をおおってくださいました。イエス・キリストはご自分の十字架の死によって私たちのすべての罪と咎を担ってくださったのです。私たちがセムとヤペテのように神様の愛を実践して行きますように祈ります。人の弱さを咎め立てるのではなく、人のために祈り、その弱さをかばい助ける愛の人に変えられて行きますように祈ります。10章はノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史です。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれました。最初にヤペテの子孫が書かれています。彼らは主にヨーロッパに住んでいる民族になりました。特に5節をご覧ください。「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」とあります。この表現が10章に何度も記されてあります。当然なことですが、ノアの3人の息子は同じ言語を話していました。ですから、その子孫も一つの民であり、一つのことばを話していたのです。そのまま、続いてきたらどんなに良かったでしょうか。ところが、残念なことに、11章を見ると分かるようにそのまま、続くことができませんでした。6節から20節まではハムの子孫が書かれています。ノアはハムを呪われましたが、彼の子孫の中から神様に反抗する動きが出ます。ハムの子孫の中ではニムロデに焦点が当てられています。10章8、9節をご一緒に読んでみましょう。「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。」「ニムロデ」とは、「反抗者、敵対者」という意味です。彼は地上で最小の権力者、力ある猟師ですが、学者たちはこのニムロデが中心になってバベル等を建てたと言っています。10節に「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった」とありますし、12節に大きな町を建てたことが記されてあるからです。ハムは父ノアに反抗的になっていましたが彼の子孫の中に反抗的であり、高慢なニムロデが生まれていることが分かります。私たちの人格が私たちの子孫に影響を及ぼすことが分かります。実際にセムの子孫からは信仰の先祖アブラハムが生まれます。そしてアブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれます。今の私の信仰と人格が私の子孫にも影響を及ぼすのです。私たちが自分からでも人の弱さに付けこむのではなく、すべての罪と咎をおおい助けることができるように祈ります。そうすると私たちの子孫にも良い影響を及ぼすことができるようになります。最後に、21節から30節までにセムの子孫が列挙されています。神様は、この子孫から救いのみわざを行われます。21節に「セムはエベルのすべての子孫の先祖であって」と記されてありますが、ここの「エベル」から「へブル」という言葉が出てきています。ここからイスラエル人はよく、「へブル人」と呼ばれているのです。以上が、その国々にいるノアの子孫たちの歴史です。大洪水の後にこれから、諸国の民が地上に別れ出たのです。これが10章の要約です。そして、どのようにして諸国の民が地上に別れ出るようになったのかについて記されているのが11章です。?.バベル塔(11:1−26)11章1、2節をご覧ください。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ニムロデが王国を立てたシヌアルの地に、人々は定住しました。そこで、彼らは互いに言いました。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは建築に石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いました。瀝青とはアスファルトのことです。レンガとアスファルトの開発は、当時として革命的な技術でした。レンガとアスファルトを用いると天の頂までの高層ビルを建てられるという確信を持つようになりました。そこで、彼らは一階、二階、レンガを積み上げて行こうとしました。では、なぜ人々はそれほど高い塔を立てようとしたでしょうか。それは人々の心にノア時代の大洪水に対する不安があったからだと思います。2011年3月11日に想定外の津波を経験した日本が不安になって想定外も想定していることと同じです。彼らは洪水が起こっても自分たちの町を守る方法を考えました。そこで彼らは天まで届く塔を立てようとしたのです。また、シヌアルの地に快適な街を作ったので、今までの生活が変わることを恐れました。バラバラに散らされてしまうと、新しい土地を開拓して生きて行かなければなりません。来週、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に派遣する礼拝をささげますが、新しい土地を開拓して行くことは決してやさしくありません。だから、人々は散らされてひとりぼっちになることを恐れ、みんなが塔の周りに集まって住もうとしたのです。特に、彼らはレンガとアスファルトという革命的な技術によって高ぶっていました。自分たちの力でユートピアが現実になると思ったようです。そうして彼らは神様の命令に背きました。神様はノアとその家族に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と命じられました。ところが、その子孫は、この祝福の命令を「散らされる」と否定的にとって、故意に神様の命令に背いてしまったのです。そこで、主は、彼らをさばかれます。5, 8節をご覧ください。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられる事はない。さあ、降りていって、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」とあります。先ほど話しましたが、今もなお全世界が一つの民として一つのことばで話すならどんなに良かったでしょうか。私たちは外国語を学ぶ必要がなかったのです。すべての人が日本語、あるいは韓国語だけを使うならどんなにいいでしょうか。英語勉強をしなくてもいいし、英語のためにストレスを受けるようなこともありません。ところが、バベルと言う町において、人間が高ぶって神様に反抗したので、神様は彼らの言葉を混乱させました。そのため、ノアの3人の息子から出て来た子孫は、違う言葉を話すようになりました。異なる民族を形成するようになりました。9節をご一緒に読んでみましょう。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」 この混乱は、ヘブル語で、「バラル」と発音するそうです。すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたのでばらばらに散らされて行きました。結局、シヌアルで人間が自分の力で自分を守り、自分の名を有名にしようと建て始めたバベルの塔は失敗しました。ここで、私たちは大切な教訓を得ることができます。私たちのうちにもバベル塔を建てようとする野望があるからです。ノンクリスチャンと比べれば素朴に謙遜に生きていると思われるかも知れません。でも、私たちのうちにもシヌアルの人々のような心の持ち主がいあるでしょう。ような東京の平地で安定的な生活をしながら地位も名誉もある生活をしたがる要素があるのではないでしょうか。年の初めには「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えよう」と決心しましたが、いつの間にか、霊的な望みよりも現実的な生活に縛られている時はないでしょうか。自分のためにいろいろ計画を立てて自分の力で一階、二階…とバベル塔を建てあげて行くのです。神様に頼って祈り求めるのではなく、自分の知恵を尽くして自分の計画、自分の目標に向かって行くのです。私たちは日々謙遜に神様に頼って祈り、洪水以前のノアのように神様とともに歩んでいるでしょうか。シヌアルの人々のように自分の力でバベル塔を建てているでしょう。神様がご覧になっておられます。そして、決定的なときに神様は降りて来られます。ノアのように救われるか、シヌアルの人々のようにバベル塔が倒れ、混乱してしまうかは私たちが神様の御前でどのような態度で生きているかにかかっています。、先週、日ごとの糧を通してアサ王を通して謙遜と傲慢の結果をはっきりと見ることができました。アサ王の人生の朝は非常に良かったんです。彼は人生の朝にその神、主に叫び求めていました。心を尽くして主を求めました。すると神様は彼に平安をくださいました。彼に勝利をくださいました。預言者を通して彼が信仰によって生きるように激励してくださいました。彼に会ってくださいました。彼だけではなく、彼の回りにも平安をくださいました。しかし、彼が祝福されて安定した時、祈る代わりに、主の祝福によって与えられた主の宮と王宮の宝物倉から銀と金を取り出してアラム王に送り届けて人の助けを求めると彼の国に悲劇が始まりました。神様は予見者ハナニを通してアラムを鳴らし、悔い改める機会を与えましたが、その時も悔い改めませんでした。結局、彼は両足とも重い病気にかかって死にました。傲慢は滅びに行ったのです。結局、私たちが神様に祝福されてどこに行っても勝利することは常に謙遜になっていることです。ハムのように人の失敗を指摘し、正しさを主張する前に謙遜になって人の弱さも失敗もかばい助けるのです。神様の祝福によって安定的な生活ができる時に気をつけるべきは傲慢になってバベル塔を建てることです。もちろん、自分の力でもいろんなことができるでしょう。スカイツリーよりも高いビルを建てることもできるでしょう。私たち人間にはそういう力があります。でも、私たちが傲慢になっていると、神様はどう思われます。神様はこの地に下りて来られ、混乱させます。すると、傲慢は滅びに至ります。神様がバベル塔を建てようとして人々を混乱させましたが、それでも人間に対する希望は捨てませんでした。神様は決して人間にあきらめたりされませんでした。神様は、民族として互いに分れてしまった人間を、どのように祝福されるか考えられました。そこで、神様は、まったく新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられたのです。神様により頼み、神様に仕える民族を生み出し、世界に散らされた民族を、その新しい民族によって祝福する計画を立てられました。それが、イスラエルであり、そのイスラエルの先祖がアブラハムです。26節をご覧ください。神様は、セムに与えられた祝福のことばを、このアブラハムによって実現されます。このことは来週から学びます。どうか、今日の御言葉を通して神様の愛を実践する者、謙遜に神様に頼って生きる者として変えられて行きますように祈ります。私の子孫に良い影響を及ぼすことができる人格を形成して行きますように祈ります。

14Genesis20M ヤコブを大いに祝福された神様

14genesis20m, ヤコブを大いに祝福された神様, 2014年創世記第20講ヤコブを大いに祝福された神様御言葉:創世記29, 30章要, 節:創世記30:43「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」 先週、私たちはヤコブがベテルでいつもともにおられる神様に出会ったことを学びました。私たちはヤコブが神様に出会ったような経験をすることはできないかも知れません。でも心から神様と出会いたいという願いを持って生きましょう。日々神様と出会って神様の愛と力を感じ、神様と交わることを心から願うのです。すると、神様の力を見、神様がおられることを悟るようになります。そこから神様と交わり、神様とともに歩む生活が始まります。 今日はヤコブが長い旅を続けて目的地に辿り着いた時のことを学びます。ここで私たちは愛の力、ヤコブを訓練し、大いに祝福される神様を学ぶことができます。?.愛に力があります。, 1〜20,  29章1節をご覧ください。「ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。」とあります。ベテルの野で一夜を過ごしたヤコブは、旅を続けてようやく目的地である東の人々の国へやって来ました。つまりベエル・シェバからハランまで旅を続けて母リベカの親戚が住んでいる国にたどり着いたのです。ふと彼が見ると、野に一つの井戸がありました。井戸は人と人との自然の出会いの場であり、交わりの場です。私は子どもの時に田舎では村の中にある井戸が情報交換の場所でした。特におばさんたちが水を汲み、洗濯をしながら交わる所でした。だから、小学生の時に隣の村に行って友だちに会うためにまず井戸の所に行って尋ねました。だからヤコブも井戸が見えると、その地域の情報を得ることができると思ったことでしょう。やはり行ってみると、その井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していました。それでヤコブはそこにいる羊飼いたちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか」と尋ねました。すると、彼らはハランの者であることと、ラバンの娘ラケルが羊を連れて来ていることを教えてくれました。そこでヤコブはその娘と二人きりで会いたいと思ったでしょうか。ヤコブは羊飼いたちに「羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」と言いました。しかし、彼らは「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」と言いました。結局、ヤコブがまだ彼らと話しているとき、父の羊の群れを連れてやって来たラケルと出会いました。ヤコブは、その羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませました。それからヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣きました。ヤコブが行き成りに人の娘に口づけしているようですが、先ほど羊飼いたちからラバンの娘であることを聞いていたからでしょう。ほんとうの自己紹介をしてから口づけするものですが、ヤコブはラケルに口づけしてから自己紹介をしました。すると、ラケルはヤコブのことを父ラバンに告げました。するとラバンはすぐ、走って行って彼を迎え、彼を抱いて、口づけしました。ヤコブは自分がここまで来た事の次第のすべてをラバンに説明しました。ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言いました。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在しました。その間にラバンはヤコブが非常に有益な人であることが分かったようです。ラバンはヤコブに「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」と言いました。これは単なる好意から出た言葉ではありません。後で彼が何度もヤコブを騙していることから考えてみると、彼はヤコブの有能さと誠実さを見込み、彼を手放したくないと思っていたと思われます。でもヤコブは、まだラバンがそういう人間だとは思っていなかったようです。ただ、一目惚れしているラケルに関心がありました。ラバンにはレアとラケルと言う二人の娘がいましたが、ヤコブはラケルを愛していたのです。それは姉のレアの目は弱々しかったのですが、ラケルは姿も顔だちも美しかったからです。ヤコブも美人には弱い男でしたね。結局ヤコブは愛するラケルと自分の妻にするためにラバンと雇用契約を結びました。彼は「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言っています。するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい」と言いました。そこでヤコブはラケルのために七年間仕えました。ヤコブはその七年間をどのような思いで過ごしたでしょうか。20節をご一緒に読んでみましょう。「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。」ヤコブはラケルを愛していたので七年間仕えてもほんの数日のように思われたのです。ヤコブが七年間仕えても楽な仕事ばかりしたのではありません。31章38節によると、ヤコブは「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。」と告白しています。それでもヤコブにはその七年間がほんの数日のように思われたのです。ここで私たちは愛の力を見つけることができます。この間、勉強会の時に、李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師を愛するようになった時、40ページの所感を書いてもほんの一ページしか書かなかったように思われたことを告白してくださいます。ほんとうに愛には不思議な力があります。第一に愛には、人に仕え、人のために働く力があります。愛しているなら、気持ちよく仕えることができます。夫婦が愛して子どもが産まれると、夫婦は子どもに仕える生活が始まります。オムツを替え、風呂に入れ、遊んであげます。掃除や洗濯もしてあげます。ありとあらゆることで子どもに仕えます。それは子どもを愛しているからです。愛から始まっているから嫌々しながらではなく喜んで仕えることができるのです。子どもがそこそこ大きくなったからと言って、仕えることが終わるのではありません。立派に成長し、大人になるまで、子どものために働きます。職場では上司の無理な要求にも耐えながら一生懸命に働きます。それは子どもを愛し、家族を愛するからできることです。もし、何もかも嫌になっているなら愛が冷えているからでしょう。愛が燃えているなら何をしても疲れを感じないでしょう。ヤコブはラケルを愛していたので、その愛のゆえに7年間仕えることが苦にならなかったのです。愛から始まっていたので、仕えることができたのです。イエス様も弟子たちを愛し、私たちを愛しておられるからこそ仕えてくださいました。さまざまな問題を持ってくる人々に仕えることはやさしくありません。でも、イエス様は人々を癒し、慰め、励まし、教える働きを続けられました。弟子たちの足を洗い、十字架の死に至るまで私たちのために仕えてくださいました。ほんとうに何をしても愛から始まるなら、7年間仕えることも数日のように思われるほどになるのです。第二に愛には、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ力があります。子どもを育ててみれば分かりますが子どもの成長は時間がかかるものです。オムツを替え、風呂に入れてお世話さえして置けば、後は放っておいても大丈夫なのではありません。確かに、子どもが2,3歳頃より10歳、20歳になると細かく仕えることは少なくなるでしょう。でもそれぞれの年齢に応じて、仕える形が違うだけです。子どもを愛する親はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。その愛の中で子どもはすくすく成長し、立派な大人になって行きます。しかし、愛がなければ忍耐できなくなる場合もあります。子どもと一緒に家にいることさえ嫌がるようになります。実際に自分の子どもを手放してしまう親もいます。しかし、ヤコブはラケルを愛していたので7年間も仕えたのに、ほんの数日のように思えたのです。イエス様は弟子たちを召してから3年半といわれている期間に忍耐されることもしばしばでした。また、十字架を担っていかれたときも、架かられた時も、途中でやめることをなさらず、最後まで、その死に至るまで忍耐されました。そして、今もまた、人々が罪の中にいますが、一人でも多くの人が救われるために、全ての人が救われてほしいと願い、忍耐しておられるのです。それらは、イエス様の愛のゆえです。愛から始まるとき、愛しているとき、忍耐することができるのです。そしてそのイエス・キリストの愛によって私たちは癒され、生かされています。私たちが何をしても七年間仕えることもほんの数日のように思ったヤコブのような愛を持ってするなら疲れないでしょう。そして、私たちに仕えるために来られ、十字架にかかって死なれるまでに私たちに仕えてくださったイエス・キリストの愛で愛するなら、どんな人でも愛することができるでしょう。すべての問題は愛があれば大丈夫です。愛は痛みも和らげます。カリフォルニア大学の心理学者アイゼンバーガー助教授が、痛みを感じたときの脳の動きと「愛」という抽象的なものとの関係を探るために行った実験で明らかになったものです。長期にわたって特定の相手と交際中である女性たちに、針で刺したかのような衝撃を与え、そのときの脳の反応をmriで観察しました。被験者には交際相手、知らない人物、蛇や蜘蛛などの写真を順番に見せ、それぞれの写真を見ているときに一度ずつ同じ痛みを与えていきました。そして、実際に感じた痛みの強弱を被験者に記録してもらったところ、交際相手の写真を見ているときがいちばん痛みが弱いという結果になりました。ほんとうに、愛には不思議な力あるのです。何をしても愛から始まると長く仕えることができるし、忍耐することもできます。家にいる時間が楽になるし、疲れた体も癒されるのは家族を愛しているからです。教会でも、学校でも、職場でもに隣人を愛するなら彼らに仕え、忍耐することができます。自分の愛では無理かも知れません。でもイエス様から愛をいただき、イエス様の愛で愛しようと思って愛するなら不思議な力が発揮されるのです。どうか、ヤコブがラケルを愛したように、自分の家族を愛し、隣人を愛する生活ができるように祈ります。?.神様の訓練と祝福, 21〜30, 29章21節をご覧ください。「ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻をください。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」とあります。いよいよ雇用期間も満了しましたので、ヤコブはラバンにラケルを妻として与えてくれることを求めました。ところが、ラバンはヤコブをだましてラケルの代わりに娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせました。騙す者が騙される者となりました。でもラバンはヤコブに騙したと言いません。彼は「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。」と言ってラケルをあげる代わり、もう七年間、仕えなければならない」と言いました。結局ラケルひとりを得るためにヤコブは14年間ラバンに仕えました。彼がそのように14年間仕えたことは無駄にはなりませんでした。ラバンは、ヤコブを酷使し搾取しようとしました。しかし、実は、ヤコブがこの地に滞在することで、彼に与えられた子孫の約束、多くの子どもが生まれるという神様の約束は実現していくのです。イスラエル十二部族の先祖は、この地で、このようにして誕生しました。そして、二十年という歳月の後に、彼をカナンの地に「連れ帰る」という約束も実現するのです。 ヤコブだってラケルから子供が生まれることをなによりも望んだでしょう。しかし、ラケルが初めての子ヨセフを産んだのは、結婚後何年かは分かりません。ただ、ヤコブとレア、そしてその召使、ラケルの召使との間に一〇人の子供が生まれた後のことですから、少なくとも一〇年以上は子供が生まれなかったはずです。彼女はもう一人の子ベニヤミンを産むと同時に、旅の途上で死んでしまうのです。恐らく高齢出産であったことが、その一つの原因でしょう。結局、四人の妻と12人の息子と一人の娘を得るようになりました。29, 24節まではレアとラケルが夫に愛されるために子供を産む競争をする内容です。ヤコブの家庭には静かな日々がなかったでしょう。二人の女性が激しい競争をしていたのでまるで戦争をするところのようだったと思います。レアは息子をよく産みましたが、夫に愛されないコンプレックスを持っていました。ラケルには夫に愛されましたが、息子を産めないコンプレックスがありました。彼女達はヤコブを間にして互いに自分たちのコンプレックスを解決するために競争する間、12人の息子たちが産まれました。このような中で神様は二つのことをなされました。第一に、ヤコブの強い自我を訓練されました。ヤコブは四人の妻の間で絶えず訓練を受けました。息子が産まれても自分が名前を付けることさえできなかったことを見ると、彼の強い自尊心が砕かれる訓練を受けたでしょう。神様は人の杖、人の子のむちを持って彼を懲らしめ、彼の強い人間性を砕かれ、多くの国々の父としての内面性を持つようにされました。第二に、イスラエルの12部族の基礎を置かれました。神様は二人の女性のねたみと競争心を用いられ、ヤコブが知らないうちに天の星のような子孫を与えるという約束を成し遂げておられました。このように四人の妻と多くの子供を得た後、ヤコブは財産に関心を持ち始めました。ヤコブは財産を儲けるためにラバンと契約を結びました。それはラバンの羊とやぎの中でぶち毛とまだら毛のもの、黒毛のものを自分の報酬とすることです。ラバンはその日、そのようなものを全部取り出して、自分の息子たちの手に渡し、ヤコブとの間に三日の道のりの距離をおきました。ヤコブは非常に不利な立場に立たされました。しかしヤコブはいつものように落胆せず、頭を使って不可能に挑戦し始めました。神様はこのような彼を助けてくださり、彼は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになりました, 。神様は約束のとおりにヤコブとともにおられ、彼を祝福してくださいました。ヤコブはラバンのところでラケルを得るために14年、財産を得るために6年、あわせて20年間仕えました。それでは20年間どんな姿勢で仕えましたか。31, 42節を見ると、彼は仕事に怠けたり、適当に働いたりしませんでした。ラバンが幾度も報酬を変えたのにもかかわらず、彼は力を尽くしてラバンに仕えました。彼は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできないほどでした。彼は神様のしもべらしく心と力を尽くして働きました。その時、神様はヤコブを祝福してくださいました。30章43節をご一緒に読んでみましょう。「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」ここでは「祝福」が物質的な意味で用いられているようです。もちろん祝福は物質だけではなく、心身の健康の意味が含まれます。しかし、これはアブラハム以来、イサク、ヤコブが受け継いでいる「祝福」です。ですから、単に物質的な富を意味するだけの言葉ではありません。罪に堕ちた世界を祝福に変える。死の闇の中にある世界を命の光に変える。そのための祝福です。ヤコブがこの言葉を使っている文脈では、ラバンに合わせる形で、家畜の数が増えたことを表面的には言っている訳ですが、それと共に、もっと内的な、しかし、具体的な神の「祝福」、「恵み」とも「愛」とも言える祝福を語っていることは明らかだと思います。以上で、愛の力と神様がヤコブを家族の人間関係において訓練し、祝福されたことを学ぶことができました。家族の人間関係の中に試練があることほど苦しいことはないでしょう。家族は逃れることのできません。生涯付きまとう関係です。ヤコブは、妻たちとの関係に悩み、義父ラバンとの関係に悩んで行きました。ヤコブを騙し、ヤコブを利用しつくそうとするのがラバンでした。そんなラバンに対してヤコブが考え出した脱出の道は、「自分自身のために自分だけの群れをつくることであった」大切なのは、ヤコブは知恵を働かせたが、その知恵自体、あまり根拠のないことです。選択授精によっていくらかは成功したとはしても、なによりも神様がこれを祝福されたからできたことです。 多くの人は、苦労すること、訓練は悪いことだし、不幸なことだと考えます。けれども、苦労があることと幸せであることは別次元のことです。だから苦労があっても本当は幸せであることができます。神様を信じるということは、常識を超えています。もちろん、それは非常識になることではなく超常識になることです。常識的に行動する中で、常識を超えた神様のみ業があることを期待して行くことが信仰です。結論的に愛には人を疲れさせない力があります。愛は奉仕の原動力です。神様はご自分の約束のゆえに私たちを祝福してくださいます。どうか、愛と神様の祝福を信じる信仰を持って人々に仕え、神様に祝福された生活ができるように祈ります。

14Genesis17M わたしがあなたに示す地に住みなさい

14genesis17m, わたしがあなたに示す地に住みなさい, 2014年創世記第17講                           わたしがあなたに示す地に住みなさい御言葉:創世記25, 26:33要 節:創世記26, 「主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」先週、私たちはイサクの結婚について学びました。イサクは非常に美しく処女で、男が触れたことがなかった信仰の女性リベカを迎え入れて愛しました。リベカは信仰あるイサクの妻となって愛される幸せな結婚生活を始めました。ところが、そのイサクの家庭も試練がありました。リベカが不妊の女であったために20年間も子どもを産むことができませんでした。ききんの時は経済的な問題、リベカを失われる危機もありました。神様の助けによって問題が解決され、祝福されると、地域の人々から妬まれる問題もありました。ではイサクとリベカはこれらの問題をどのようにして克服したでしょうか。また、どのような信仰生活をしたでしょうか。この時間、アブラハムが地上での最後に果たした任務、イサク夫婦の信仰生活を学びたいと思います。?.平安な老年を迎え、長寿を全うしたアブラハム, 25章1,2節をご覧ください。「アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。」とあります。今までの流れから考えると、イサクが結婚してからアブラハムは再婚したのかなあと思われます。すると、サラの死後、アブラハムは140歳ごろに再婚して6人の子どもを設けたことなります。しかしそれは無理だと思われます。なぜなら、すでに100歳の時に「自分に子どもが生まれようか」と笑った人だからです。それで、調べてみると、歴代誌第一1章32節に「アブラハムのそばめケトラ」とありました。ケトラはアブラハムのそばめなのです。そして、6節に「アブラハムのそばめたちの子ら」と書いてあります。従ってケトラはアブラハムのそばめたちのひとりだったと思います。アブラハムは、自分の子イサクのためにそばめたちの子どもたちを東に去らせ、イサクから遠ざけました。それによってアブラハムはこの地上での最後の任務を果たします。5, 6節をご覧ください。「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。アブラハムは自分の全財産を相続者であるイサクに与えまし。しかし、そばめの子どもたちには贈り物を与えてイサクから遠ざけました。アブラハムはそばめの子どもたちからイサクを守るために意図的に彼らを遠ざけたことでしょう。このようにしてアブラハムはイサクが腹違いの兄弟たちから邪魔されることなく神様の祝福を受け継ぐことができるようにしました。では、アブラハムの最期はどうですか。8節をご覧ください。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。ここで「長寿を全うして」と訳されている言葉は、「十二分に満たされて、満足して」というのが直訳だそうです。つまり、「神様がその人のために計画なさったことが全て満たされて、それゆえに十二分に満足してアブラハムは死んだ」ということです。そこで、イサクとイシュマエルは父アブラハムをサラが葬られているマクペラのほら穴に葬りました。以上で、私たちはアブラハムの信仰生活100年間を学んで来ました。その中で私たちは偉大な信仰者としてのアブラハム、弱い人間としてのアブラハムの両面を見ることができました。彼の生涯は決して完全ではありませんでした。失敗もたくさんありました。奥さんを悲しませることもありました。軟弱な面もあるアブラハムでした。だから、私はこのアブラハムから何度も何度も慰められ、励まされて来ました。アブラハムが「すべて信じる者の父」であるからこそ、弱い私たちであっても神様を信じていれば天国へ行くことができます。天国でアブラハムに出会います。その時に私はアブラハムと握手しながら「あなたのお蔭さまでここまで来ました。」と挨拶したいと思います。神様がアブラハムを通して弱くて足りない私たちでも天国に行ける信仰生活を教えてくださったことを心から感謝します。?.祈りによって問題を解決したイサク, 19, 34, 19、20節をご覧ください。アブラハムの子イサクの歴史が始まります。イサクは四十歳でリベカと結婚して誰が見てもうらやましく思えるような夫婦になりました。アブラハムから全財産を与えられたイサクは金持ちです。就職活動もいらない、毎月家賃を払わなくてもいいし、家にはしもべたちもいます。リベカは美人だったし、内面性のある奥さんでした。誰が見ても幸せな夫婦に見えたことでしょう。私たちの中でもそのように見える夫婦がいるでしょう。職場は安定しているし、知力も霊力も体力も優れている旦那さん、美人で内面性の奥さんのように見える夫婦がいるでしょう。「あの家庭なら何の問題もないでしょう。」と言えるような家庭もいるのです。しかし、ほんとうに何の問題もない家庭があるでしょうか。幸せに生きているように見える家庭でもさまざまな問題があるし、試練もあります。イサクの家庭も例外ではありませんでした。彼の家庭にも試練がありました。一つ目の試練は子どもが生まれなかった問題です。リベカが不妊の女であったからです。幸せな結婚をしたしても子どもが生まれないと大きな問題になります。今日のような母の日になると、イサク夫婦はどんなに寂しかったでしょうか。20年間も子どもが生まれなかったことは、ほんとうに大きな試練の連続だったでしょう。ではどのようにしてこの試練を乗り越えることができたでしょうか。21節をご一緒に読んでみましょう。「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」イサクは自分の妻のために主に祈りました。問題はリベカにありました。不妊の女だったからです。でもイサクは妻のせいにしませんでした。つぶやくこともしませんでした。多くの夫たちは家庭に問題が発生すると、自分の問題さえ妻のせいにします。小さな事でも責任転嫁するから夫婦喧嘩したり、離婚したりします。しかし、イサクは自分の妻のために主に祈願したのです。しかも20年間、神様に祈り続けました。彼は健やかな時も、病んでいる時も妻を愛し、自分の妻のために主に祈願したのです。ついに神様は彼の祈りに答えられ、彼の妻リベカはみごもりました。神様はイサクの祈りに答えたのでリベカはみごもったのです。それも双子をみごもりました。夫の祈りに力がありましたね。ここで私たちは問題解決のカギは祈りであることが分かります。あきらめない祈りです。皆さん、20年間も祈り続けている祈り課題があるでしょうか。自分の妻のために主に祈願していることがあるでしょうか。神様は私たちがイサクのようにあきらめないで祈り続けることを望んでおられます。イエス様もルカの福音書の18章であきらめない祈りを教えてくださいました。ひとりのやもめがあきらめないで願い続けた時に不正な裁判官でさえ願いを聞いてくれたことを通していつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えてくださいました。それから「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。, 」と言われました。神様が私たちの祈りをいつまでも放っておかれることはありません。神様は私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが少々あつかましい祈りをささげても神様はそれを聞いていてくださいます。先週学んだエリエゼルのように、イサクのように具体的に祈るなら神様が答えてくださいます。ただ、答えられるのは神様の時です。エリエゼルは祈りがまだ終わらないうちに答えられました。イサクは20年間の祈りが答えられました。従って、祈りにおいて大切なのはあきらめないこと、失望しないことです。イサクのように失望しないで祈り続けるなら、神様が答えてくださいます。そして、私たちは祈る生活を通して問題を解決していただくだけではなく自分自身が信仰の人として成長して行きます。今日の本文でも26章を見ると、イサクはとてもほんとうに成熟した信仰の人として用いられています。彼は祈ることを通して祈りの人、信仰の人として成長し、成熟して行ったのです。イサクは自分の妻のために祈ったのですが、今度はリベカも祈るようになりました。22節をご覧ください。子どもたちがリベカの腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言いました。そして主のみこころを求めに行ったのです。今度は自分が自ら主の御心を求めに行ったのです。すると、主は彼女に仰せられました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」とあります。リベカが祈る時に神様の御声も聞くことができました。生まれて来る子どもの将来も知ることができました。ですから、私たちは家庭の中に問題がある時、イサクやリベカのように祈ることが大切です。イサクとリベカは祈る夫婦でした。祈る家庭に神様の祝福と恵みが臨まれます。夫婦が祈ると子どもの将来も見えて来ます。神様が祈りに答えてくださるからです。もし、自分の信仰生活に祈りが忘れられている方はいないでしょうか。霊的に危機であることを自覚してください。信仰生活に赤信号です。祈らない教会があるなら、その教会も危機であると言えるでしょう。私たちは祈りを休むような罪を犯さないように気をつけましょう。どうか、イサクのように、リベカのように祈り続ける祈りの人として生きるように祈ります。二つ目の試練は経済的な問題でした。26章1節をご覧ください。さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがありました。ききんがあったことは経済的な問題があったことです。今の言葉で言うならリストラされたり、自己破産したりしたことでしょう。裕福な生活をして来たイサクとしては飢饉に耐えることがとても難しかったと思います。それで彼はゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行きました。そこからイサクはエジプトに下ろうとしたと思われます。ゲラルはエジプトに行くための国境の付近です。その時、主はイサクに現われて仰せられました。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」イサクがききんの時にその地に住むこともやさしいことではありませんでした。しかし主が示される地、主の御心の地が最善の地です。神様が示されるその地に住むならどうなりますか。3,4節をご一緒に読んでみましょう。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムに与えてくださった祝福と同じ祝福をイサクに約束されました。神様がイサクを祝福する理由は第一に、アブラハムに誓った誓いを果たすためにです。アブラハムは死に、歳月は流れました。しかし、主の約束は変わることがありません。人が変わっても、主は真実にその誓いを守られます。第二に、アブラハムが神様の御言葉に聞き従ったからです(5)。これを見ると、私たちがアブラハムのように信仰によって生きると、神様は私たちだけではなく、私たちの子孫も祝福してくださることがわかります。では、イサクは神様の御言葉に対してどのように反応しましたか。6節を見ると「イサクがゲラルに住んでいるとき、」とあります。つまり、彼は神様の約束の御言葉に聞き従いました。すると、神様は約束の通りに彼を守り、祝福してくださいました。まず、弱いイサクの問題を助けてくださいます。彼がゲラルに住んでいる時のことです。彼はリベカのことでその地の人々から殺されることを恐れて自分の妻を妹ですと言ってしまったのです。彼は父アブラハムが二度も犯した同じ失敗を犯してしまいました。ほんとうに恥ずかしいことです。ところが、神様はそんなイサクであっても彼を無視して捨てるようなことをなさいませんでした。むしろ彼を守ってくださいました。ある日のことです。アビメレクはイサクがリベカを愛撫しているのを見て二人が夫婦であることが分かりました。そこでアビメレクは自分の民たちに「リベカに触れる者は、必ず殺される。」と命じて守ってくださいました。それだけではありません。彼の経済的な問題を解決してくださいました。彼を祝福してくださったのです。12、13節をご覧ください。「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。飢饉の時に百倍の収穫を見たことは考えられないことです。しかし、神様には不可能なことがありません。普通には考えられないほどに祝福してくださることができるお方です。私たちはこの神様の祝福を信じるべきです。私たちが神様の祝福を信じて神様の御言葉に聞き従う時、一時的に損するかのように思われる時もあります。しかし、結局は神様によって祝福された人生を送るようになります。?.愛と信仰によって試練を克服し、良い影響を及ぼしたイサク, 神様の祝福によって非常に裕福になったイサクは人々から妬まれるようになりました。人は地位が上がったり、祝福されたりすると妬まれることもあります。イサクはペリシテ人から妬められました。彼らは父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしました。その地方で井戸は非常に大切なものです。井戸を掘るのは大変な苦労があります。ですから、井戸を譲ることは当時難しいことでした。しかし、イサクは苦労して掘った井戸を何回も譲りました。譲ることばかりしているイサクのことを考えると腹が立ちます。イサクは弱虫のように見えます。それでは本当に彼が弱くてもそのように井戸を譲ったのでしょうか。彼は栄えて、非常に裕福になっているし、多くのしもべたちも持っているのを見ると、決して力がなくて譲ったのではありません。彼が井戸を譲ったのは、神様がベストの道に導いてくださることを信じたからです。また、隣人を愛する愛があったからです。彼はすべてを主にゆだねました。そして、人々を憎まずに、自分がやれることをやって行きました。すると、ついに争いがなくなり、イサクは「今や、主は私たちに広いところを与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(22)と言いました。主に信頼する者に主は平安と勝利と祝福を与えてくださいます。結局、イサクは不信者達にどんな信仰の影響を及ぼしましたか。26節をご覧ください。ペリシテ人の王アビメレクは友人アフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来ました。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちです。ところが、彼らはイサクに何と言いましたか。28節をご覧ください。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」29節では「あなたは今、主に祝福されています。」と言いました。地域の人々に良い影響を及ぼしていることが分かります。これはイサクの愛と信仰による勝利です。ローマ12:21には次のように記されています。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」アビメレクはイサクと契約を結ぶことを提案します。それは主がイサクとともにおられたので、彼に恐れを感じたからです。それで平和条約を結びました。信仰によって生きる時、主は私たちを祝福してくださいます。祝福されると、人々から妬まれることもあるでしょう。それでも、彼らを愛し続けるなら、神様の栄光を現わし、良い影響を及ぼすことができます。その時、人々は私たちを見てこう言うでしょう。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。私もあなたが信じている神様について知りたいと思います。」どうか、私たちが信仰生活の中でも問題が発生し、試練もあることを認識し、そう言うときこそ神様に祈り続けることができるように祈ります。祝福された時に人々から妬まれても人々を赦し、愛し続けることもできるように祈ります。こういう信仰生活を通してノンクリスチャンの間に主の御名があがめられるように祈ります。