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14Genesis18.ヤコブを祝福したイサク

14genesis18, ヤコブを祝福したイサク, 2014年創世記第18講ヤコブを祝福したイサク御言葉:創世記27:1−45要 節:創世記27:331.年をとり、視力が衰えて見えなくなったイサクは、誰を祝福しようとしましたか, 。その時、誰がその話を聞いていましたか, 。2.リベカはヤコブにイサクの話を伝えた後、二人でどんなことを企みましたか, 。ヤコブは何を恐れていましたか, 。リベカはどのようにしてヤコブを説得し、また、イサクをだます準備をさせましたか, 。3.ヤコブは、父イサクを、どのようにだましましたか, 。ヤコブが用意した得物を食べ、またぶどう酒を飲んだイサクは、ヤコブにどんな祝福を与えましたか, 。4.イサクがヤコブを祝福した後、だれが料理を持って来ましたか, 。自分がだまされたことを知ったイサクの反応はどうでしたか, 。泣きながら祝福を求めるエサウに、イサクはどんな言葉を与えましたか, 。ここで、ヤコブに与えた祝福を取り消しにしなかったイサクについて、話してみましょう。5.なぜエサウはヤコブを恨むようになりましたか, 。エサウの話を聞いたリベカは、ヤコブにどんな方向を与えましたか

14Matthew04M 主イエスのことばを聞いてそれを行う者

14matthew04m, 主イエスのことばを聞いてそれを行う者, 2014年マタイの福音書第4講 主イエスのことばを聞いてそれを行う者御言葉:マタイの福音書7:13, 29要, 節:マタイの福音書7:24だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 マタイの福音書5章から7章は「山上の垂訓」と呼ばれる説教でとても素晴らしく、人間のあるべき姿を教えてくださいます。ところが、その一部には十戒をはるかに超える厳しい戒めがあります。とても高い道徳なので自分には無理だと思われる場合もあります。例えば「敵をも愛する」ということは本当に難しいでしょう。実はイエス様もそれを認めておられたようです。それは狭い門にはいることであり、それを妨害するにせ預言者たちの惑わしもあることを知っておられたのです。そこで、イエス様は山上の垂訓の結論としての三つのことを警告しておられます。ここで私たちは最も賢く生きる生き方は何かを学ことができます。一言で答えるなら「主イエスのことばを聞いて行う者」として生きることです。どうか、聖霊の働きと御言葉の力によって私たち一人ひとりが主イエスのことばを聞いて行う者として成長して行きますように祈ります。一つ目は狭い門からはいりなさい。13,14節をご一緒に読んでみましょう。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあります。「狭い門」とは何でしょうか。ヨハネ10, 9によると、イエス様が「わたしは門です」と言っておられます。「狭い門」とはイエス様ご自身なのです。それはイエス様を通してはいり、イエス様が歩まれたその道に歩むことです。その道は狭く、それを見いだす者はまれです。聖書は世界一のベストセラーですが、実際にイエス様のように心を貧しくして謙遜に生きる人は多くありません。お金に飢えている人は多くても義に飢えている人も少ないでしょう。あわれみ深く、心のきよい人も多くありません。平和をつくる者も、義のために迫害されている者も多くありません。自分を犠牲にして地の塩、世界の光として生きている人も少ないです。敵をも愛している人はほんとうにまれです。イエス様の教えも、イエス様の行ないも、ほんとうに素晴らしいですが、イエス様の教えに従い、イエス様のように生きることは難しいのです。それで山上の垂訓のような素晴らしい説教を聞くと感動し、恵みを受けましたが、イエス・キリストを信じてキリストの道を見いだす者はまれなのです。しかし、イエス・キリストこそ、いのちに至る門であり、天の御国に到達するまでの唯一の道です。そして、狭い門からはいり、イエス様を信じてイエス様の教えに従って生きる人はどうなりますか。イエス・キリストの道に歩んで行くといのちを得、豊かに得ることができます。それを見いだす者がまれなのでちょっと寂しいですけれども、平安と喜びを経験します。いのちに至る門を通って行く時に経験する恵みと喜び、その祝福は実に大きいものです。だから、御言葉を聞いて行なった経験、その体験がある人は寂しくても信仰を持って狭い門からはいります。1960、1970年代の韓国はとても貧しい国でした。多くのお姉さんたちが家族のために、国のために当時の西ドイツの看護師になって行きました。その中にubf宣教師たちは小さなグループでした。でも、彼らは「狭い門からはいります。」という決断を持って平信徒宣教師として働きました。当時、ドイツに雇用された後進国の労働者として先進国のドイツの大学生たちに聖書を教える道はとても狭く、それを見いだす者はまれでした。しかし、狭い門からはいり、小さく狭い道を歩む続けた宣教師たちはいのちを得、豊かに得ました。今回ヨーロッパ国際修養会はいのちにあふれていました。メッセンジャーたちはほとんどがセカンドゼネレーションの牧者、宣教師たちでしたが、彼らはドイツを導く霊的リーダーになっていました。宣教師たちがイエス様の教えに従って生きることは決してやさしくありませんでした。しかし、狭い門かりはいり、その狭い道を歩み続ける時、素晴らしい神様の恵みと祝福を経験し、いのちの実を結んでいるのです。しかし、広い門はどうですか。まず広いからはいりやすいです。その道も広いから歩きやすいです。<赤信号、みんなと渡れば怖くない>というのと同じだと思うからです。私たちの周りには美味しい所も多く、楽しめるテレビ番組、インターネットのサイト、スマートフォンなどが待っています。華やかで、魅力的であります。それで、自分の方から何も考えずに黙っていると自然に広い門からはいってしまいます。けれどもその道すじの途中には不品行や罪に陥る危険が至るところに潜んでいます。先へ進んでしまうと、ますます困難が待ち受けています。そして、あるところを通り過ぎると、引き返すことが難しくなってしまいます。大ぜいの方がそこから通って行くのですけれども、その行き先は滅びなのです。しかし、先ほど説明したように、狭い道の特徴は、入り口が小さくて目立ちません。人の目には決して魅力的には見えません。聖書の文字だけがそれを見つけ出す手がかりになります。そしてその門をくぐるためには、私たちは頭を下げて、腰をかがめないとはいることができない時もあります。でも、イエス様を信じて狭い門からはいると、すぐに広く、緑の豊かな牧場を通るようになります。そして最後のその行き先は主の支配される栄光の御国です。どうか、イエス様の道、十字架の道、この狭い道こそがいのちに至る道である確信を持って行きますように祈ります。そうしなければ、私たちはにせ預言者たちに欺かれてしまいます。なぜでしょうか。第二ににせ預言者たちに気をつけなさい。 15節をご覧ください。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」とあります。にせ預言者たちも神様の御言葉を伝えます。彼らは羊のなりをしてやって来ますから受け入れやすいでしょう。しかし、偽預言者たちは、神の言葉をそのまま伝えません。確かに「神様は愛」ですが、その「愛」には、「やさしい面」と「厳しい面」の両面があります。だから、神様が、預言者を通して地上にメッセージを送るときは、当然「厳しい面」もあるはずなのです。ところが、「厳しい面」を伝えると、人々はあまり喜びません。「イヤだなあ」と思います。「神は愛ではないのか。こんな厳しいことを言うはずがない。だから、この預言者は偽者だ」と言って無視し、迫害します。しかし、「神の声」をそのまま伝えるのが預言者の使命です。人々の機嫌を取るのが預言者の使命ではないのです。ところが、偽預言者というのは、人々の機嫌を取るメッセージを伝えます。「狭い門からはいりなさい」、「狭くても十字架の道を歩みなさい」というようなことはなかなか言いません。「良きことばかり起こりますよ。未来はバラ色です」「あなたは、そのままで良いのです」・・・ニコニコしながら、こういう甘い言葉を語るのです。当然、人々は喜びます。人気が出ます。人々からチヤホヤされます。「先生、先生」と呼んでくれます。それがうれしくなります。すると、いつの間にか、彼らにとっては、「神様の御心」よりも、人々から評価されることのほうが大切になってしまいます。そして、やがて、「金儲け」の味を覚えていきます。貪欲な狼の本性をあらわしてくるのです。「献金すれば救われる」と言ってみたり、何とかセミナーを開いて、企業の戦略を取り入れてみたりします。これを見抜かなければ、大変なことになる。偽預言者を信じ、彼の「教え」を実践したならば、どんどん「滅び」に近づいてしまうのです。では、どうやって見分ければいいでしょうか。16, 20節をご覧ください。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」とあります。イエス様は実によってにせ預言者を見分けることができると教えてくださいました。「実」を見ればにせ預言者か、ほんものの預言者かが分かるのです。ここで「実」とは「預言者の行ない」のことです。21, 23節は良い実を結んでない人々がどうなるかを教えています。ご一緒に読んでみましょう。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」とあります。「主よ、主よ。」といくら唱えても、天国に入ることはできません。口だけが入ることもできません。口で告白することも大切ですが、信仰の行ないこそ大切なのです。「行ない」とは、その人の内面、たとえば、「思い」や「信念、価値観」などが、実ったものです。ほんものの預言者も、偽預言者も、みんな、それなりに良いことを言います。だから、「言っていること」だけを見ても、ホンモノかニセモノか、よく分かりません。ところが、その預言者の「実」、すなわち「行ない」を見れば、ハッキリするでしょう。立派なことを言っても、主の教えを実践していないなら、その預言者は偽者です。その預言者の日頃の「行ない」を、じっくり観察すれば分かるはずです。もし、見分けることなく、偽者について行くなら、「滅び」が待っているということです。従って狭い門にはいるためにはにせ預言者に惑わされないように気をつけなければなりません。「良い木はみな良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結びます。」このことを覚えているべきです。私自身も、宣教師、牧師として預言者の役割を果たしている者です。にせ者にならないように気をつけなければなりません。私が本物の宣教師、牧師として人に見せるためではなく、御言葉を行なう生活ができるように祈ってください。私たちが良いことを聞いてもそのまま行うことはやさしくありません。狭い門からはいり、狭い道を歩むようなことです。それでもイエス様の御言葉に従って行動しなければなりません。イエス様の名によって預言をし、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇蹟をたくさん行なうことよりも、イエス様の教えを実践して良い実を結ぶことが大切だからです。先日、辻宣道先生(つじ, のぶみち、1930年, 1994年)のことを読みました。先生のお父さんは、戦時中の弾圧で、獄死しました。その時、先生は、中学生だったそうです。食料のない時代、カボチャを分けて貰いに行った農家で、「お宅に分けてやるカボチャは、ないねぇ。」と断られてしまいました。この農家の人は、平穏無事なときは、教会で真っ先に証ししていたような人で、教会役員もしていたはずでした。それなのに、どうして、このように、人にカボチャ一個も分けてくれない人になってしまったのかと、当時、中学生だった教会の先生は、考えさせられたそうです。そして、伝道するようにとは教えられていたけれども、「教会とは何か」「キリスト者とは何か」ということについては、良く教育されていなかったためだと、あとから分かったそうです。  このように、私たちは、聖書の真理の全体を体系的に学び、偽預言者を見分ける力を持つ必要があるのです。そして、偽預言者ではなく、ほんもののクリスチャンとして生きるためには人生の基礎からしっかりしなければなりません。 第三に御言葉を聞いて行ないなさい。24, 27節をご覧ください。「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」とあります。局地的な豪雨で広島市では土砂災害による大きな被害が出ました。昨日まで49人の死亡が確認されたほか、今も行方が分からない人が大勢いて、捜索が続けられています。その原因は広島県などによりますと、県内の多くは花こう岩が風化してできた「まさ土」で覆われていて、もろくて土砂崩れが起きやすい地質だそうです。それで広島県が9年前に土砂災害警戒区域に指定しようと現地調査を進めましたが、調査を白紙に戻していました。広島県の担当者は、「指定がされていれば住民が危険を意識する助けになったと思うと残念だ」と話しています。つまり、広島の安佐南区は花こう岩の上ではなく、岩が風化してできた「真砂土」になっているのにもかかわらず、その上に家を建てたのです。それゆえ、雨が降って洪水が押し寄せた時に家々が倒れてしまったのです。このように、災難がない時は、岩の上に建てた家も、砂の上に建てた家も同じく見えますが、洪水、台風、地震などの災害があると、その違いが表われるのです。砂の上に建てた家は倒れてしまいます。しかもそれはひどい倒れ方です。基礎、土台によって結果が変わったのです。私たちの人生の土台も大切です。そして、御言葉に従って神様の御心を行なう人は岩の上に家を建てた賢い人のように賢い人生を生きることができます。もう一度24a節と26a節をご覧ください。「わたしのこれらのことばを聞いて」という部分は同じです。二度繰り返されています。イエス様のことばを聞くことは大切です。ローマ10, 17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。ほんとうに、心から聞こうとしますと、聖霊が働いてくださり、心が柔らかくなり、聞いて従順に、従いやすくなって、行えるようにしてくださいます。大切なことはクリスチャンであっても、聖書の御言葉を道徳的な教訓のように聞くか、それともイエス様の御言葉として聞いているかによって、その人の人生の土台が、どこにあるかが決まって来ます。礼拝の時も聖書の御言葉をイエス様の御言葉として聞くことが大切です。しかし、「御言葉を聞いた」というだけで終わってはなりません。ほんとうに謙遜に聞くなら、「それを行ないたい、聞き従いたい」と言う思いになるでしょう。それを実行してこそ意味があります。先ほど広島県が9年前に土砂災害警戒区域にしてしようとしましたが、それだけでは意味がありませんでした。実行しなかったからです。そのように、イエス様の御言葉を聞くだけではなく、行なうことが大切なのです。そういう意味で、信仰の行ないこそ、岩のように安全な人生の土台です。イエス様の御言葉に従って祈り、まず第一に神の国とその義を求める生活をするなら、生きておられる神様の働きを経験するようになります。それによって人生の基礎工事がしっかりできるようになるのです。このようなイエス様の教えに対する人々の反応はどうですか。28,29節をご覧ください。「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」とあります。人々は権威あるイエス様の教えに驚きました。 結論を言いますと、私たちは主イエスのことばを聞いてそれを行うことによって最も賢い人生を生きるようになります。私たちは夏修養会を通して大きな恵みを受けました。ひとりひとりの所感を通して感動し、大きな恵みを受けたという方も多くいました。発表者たちは御言葉を聞くことに留まらず、聞いて行なうことによって神様の恵みを経験し、祝福された人生を生きていたことが分かります。にせ預言者たちは私たちが広い門からはいるように誘惑しています。便利主義、安逸主義、世俗主義が私たちを惑わしています。実際にその人生は楽で楽しいかも知れません。ところが、その結果は滅びです。砂の上に家を建てた人のように崩れる時が来ます。しかし、私たちが歩む道が狭くてもイエス様の御言葉を聞いて行なうなら、いのちを得、豊かないのちの実を結ぶ人生を生きるようになります。どうか、どんな誘惑に揺れることなく、広くてやさしい道だけを求めることもなく、狭くても、それを見いだす者がまれであってもイエス様の御言葉を聞いて行なう生活ができるように祈ります。

14Matthew7M わたしがあなたがたをやすませてあげます

14matthew7m, わたしがあなたがたをやすませてあげます, 2014年マタイの福音書7講                             わたしがあなたがたをやすませてあげます御言葉:マタイの福音書11, 1−30要, 節:マタイの福音書11, 28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 日本は「平均寿命世界一の国」であると言われています。それでもこの日本には多くの人々が「疲れた。疲れている。疲れ切っている。」と言っています。大人から子供まで「疲れた」が口癖で全国共通語になっています。挨拶も「お疲れ様です。ご苦労様です。」と言いますね。どうしてそれほど疲れているでしょうか。どうすれば疲れがとれるでしょうか。 今日の御言葉でイエス様は疲れた人、重荷を負っている人を招かれます。安らぎを得る方法を教えてくださいます。どうか、御言葉を通してイエス様のお招きを受け入れ、イエス様を学ぶことができるように祈ります。そうして、イエス様から与えられる休みと安らぎを得ることができるように祈ります。, ?.疲れている原因 , 第一に信仰の確信が揺らぎ始めると疲れます。1節をご覧ください。「イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。」とあります。「このように」とは「先週、私たちが学んだように、」と言える言葉です。イエス様は12弟子を遣わされるときに「イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」、「人々には用心しなさい」、「人を恐れず、神を恐れなさい。」などの注意を与えてくださいました。その後、イエス様は彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを去りました。12弟子を遣わすことだけではなく、イエス様ご自身も教え、宣べ伝えることを続けられたのです。そうして、キリストのみわざはますます拡張されて行きました。 2,3節をご覧ください。「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」とあります。キリストのみわざについて聞いたヨハネですが、キリストのみわざには関心を示していません。イエス様と12弟子の活動によってキリストのみわざが広がっていたので大変喜ぶべきでした。事実、彼にキリストに対する信仰があった時はキリストのみわざを喜んでいました。イエス・キリストをあがめていました。彼はイエス様に対して「私よりもさらに力のある方です。私は、その方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました。, マタイ3章, 。それほどにイエス・キリストに対する確信があったのです。その時、彼は疲れることなく、元気いっぱいに働いていました。監獄に入れられることも恐れずに不義と戦いました。 それなのに彼は、今イエス様がキリストであるかどうかの質問をしています。なぜでしょうか。それは、ヨハネ自身のキリストに対する信仰が揺れていたからです。彼は「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と言っています。彼はイエス様にバプテスマを授けることも躊躇ったほどにキリストとして確信していたのに、その信仰が揺らぎ始めていたのです。なぜこうなったでしょうか。おそらく、彼は獄中にいる自分を助けて来てくださると期待していたことでしょう。彼は困っている人、苦しんでいる人を助ける活動こそキリストのみわざだという先入観を持っていたと思われます。イエス様に対して自分なりの期待感と先入観があったのです。ところが、その通りになりませんでした。そこで、彼の信仰は揺れ始めたのです。イエス様に期待することと、現実のギャップに悩む時、疲れてしまうでしょう。イエス・キリストのみわざに対する確信が弱くなると疲れてしまうのです。 私たちも最初にイエス様に出会って救われた時はどうなりますか。罪深い自分を救ってくださったキリストの恵みのゆえに謙遜になります。「イエス様こそ、生ける神の御子キリストです。」と告白します。キリストのためなら生きることも、死ぬことも益ですと歌います。するとなんだか元気になります。心から生ける水が流れることを感じるようになります。キリストのためなら教会堂の掃除をすることも光栄に思います。「トイレの掃除だけでも私がやります」というほどになります。ところが、自分がイエス様に期待することと現実のギャップが大きくなると、どうなりますか。現実問題が解決されることに集中されるようになります。キリストに出会った時の信仰は弱くなります。「本当にイエス様がキリストなのでしょうか、私の祈りを聞いておられるでしょうか。私は別の方を待つべきでしょうか」と思うようになるのです。イエス・キリストは何もやってくださらないと思って別のところを求める場合もあります。偶像崇拝者に戻り、つまずいてしまう場合もあります。しかし、そのような時こそ忍耐を持ってキリストのみわざを信頼しなければなりません。キリストに対する絶対的信頼をさらに深めて行くべきです。だれでもイエス・キリストにつまずかない者は幸いです。ではキリストは何をしておられたでしょうか。4, 6節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」イエス様はヨハネがキリストに対して正しい知識を持つように、キリストのみわざを確信するように助けてくださいました。ヨハネの活動を無視したのではなく、イエス様ご自身のみわざを教えてくださったのです。先入観や自分中心の期待を捨て、主のみわざを確信することによってヨハネも安らぎを得ることができるからです。ヨハネはヘロデ王の不義と戦いましたが、イエス様は福音のために働いておられました。目の見えない者が見、足のなえた者が歩くことのために働かれました。ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞こえるように働かれました。死人が生き返ることのためにも働かれました。このようなキリストの働きによって人々は癒され、安らぎを得ました。新しいいのちを得ました。人々から捨てられてしまうほどに弱く病んでいる人たちが癒され、彼らのたましいが行かされるみわざがあったのです。ではヨハネの働きは無用でしょうか。いいえ。私たちは正義のために戦っている人々をさばいてもいけません。イエス様は正しいことを正しく言う正義感のある人を愛し、認めてくださいます。7, 15節を読んでみると、イエス様はヨハネがいかに偉大な人であるかを説明してくださいました。ヨハネはイエス様が「, 女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」とお認めになったほどに偉大預言者だったのです。ただ、彼はキリストに対する知識が不十分であったために、イエス様の十字架の死と復活を知っている現代のクリスチャンには及びません。私たち人間はイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって救われるからです。私たちはイエス・キリストの十字架と復活を通して神様の愛がどれほど大きいものか知っています。私たちのためにご自分のいのちまでも惜しまずにお捨てになったイエス様の愛を知り、信じています。その信仰を失い、その信仰が弱くなると、疲れてしまいます。日々の生活の中で「疲れた。今日も疲れた。」と言わざるを得ない状態になってしまうのです。,  第二に、人は幼子のようにならないと疲れます。16, 19節をご覧ください。「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」とあります。 ここに喜びも悲しみも感じない人々の姿があります。何でもかんでも弁解し、批判的な人々の姿もあります。ヨハネも、イエス様も素晴らしい福音を伝えましたが、人々は喜びませんでした。悔い改めて悲しむこともしませんでした。むしろ福音に対して勝手な評論家になっていました。食べないと悪霊につかれているのだと言い、食べると食いしん坊だと言いました。ああいえばこう言い、こういえばああ言っていたのです。このように、何もかも批判する人の心には安らぎがありません。人に対するさばき、不平と不満などで騒いでいます。だから、いつも疲れるだけです。哀れな人たちです。イエス様が彼らのことを考えると、とても心を痛められたようです。イエス様は悔い改めない町々の不信仰について嘆かれました。21, 24節をご覧ください。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」とあります。このようなイエス様の嘆きには理由があります。それは、イエス様がメシヤであることを証明する数多くのみわざを見ているのにもかかわらず、これらの町々が悔い改めなかったからです。イエス様が彼らの町に来られたので、イエス様に関する知識を増えていたでしょう。でも、本当の意味ではキリストを知らなかったのです。25, 27節をご覧ください。「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」とあります。自分の賢さや知恵を誇る評論家のようではなく、幼子のようになると、神様を知ることができるということです。幼子は笛を吹いてやると、踊ります。うちの子どもたちがまだ幼かった時は、cdフレアから音楽が流れるだけでも踊りだしていました。恐い顔をしたり、弔いの歌を歌っているような顔をしたりすると、子どもたちの顔も悲しい表情になりました。幼子は素直に反応するのです。ですから、イエス様が私たちに要求されるのは、多い知識ではなく、幼子のような素直さです。幼子のように素直に反応して喜び、悲しむのです。幼子は疲れていません。だから、神様の御言葉が語られるときに反応できる方は幸せです。御言葉を通して疲れがとれる生活ができます。パウロチーム勉強会の時によく笑います。御言葉に素直に反応できるからだと思います。私は先輩の宣教師たちが御言葉に反応して素直にお話をし、大笑いすると、一日の疲れが完全に癒されます。李ヨシュア宣教師はよく言います。「今日も実はここまで来るのが重かったけれども御言葉を勉強すると元気になりますね」と。本当にそうです。私自身もよく経験していることです。もし、ヨシュア宣教師が「俺はこの箇所を何度も勉強したよ。」と思って家で休んでいると疲れが取れるでしょうか。そうではないと思います。疲れていても教会に来て御言葉に反応すると、不思議に疲れが癒されるし、ストレスも解消されるのです。たましいに安らぎが来ます。従って私たちはどうするべきでしょうか。?.休み、安らぎを得る方法(疲労回復の方法)28, 30節をご一緒に読んでみましょう。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」ここで、私たちは休み、安らぎを得る具体的な方法を学ぶことができます。第一に、イエス様のお招きを受け入れることです。イエス様は。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と招いてくださいました。, 私たちはみな、生活を営む以上、疲れと重荷から逃れる事はできません。「この頃、いつも疲れを感じている。いくら寝ても疲れが取れない、身体が重くだるい。」こんな悩みを抱えている方がたくさんいます。それが私たちの生活でしょう。ところが、疲れているときに疲れている人に行くと、ますます疲れます。一日中、職場で働き、疲れたまま家に帰った時、奥さんから「今日は疲れた。ちょっとご飯を炊いてくれる。」と言われたらどうなりますか。さらに疲れてしまうでしょう。しかし、心やさしく、へりくだっている人に行くと、休まれるし、安らぎを得ます。たとえば、旦那さんが仕事から家に帰ったとき、奥様が優しく謙遜に迎えてくれるなら、一日のすべての疲れがとれるでしょう。でもそれは一時的です。私たち人間はお互いに疲れているからです。ところが、イエス様は誰よりも心やさしくへりくだっておられます。何よりもイエス様は私たちの弱さも重荷も背負って十字架にかかって死んでくださいました。イエス様は私の内側で私を責めたてている全ての罪と、その記憶をご自分の身に引き受けてくださったのです。キリストがあなたのすべての罪の身代わりとなって十字架の上でさばきを引き受けてくださったのです。したがって神様はキリストにあって私たちのことを少しも怒っていません。私たちを迎え入れようと優しく待っておられる方なのです。恐れの原因は全部キリストが十字架の上で取り除いて下さったのです。また、イエス様は死者の中からよみがえることで死を滅ぼされたお方です。イエス様は死という人生最大の重荷を自らの復活によって滅ぼしてしまわれたのです。ですから、私たちがイエス様のお招きを受け入れ、イエス様のところに行くなら、休まれるし、安らぎを得ることができるのです。第二に、イエス様のくびきを負って、イエス様から学ぶことです。人生は荷車を引いて行くようなものです。私は子どもの時に、牛にくびきをかけてリヤカーを引いて行くようにしました。リヤカーに乗っていると楽しかったです。でも牛がいないと、自分が荷物を載せたリヤカーに引いて行く時もありました。その時に、誰かが一緒になって車を引いてくれると楽になりました。これが休みです。そのように、さまざまな重荷を載せたリヤカーを引いて行くような人生の中にイエス様が来てくださいました。それで、だれでもイエス様のくびきを負って行くなら、イエス様が重いリヤカーを一緒に引いてくださるのです。私たちの重荷が多くてもイエス様が引いてくださるから楽になります。私たちは平安な生活ができるようになります。やすらぎのある素晴らしい人生を持つことができるのです。それから、イエス様を学んでいくうちに、自分のたましいに来る安らぎを体験することができます。人々を休ませることもできるようになります。イエス様はやさしく、へりくだっているとおっしゃいました。人は短期で高慢になっていると自ら疲れます。しかし、イエス様のように心やさしく、へりくだっていると、平安になります。神様を愛し、人を愛する歩みです。イエス様と一緒になった私たちも、神様を愛し、人を愛するなら、その人生がどうなりますか。「そうすればたましいに安らぎがきます」これが、イエス様の約束です。 , 人生の中には疲れや心配事があります。きよくなりたいと思ってもきよくなれない、また、家庭や夫婦、親子問題、経済、事業、健康など、人生には色々な問題があります。しかし、イエス様が招いておられます。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』, これはクリスチャンであっても、クリスチャンではなくても、全ての人に対するイエス様の招きの言葉です。素晴らしい御言葉です。『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』私たちがイエス・キリストを正しく知り、信じる信仰によって疲れた生活から救われて安がりのある生活ができますように祈ります。

14Matthew06M  十二弟子をお遣わしになったイエス様

14Matthew06M , 十二弟子をお遣わしになったイエス様, 2014年マタイの福音書第6講 十二弟子をお遣わしになったイエス様御言葉:マタイの福音書10:1−33要 節:マタイの福音書10:1「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」 先週、私たちはイエス様がツァラアトに冒された人、中風やみの人、熱病の人を癒してくださったことを学びました。また、御言葉を持って悪霊どもを追い出し、病人の人々をみな癒されたことも学びました。イエス様には病人を癒し、悪霊どもを制する権威があったのです。今日の本文にはイエス様がその権威を12弟子にお授けになったことが記されてあります。それは12弟子たちを通しても悪霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すためです。結局、イエス様が遣わされた12使徒を通してイスラエルに神の国が伝えられ、やがて世界に伝えられて行きました。そして、今日も、神様は私たちにその権威をお授けになり、私たちを通してこの日本の47都道府県、アジア47か国、世界に神の御国が宣べ伝えられて行くことを望んでおられます。 そこで、今日は御言葉を通して12弟子に与えられた権威と力が自分に与えられているという認識をし、信じて行きたいと思います。また、12弟子のように、私たちもこのように遣わされていることを認識し、遣わされた者としての心構えと信仰を学びたいと思います。どうか、本文の御言葉を通してイエス様の弟子としての自分のアイデンティティと信仰を新たにすることができるように祈ります。 ?.12弟子に権威をお授けになったイエス様1節をご覧ください。「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」とあります。イエス様は宣教のために、十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。12弟子とは、すでに神様に選ばれている人たちです。彼らには霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すための権威が授けられたのです。従って神様に選ばれた人々は神様からの権威、力があると信じていなければなりません。「自分に力がある」と思って働く人と、「私にはそんなものはないからできない」という人の働きに違いがあります。私がイエス・キリストを信じる前は、自分にはなんの力もないと思っていました。今も信仰が弱くなると「自分に力量が足りない」と思ってしまう時があります。するとあれもこれもできないという人として生きるしかありませんでした。何もかも否定的に考えてしまいます。しかし、私に信仰がある時は違います。何でも神様から与えられると思います。自分には力があると思うのです。たまに、その思いが強すぎて高ぶり、注意されて高慢を悔い改める時もあります。ただ、確かに言えることは自分たちが持ってあると思うならば大胆に働くことができるということです。私は職場でも私にはできないと言わないで何でもやろうと思って来ました。すると、ほんとうにいろんなことができるようになりました。病人のために祈ることもできます。悪霊どもを追い出そうとします。すると悪霊は出て行きます。私は宣教師生活を始めた時、悪霊によって苦しめられる時がしばしばありました。なかなか眠れず体は衰えて行きました。耳からも黄門からも血が出る時もありました。でも聖書から教えられたとおりに、イエス・キリストの御名によって悪霊どもを追い出すことができました。ほんとうに神様から権威が与えられていると信じているといろんなことができるようになるのです。12弟子も最初から力ある人たちではありませんでした。もちろん、今日は、彼らが世界で20億を超えるクリスチャンだけではなく、一般の人々にも知られた有名人になっています。実際に彼らは力あるわざと不思議と奇跡を行ないました。でも、イエス様に選ばれる当時は、とても平凡な人たちだったのです。2, 4節をご覧ください。「さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」とあります。この12人はほとんどが漁師出身です。学校に行ったことがない田舎者です。ひとりとして立派な経歴や地位がある人は誰もいません。この世の取るに足りない者や見下されている者です。イエス様は、この十二人をイスラエルに遣わしました。「遣わす」とはギリシャ語で「アポステロー, αποστελλω, 」です。「ある特殊な任務を与えて権限を委ねる」という意味があります。国の特殊な任務を与えられ、大統領の権限が委ねられている大使のことです。イエス様は12弟子に汚れた霊どもを制する権威を授けて大使として遣わされたのです。そこで、弟子たちはイエス様から授けられた権威と力を受けとって行きます。彼らは「自分には神様からの力がある」と信じて働くようになります。実際に彼らが遣わされて行くと、ほんとうに偉大な働きができました。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられるようになったのです, かつて、彼らは平凡な人、無学の人たちでした。しかし彼らがイエス様から権威が授けられていることを信じた時、イエス様のような働きができたのです。使徒の働きに記されている通りに、彼らは今日までも続けられている世界宣教の土台を築き上げる歴史の主役として働くことができました。では、イエス様が12人を使徒として遣わされる時に何を教えてくださいましたか。?., 使徒派遣の時に教えられたイエス様の命令(5, 33)5a節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。」とあります。イエス様は12使徒を遣わす時、彼らに命じられたほどに強調して教えてくださったことは何でしょうか。ここで、私たちはイエス・キリストの弟子、伝道者として使命と信仰を学ぶことができます。第一に、近い所から遠くに、継続的に伝道すること, 。5b, 8節をご覧ください。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。, 病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者を清め、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とあります。異邦人はユダヤ人以外の人々をさす言葉です。サマリヤ人と言うのはユダヤ人ですけれども、狭い意味ではユダヤ人とは区別されています。外国までは言えませんが、ほぼ外国に近い扱いをされていました。ですから、イエス様はまず異邦人の所に行くな、サマリヤ人の所にも行くなと言われたわけです。ただ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさいと命じられました。このようにサマリヤ人とイスラエル人を分けることはイエス様の全体的な教えからも、キリスト教精神全体から言っても矛盾しています。どうしてイエス様はこういうことを言われたでしょうか。それは伝道の原則を言ったのではなく、むしろ具体的な伝道方策を示したものだと思います。具体的な伝道対策です。「近きより遠きに及ぼす」という言い方があります。初めから近い所も遠い所も平等に考えるというのは、方法としては具体性を欠きます。近い所から始めて、遠くへ及ぼさなければなりません。そう言うわけでイエス様は使徒たちを派遣する時に、かなり具体的な方策のことを教えてくださったのです。私たちも、まずは自分の身近にいる人々に伝道する方策を持つことは大事だと思います。○○牧者は息子から始め、家族の救いのために祈って来ました。私が知っている限り、誰よりも家族のために熱心に祈っておられますが、それはイエス様が教えてくださる伝道方策なのです。もちろん、私たちは家族だけではなく、近い親戚、友人、日本人、世界の人々に伝道しなければなりません。宣教師たちは全く知らなかった人々を救うために地の果てにまで行きます。ただ、伝道方策としてはまず近くにいる人から伝道するということです。主にキャンパス宣教を使命にしている私たちは近くにある早稲田大学を始め、東京都内のすべての大学、日本の四十七都道府県、アジア47カ国、そして全世界の大学へ出て行くことを望んでいます。私たちが26年前に日本宣教を始めるとき、教会の近くに東京外国語大学がありました。それで、東京外大に行って伝道しましたが、外大出身のマリ・ロペス宣教師がアメリカに遣わされて行きました。私たちが家族を始め、近くにいる人々から伝道して行くうちに福音が世界に広がることを信じます。遣わされた弟子たちが伝道する内容は「神の国」です。まず、「行って、『神の御国が近づいた。』と宣べ伝える」ことです。私たちが神の御国の福音を宣べ伝えると、受け入れず、迫害する人々もいますが、素直に受け入れる人々がいます。神様は私たちに権威を授けてくださったからです。そして福音を心から受け入れさえすれば神様の支配を受けるようになります。神の御国の民になるのです。そうすると、病人が癒され、死人が生き返らされ、ツァラアトに冒された者がきよめられます。従って、イエス様から遣わされた弟子たちは大胆に『神の国が近づいた。』と宣べ伝えなければなりません。しかも、ただで受けたのだから、ただ与える生活をしなければなりません。宣教はイエス様から受けた無償の愛をイエス様のように伝えていくことです。ただで、神の国を宣べ伝え、人々を助けるなら、, その人に必要なものは神様が満たしてくださいます。「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」神様は宣教する人を迎え入れ、仕える人も備えてくださいます。この間、ドイツの国際修養会に参加した時に、宣教師たちとの交わりの中で印象的に残っている言葉があります。アジア人が伝道することを無視し、迫害する人々が多いですが、心の優しい人々もいたということです。アジア人にも優しく、受け入れてくれる良きサマリヤ人のような人々がいるのです。だから、金曜日にアブラハム李宣教師が報告したようにケルンUBFでは主日礼拝に斬新な学生たちが50名も超えるみわざが起こっているでしょう。 ですから、伝道者はどんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまらなければなりません。ここでの「適当な人」は、神の国の福音を受け入れそうな人のことです。その人の家にはいる時には平安を祈るあいさつをしなければなりません。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家にきます。しかし、もしふさわしい家でないなら、その平安は平安を祈る人のところに返ってきます。では迫害をする人たちに対してはどうすればいいでしょうか。16節をご一緒に読んでみましょう。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」この世の人々は狼のようであり、12弟子たちは羊のようであることが分かります。弟子たちは狼の群れの中に投げ込まれた羊のように弱い存在なのです。とても厳しく、絶望的な状況です。私たちも弱くて狼のように強い人々に伝道することはやさしくありません。だからこそ、私たちには「蛇の賢さ、知恵」と「鳩の素直さ」を上手に使い分ける能力が必要です。ではどのようにして蛇の賢さ、鳩の素直さを身につけることができるでしょうか。19、20節をご覧ください。「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」とあります。聖霊が私たちを助けてくださるということです。聖霊によって私たちは知恵を賢明に用いることができます。聖霊に従うことによって鳩のような素直さを保つことができます。聖霊は、私たちに知恵を与えられ、私たちを助け、守ってくださいます。聖霊は狼の群れの中にいる羊のような弱い私たちに知恵と素直さを与えられます。聖霊は私たちが迫害を恐れることなく、宣教を続けることができるようにしてくださるのです。ですから、私たちはどんなに迫害されても宣教を続けることが大切です。先週、金曜日に私たちはアブラハム李宣教師の所感発表の後に長男結婚式のビデオも見ました。ほんとうに祝福されているんだなあと思いましたが、サラ李宣教師の一言が心にちんと伝わって来ました。サラ李宣教師はあまりにも小さい時にお父さんが亡くなられたのでお父さんの存在すら知らずに育ちました。中学生になってからお父さんとお祖父さんが共産党の人によって同じ日に殺されたことが分かりました。どんなに悲しかったでしょうか。暗くて運命的な人生を生きるしかありませんでした。しかし、聖書勉強を通してイエス様に出会い、救われて笑う人に変えられました。ドイツの宣教師になりました。看護師としての働きながらドイツの学生たちに伝道し、弟子養成をすることは決してやさしくありませんでした。多くの方が離れて行きました。でも、困難があっても信仰の中心を守り、宣教を続けたときに、大いに祝福されました。宣教の実が結ばれ、二人の子どもたちも大いに祝福されました。サラ宣教師は神様が信仰の中心を守らせてくださったと言いましたが私たちの宣教活動が継続すると、そのうちに神様の愛を体験し、神様の報いを受けるようになります。第二に、人を恐れず、神様を恐れること, 。24節をご覧ください。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」とあります。このことばは当時のことわざです。意味は、弟子が教師に勝ることは無いというものです。イエス様はこのことばによって、師である私と同じ働きをする者は、私以上の扱いを迫害者から受けることがないと明言されたのです。これを言い替えるなら、弟子たちはその師であるイエス様ほどには憎まれることはない、またイエス様と同じ苦しみを経験することはあっても、それ以上に苦しむことはないということになります。だから、迫害されても迫害する彼らを恐れてはいけません。すべての真理は神様が必ず明らかにされます。私たちがまことに恐れなければならないのは人ではありません。28節をご覧ください。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあります。私たちが神様を恐れると、神様が私たちを守ってくださいます。29, 31節をご覧ください。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」とあります。当時は、雀が最も安く売られている食物でした。神様はその雀の一羽をも守ってくださいます。その神様が、必ず私たちを顧み守ってくださいます。以上を通してイエス様が12弟子たちにお授けになった権威、遣わされる弟子たちに命じられたイエス様の教えを学びました。12弟子たちに授けられた権威はイエス・キリストを信じて救われた私たちにも授けられています。どうか、今日、私たち一人一人がその権威を信じて受け取りましょう。神様がその権威を「使いなさい」と言われるときに、病人を癒し、悪霊どもを追い出すために使いましょう。そのために日々の生活の中で神様から授けられた権威について意識することは大切だと思います。それから、日々主の御前で祈り、御言葉をいただいて信じることです。すると、私たちにその権威が授けられていることを感じ、上からの権威と力を体験することができます。どうか、人を恐れることなく、神様を恐れる人として生きるように祈ります。さらに、私たちの髪の毛さえも数えられている神様の愛と守りを堅く信じて神の御国を宣べ伝える生活ができるように祈ります。

14Matthew05M 私たちのわずらいを身に引き受けられたイエス様

14matthew05m, 私たちのわずらいを身に引き受けられたイエス様, 2014年マタイの福音書第5講私たちのわずらいを身に引き受けられたイエス様御言葉:マタイ8, 17要 節:マタイ8:17「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」先週、私たちは主イエス様のことばを聞いてそれを行なう者について学びました。それと関連してマザーテレサのことばを紹介したいと思います。彼女は「キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害物になっていることがよくあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがよくあるからです。人々がキリスト教を信じようとしない一番の原因はそこにあります。」と言いました。, 『マザーテレサ 愛と祈りのことば』, 。信者である私も最悪の障害物になり得ることが分かりました。先週は日ごとの糧からも、ただ聞くだけの者ではなく、実行する信仰の人にならなければならないことを学びました。今日の御言葉では私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負ってくださるイエス様について学ぶことができます。どうか、私たち一人ひとりがイエス様にタッチされて癒されますように祈ります。さらに、私たちも人々の弱さを担い、癒すことのできるリーダーとして成長して行きますように祈ります。?.イエス様はツァラアトに冒された人をきよくし、癒してくださいました, 。 1、2節をご覧ください。「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来てひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」とあります。ツァラアトとはらい病、ハンセン病とも呼ばれる病気です。当時のユダヤ人社会においては汚れた病気とされていました。町の外に住まなければならなかったし、もし道を歩く場合は、口に手を当てて、「汚れた者、汚れた者」と叫ばなければなりませんでした, レビ13,14章, 。だから、ツァラアトの人が多くの群衆の所にいることはほとんどありませんでした。ところが、この人は多くの群衆の前でイエス様のみもとに来てひれ伏しました。「主よ。お心一つで、自分をきよくしていただけます」とも言いました。ここで積極的にイエス様に求める彼の祈りと信仰を学ぶことができます。彼は多くの群衆の中に隠れていたのではなく、イエス様のみもとに来てひれ伏しました。イエス様を「主」と呼び、「お心一つで、私をきよくしていただけます」と言いました。イエス様への信仰を告白したのです。それに対してイエス様はどうなさいましたか。3aをご覧ください。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。」とあります。イエス様はわざと手を伸ばして彼にさわられました。イエス様は彼にタッチすることを通して彼の病を理解し、その痛み重さを知られたのです。ツァラアトの人はどんなに感動し、心が熱くなっていたでしょうか。イエス様にタッチされ、「私の心だ。きよくなれ。」と言われると、すぐに彼のツァラアトはきよめられました。やはり、イエス様のお心は彼がきよめられることでした。イエス様は汚れている人がきよめられることを願っておられたのです。そうです。イエス様は罪のために汚れている私たちもきよめられることを願っておられます。イエス様は私たちが汚れた罪のために、人々に言い表せない病気であっても、その罪を赦してきよめ、癒してくださいます。新しくなって新しい人生を生きるようにしてくださいます。?コリント5, 17節を見ると「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。私たちがキリストのうちにあるなら、イエス様のお心の通りにきよめられ、すべてが新しくなるのです。このツァラアトの人もきよめられて新しい人生が始まりました。これからは道を歩く時に「私は汚れている者、汚れている者」と叫ばなくてもいいです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなったからです。イエス様は彼に新しく生活の出発も助けてくださいます。4節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」とあります。イエス様は人々へのあかしのために自分を祭司に見せ、供え物をささげることを教えてくださいました。イエス様は彼が正常な社会生活を営むことができるようにガイドしてくださいました。今まで病気のために束縛されていた生活から解放されて自由に生きるように助けてくださいました。夏修養会の時に所感を聞いてみると、人々はなかなか人に言えないような悩み、痛みを持って苦しんでいたことが分かります。しかし、聖書の御言葉を学んで信仰によってイエス様のところに出て行ったなら、イエス様は私たちをタッチし、きよめてくださいました。多くの方たちが自分の罪と咎を真実に告白し、悔い改めてきよめられました。イエス・キリストによってすべてが新しくなりました。では、皆さんがこの教会堂に来て主に礼拝をささげていることは何を意味することでしょうか。それはイエス様のお心を信頼していることでしょう。その信頼を皆さんとともにイエス様に告白しましょう。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエス様は私たちにも言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」イエス様は私たちをきよくしてくださいます。それがイエス様のお心です。イエス様によって私たちの罪が緋のように赤くても雪のように白くなります。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになります, イザヤ1, 。どうか、私たちをきよくしてくださるイエス・キリストによってきよめられて秋にはもう一度新しい出発ができるように祈ります。?.イエス様は百人隊長のしもべを癒してくださいました, 5−13, 6節をご覧ください。「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」」とあります。百人隊長とは言葉の通りに百人を統率する隊長です。ローマの軍団は六千人から成りますが、それは六十の百人隊に分かれていました。この百人隊の隊長はローマ軍に長く勤務する正規兵で、軍隊の規律と団結を保つ責任が与えられていました。それで、百人隊長はローマ軍の中でも最も優秀な人で人格者も多かったそうです。実際に、新約聖書に出て来る百人隊長はみな立派な人物です。十字架上のイエス様を見て「この方はまことに神の子であった」と言った人も百人隊長です。キリスト教に改宗した最初の異邦人コルネリオも百人隊長です。いちはやくパウロをローマの市民として認めて、彼を暴徒の襲撃から守った人も百人隊長でした。この他にも立派な百人隊長たちがました。この百人隊長も素晴らしい方です。特に自分のしもべに対する彼の愛は感動的です。このしもべは奴隷であったと思われます。ローマ帝国では奴隷に何の価値も認めていませんでした。一般的に人々は奴隷が苦しもうと、生きようと、死のうと、そんなことはどうでも良いと思っていました。奴隷を物のように扱い、病気の奴隷は捨てました。しかし、この百人隊長は奴隷の状態をよく把握し、奴隷のためにイエス様のみもとに来て懇願しました。イエス様に対する態度も素晴らしいです。彼は無理やりに要求したのではありません。ひどく苦しんでいる自分のしもべの状態をイエス様に知らせただけです。それほどイエス様を信頼していたのです。彼はイエス様なら、人々からは捨ててもいいと思われている奴隷であっても貴く思い、助けてくださると信じたのです。ほんとうに素晴らしい信仰です。ではこの百人隊長の愛と信仰に対するイエス様のお答えはどうですか。7節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」」とあります。やはり、イエス様は奴隷であっても貴く思ってくださいました。イエス様ご自身が行って、直して上げようとされたのです。ところが、百人隊長はイエス様に何と言いましたか。8, 9節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」ここで、私たちは百人隊長の謙遜とイエス様の御言葉の権威に対する信仰を発見することができます。特に、彼は軍人としてことばの権威についてよく理解していました。私も軍人生活をしましたが、軍隊では上官のことばには絶対的な権威があります。例えば、軍団長がカペナウムの百人隊長に「ローマに行け」と命じられると行きますし、やっとローマに着いたのに「すぐに来い。」と命じられるとすぐに来ます。同様に百人隊長のことばには百人の部方たち動かす権威があります。これらのことを通してこの百人隊長はイエス様には全宇宙の司令官としての権威があると信じました。特にイエス様のお言葉は遠く離れた所でもすべてを動かす権威があることを信じました。ただ、おことばをいただかせてくだされば、自分のしもべが直ると信じていたのです。何と素晴らしい信仰でしょうか。本当にりっぱな信仰です。イエス様も驚かれました。10b, 12節をご覧ください。「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」」とあります。イエス様は異邦人である百人隊長の信仰を賞賛しながら、ユダヤ人の不信仰を指摘されました。彼らは不信仰のゆえに外に追放され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。ここで、信仰があればイエス様を驚かせることもできますが、反対に、不信仰の人は追い出され、さばかれることも学ぶことができます。私たちが生活の中でイエス様の大いなる力の体験ができない理由は不信仰のゆえです。百人隊長のように自分の生活を通してもイエス様の御言葉の権威を信じれば偉大なイエス・キリストの力を体験することができます。聖書に「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう, 詩編81, 」とあります。イエス様は百人隊長の立派な信仰を大きく祝福してくださいます。 13節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」」とあります。ここで、私たちは私たちの信仰のとおりに祝福してくださるイエス様を学ぶことができます。もし、百人隊長が病気のしもべに対してしようがないと思っていたらなら、どうなったでしょうか。しようがなかったでしょう。しかし、百人隊長がしもべを愛し、イエス様の御言葉の権威を信じからこそ、しもべは癒されたのです。それによって空間を超えて働くイエス様の権威も確認することができました。では今は、どうでしょう。今でも、イエス様の御言葉には権威があります。私たちがイエス様の御言葉を信じると、その信仰のとおりに主の力が現われます。病が癒され、不可能なことが可能になります。中風やみで寝ているような状態から目を覚めて積極的に活動する人になります。私たちがこのようないのちのみわざを体験するために必要なのは何でしょうか。多くの知識ではありません。信仰経歴でもありません。百人隊長のように信じる信仰です。御言葉の力と権威を信じるなら、驚くべき主の力を体験することができます。 私は7月からひとりの青年と1, 1聖書勉強しています。彼は韓国系のアメリカ人ですが朝鮮学校の英語先生として働くために日本に来ました。ところがなかなかビザが出ませんでした。8月になって入管に聞いてみると、後1か月、最小限3週間はかかると言われたた。彼はその悩みを私に打ち分けてくれましたが私には法務省に知り合いもいません。ただ、24年前に自分もビザが出なかったために予定していた結婚式も上げることができず恐れていたことを言いました。日ごとの糧の御言葉を通して「恐れないでただ信じていなさい。」という御言葉が与えられたので信仰の祈りをしたら、ビザが出て結婚もしたし、今の自分になっていることも話しました。すると、彼は頷いてくれましたが、その後、彼はビザのために断食祈りをしたそうです。韓国行きの航空券が土曜日だったので金曜日まではビザが出るように切に祈ったのです。ところが、その通りに金曜日にビザが出ました。ハレルヤ!先週韓国から帰って来た彼は電話でちょっと興奮しながら宣教師の助けと祈りのお蔭でビザが出ましたと報告してくれました。信仰の祈りをささげると、その通りになったのです。そうです。私たちが神様の約束の御言葉を信じて祈ると、驚くべき神様の力を体験することができます。ですから、私たちはさまざまな問題に対してまず御言葉を求め、御言葉に頼って祈ることが大切です。どうか、私たちも百人隊長のように「ただ、おことばをいただかせてください。」と祈り求め、御言葉を信じて祈る生活ができるように祈ります。 ?.イエス様はペテロの姑を癒してくださいました(14, 17)14、15節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」とあります。「熱病」とは高熱が出ることを特徴の一つとする病気です。マラリア、チフス、肺炎などがあります。最近、西アフリカで感染が拡大するエボラ出血熱のように治療が難しく、致死率が高い熱病もあります。ところがイエス様が手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエス様をもてなしました。16節を見ると、イエス様はみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになりました。このイエス様にはイザヤが預言した通りにメシヤの姿がありました。結論的に17をご一緒に読んでみましょう。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」とあります。イエス様は実に私たちの病を負ってくださいました。町から隔離されて悲しく、さびしい人生を生きていたツァラアトの人のわずらいを負い、彼の苦しみと痛みを担ってくださいました。イエス様は中風やみで家に寝ていて、ひどく苦しんでいる百人隊長のしもべの病も背負ってくださいました。ペテロの姑の熱病も背負ってくださいました。人のわずらい、病を背負うことは簡単ではありません。私は小学校2年生の夏に一か月ほど足を動かすことができなくなった時があります。その時、私の父は私を背負ってあちこち歩き回りました。私は他の友だちより太っていたので重かったと思われます。父はあの暑い日に小学2年生の男の子を背負って歩き回っていたのです。ほんとうに大変だったでしょう。でも、父が背負ってくださったからこそ、私は楽にトイレも行けたし、治療を受けることもできて癒されました。イエス様は1人だけではなく、全人類のわずらいを身に引き受け、病を背負ってくださいました。その時にどんなに重かったでしょうか。人々のわずらいと病を背負わせた十字架はどんなに重かったでしょうか。イエス様はそれを背負うだけではなく、神様に打たれ、苦しめられました。ついにその十字架にかかられ、十字架の上で御血を流されたのです。実にイザヤの預言の通りです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」とあります。イエス様はご自分の十字架の死によって私たちのわずらいと病も「身に引き受け」、取り去ってくださいました。ですから、イエス様を信じる者は、だれでもすべてのわずらいと病が癒されて健やかに生きることができます。イエス様のお心を信じるなら、イエス様は私たちをきよめてくださいます。私たちがイエス様からおことばをいただくと、私たちの信仰によって自分の家族も、職場の同僚も癒されることができます。もし、家族が遠く離れていても百人隊長のように御言葉の権威を信じるなら、神様はその信仰のとおりに癒してくださいます。私たちのわずらい、私たちの病と痛みを引き受けて十字架にかかって死んでくださったイエス様の愛を心から賛美します。私たちも人に対する愛とイエス様に対する信仰を新たにして行きますように祈ります。イエス様のように人の弱さを担って彼らのために祈る良い牧者として生きることができるように祈ります。

14Genesis27M 神はそれを、良いことのための計らいとなさいました

14genesis27m, 神はそれを、良いことのための計らいとなさいました, 2014年創世記27講                         神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。御言葉:創世記49, 50章要 節:創世記50:20「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」 今日で今年の創世記のメッセージが終わります。来週からはマタイの福音書のメッセージに入ります。創世記の学びを祝福してくださった神様に心から感謝を申し上げます。私は今年の創世記勉強を通して「私たちの神様は「祝福の神様」だなあ」とつくづく感じさせられました。ほんとうに私たちの神様は祝福の神様です。神様が天地万物を創造されたことが祝福であり、人間を創造してから最初になさったことも人間を祝福することでした。1章28節に「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生きものを支配せよ。」」とあります。神様は人間に神様ご自身が創造された万物を治め、支配するように祝福してくださったのです。そして創造を完成してから休まれた第七日目も祝福されました。2章3節に「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それはその日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」とあります。神様は創造のわざを休まれたその時間も祝福されたのです。それから神様はアブラハムを祝福そのものとし、アブラハムの子孫を祝福すると約束されました。その後、今日学ぶ50章まではアブラハムに与えられた神様の約束が実現されていったことです。つまり信仰の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブが祝福され、彼らが祝福したことが記されてあります。今日の本文にも神様がヤコブを通して神の民を代表するイスラエルの12部族を祝福されたことが記されてあります。49章28節を見ると「これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福した時、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。」とあります。結局、イエス・キリストを信じて救われた人々は神の民として祝福されています。それで神様の祝福を享受し、人々を祝福する人生を生きるようになります。私たちクリスチャンは祝福されて祝福する人生を生きるのです。では私たちはどのように祝福され、どのようにして祝福する人生を生きるのでしょうか。ヤコブが預言し、祝福した12人の中でユダとヨセフが受けた祝福を通して神様の祝福を自分のものにして行きたいと思います。ヤコブの長男はルベンです。長男とは基本的に父の力と権威の象徴です。しかし、ルベンは父の妾であり、異母兄弟ダンとナフタリの母との不倫の罪のために長子としての権利を失いました。シメオンとレビは妹ディナが町の人間に辱めを受けたことに怒り、その町の男たちを皆殺しにしましたがその殺害の罪のために、彼らも長子の権利を受け継ぐことはできませんでした。結局、長子の権利はユダに受け継がされるようになります。49章8‐12節をご一緒に読んでみましょう。「ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い」上の3人兄弟とは違って大いに祝福されていることが分かります。ユダはほかの兄弟たちの上に立ち、彼らを治める獅子のようになります。王権はユダ部族から離れず、ダビデとソロモンのもとで最も強力になります。ほかの部族を支配し、指導するようになって行くのです。「ついにはシロが来て」とありますが、それは、王なるメシヤであるイエスキリストが来て、国々の民すなわち全世界の民をイエス御自身が支配されるということを現しています。, エペソ1, 21節に「“神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせて、天上においてご自分の右の座に着かせて、, すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりではなく、次の来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」とあります。, なぜ、ユダがこのように褒め称えられたでしょうか。それはユダに罪の告白と悔い改めがあったからだと思われます。この間学んだように37章を読んでみると、ユダは知らなかったとしても、遊女に変装した嫁のタマルと性的交わりを持ってしまいました。それは嫁のタマルが嘘をついた罪に原因がありました。しかし、ユダはタマルによって自分の罪が暴露された時、正直に自分の罪を認めました。このように、自分の犯した罪を認めることは、私たち人間にとって、最も難しいことの一つです。私も何か自分の過ちや罪が指摘されると言い訳が先に浮かんできます。実は私たちの先祖アダムとエバから自分の罪を認めないで妻のせいにし、蛇のせいにしていました。そのように、私たちはなかなか自分の罪を認めることができないのです。それで、ますます罪を深めて行きます。ところがユダは罪を認めました。そして悔い改めました。その後のユダは、体を張ってヨセフと向き合いつつ、ヨセフの前でかつての自分たちの罪を告白しました。ヨセフは後に、自分の銀の杯を弟ベニヤミンが盗んだような仕掛けをし、うなだれて自分の所に帰って来た兄たちに向かってこう言いました。「あなたがたのしたこのしわざは、何だ。私のような者はまじないをするということを知らなかったのか。」それに対してユダが答えて言いました。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」ユダはヨセフに対する罪は神様に対する罪であることを、はっきり認識していました。神様がその罪を暴露されたことを知り、その罪を認め、悔い改めているのです。 さらに彼は、ベニヤミンだけをエジプトに置いて行くように迫るヨセフに向って言いました。「もしもベニヤミンをヤコブのもとに連れ返らない時は、ヤコブに対して「生涯その罪を背負い続ける」と約束したことを言い、自分だけを奴隷として、ベニヤミンを父の許に返してくれるように懇願したのです。このように、ユダは、罪を犯したけれど、その罪を認め、悔い改め、その償いのために身を投じる人に変わっていました。そして、ヤコブはそのユダこそ、兄弟たちにたたえられるべき存在であることを告げて祝福しました。 結局、長子の祝福はユダに及んだのです。ユダの子孫からダビデが生まれ、イエス・キリストはダビデの子孫からお生まれになりました。ユダの次に大きな祝福を受ける者はヨセフです。22‐26節をご覧ください。「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。」ヨセフへの祝福は、ユダへのものとともに最高です。よく見ると、ユダには救い主による王国と福音の祝福がありますが、ヨセフには実質的な祝福があることが分かります。このヨセフへの祝福は四つに分けることができます。一つ目は良い実を結ぶ若枝になることです。二つ目は敵に攻められ、悩まされても負けないことです。三番目は全能者の手、神様の力による助けです。そして四つ目は天の祝福、地の祝福が豊かに下ることです。これらのことをまとめているなら神様の御手から与えられる力による祝福であると言えるでしょう。神様の祝福によって私たちに必要な力が与えられるのです。24節はご一緒に読んでみましょう。「しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。」預言者イザヤは「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。, 30、31, 」と言いました。人間は、弱い者です。ちょっとした暑さにも負けます。私たちがエアコンをつけているのもこの夏の暑さに負けているからでしょう。若者も疲れ、たゆみます。年取ると働き続けることが不可能になる時もやって来ます。最初は溌剌としていても、すぐに気力も体力も尽きてしまってたるむのです。人間は口で言うほどに、強くもなく、力もありません。ところが、全能者の神様の御手によると私たちの弓はたるむことなく、私たちの腕はすばやくなります。つまり、人は神様の祝福を受ければ、走ってもたゆまず、歩いても疲れないような力をいただくのです。不思議な力です。その力はヤコブ自身が体験したものでした。ヤコブは人間の力がどんなに愚かで、弱いものであるかを、いやと言うほど知っていました。彼は何度もそれを失敗したものです。そして、いま、ヤコブは自分の力ではない力、神様の力の素晴らしさ、その衰えることのない力を知ったのです。だからこそ、彼は神様の祝福によって与えられることを信じてヨセフを祝福しているのです。そして、このヤコブの祝福を受けたヨセフは本当に素晴らしい信仰の人生を生きることができました。その信仰と成熟さが50章19節から21節にあります。19〜20節をご一緒に読んでみましょう。「ヨセフは彼に言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。」ほんとうに素晴らしいヨセフの言葉です。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。」この御言葉でどんなに多くの人の心の目が開かれたことでしょうか。見えない神様が見えるようになったことでしょう。ヨセフの兄弟たちは、父ヤコブが死ぬと、再びヨセフを恐れるようになりました。その理由は、彼らは、ヨセフの赦しと愛の心を理解していなかったからです。今まで彼らが受け入れられたのは父ヤコブを悲しませたくないヨセフの寛容であったけれども、父がいなくなった今は、きっとヨセフが仕返しするだろうと思ったのです。彼らはヨセフの赦しと愛を信じることができなかったのです。信じられないことは何と悲しいことでしょうか。ヨセフは兄弟たちが自分を信用していない話を聞くと、泣きました。彼らの心の態度があまりにもあさましいために、情けなくなったのでしょう。そこで、ヨセフは「もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」と彼らを慰め、やさしく語りかけています。ほんとうに素晴らしいヨセフの愛に感動せざるを得ません。ヨセフの心の底からの愛と思いやりに深く胸を打たれます。同時に、ヨセフの兄たちのような私たちに対するイエス・キリストの愛も思い浮かびます。時々、私たちもイエス様に対してヨセフの兄弟たちと同じような不信を持っているのではないでしょうか。安心できない不安と恐れがあるのです。確かに、イエス様は私たちの信仰を見て「友よ。あなたの罪は赦されました, ルカ5, 」と言ってくださいました。イエス様は多くの苦しみを受け、嘲られてから十字架にかかって死なれる直前に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と祈ってくださいました。イエス様は私たちが自分で分からない罪までも赦してくださったのです。そうしてすべての救いのみわざを完了なさいました。それなのに私たちはその御言葉を信じないで自分の罪のために苦しみ、恐れるのです。何かうまくいかないと自分の罪のせいだと自虐する時さえあります。しかし、イエス・キリストの十字架の死による贖いを信じる者はすべての罪が赦されました。私たちは神様に対して数々の悪を計画し、罪を犯して来ました。しかし神様はそれらを受けとめて、イエス・キリストの十字架によって恵みに変えてくださったのです。神様は私たちが悪を計ったとしてもそれを良いことのための計らいとしてくださったのです。ですから、もし私たちが罪の赦しを信じないで神様のさばきを恐れるなら、イエス様はどう思われるでしょうか。ヨセフが涙を流したように、イエス様も御心を痛めながら泣かれるでしょう。一般的に、苦しみと滅亡の原因は自分の罪や悪にあります。ヨセフの兄たちの心から不安と恐れが消え去らない原因はヨセフを虐め、売ってしまったことにあったでしょう。兄たちだけではなく、多くの人々が苦しみ、恐れている原因は自分の過ちと罪にある場合が多いでしょう。ところが、イエス・キリストは私たちの罪と悪の代価を払うために十字架にかかって死んでくださいました。すべての罪と咎を贖ってくださったのです。それで私たちがイエス・キリストの十字架による赦しを信じるなら、神様はその罪を赦し、きよめてくださいます。主は「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と言われました。私たちがどんなに酷い罪を犯したとしてもその罪を主の御前に告白し、悔い改めるなら、主はすべての罪を赦して下さいます。そして恵みに変えてくださいます。過去の失敗や罪を良いことに変えてくださるのです。そして、私たちも自分に対して悪を計らう者が現われた時に、その人を赦して愛することができるようにしてくださいます。ですから、恐れることなく、イエス・キリストの十字架による贖いを信じて神様の祝福を受け取って行くのです。ヨセフの兄たちがヨセフを通してすべての問題が解決され、ほんとうに祝福されたに、私たちも祝福されることを信じて行くのです。さらに、私たち自身もヨセフのように人々を赦して愛し、祝福する人に変えられて行くことも信じるのです。ではこの神様の祝福はどのようにして私たちの心の中に、体の中に注ぎ込まれるのでしょうか。それは第一に聖書の言葉を信じることです。神様の祝福は御言葉をパイプとして私たちの心の中に流れ込んで来ます。そして私たちがその御言葉を自分自身のものとして堅く信じる時に、神様の祝福は恵みとなり、力となります。御言葉を通して注がれる神様の祝福が私の人生においていつくしみとなり、平安となり、慰めとなります。第二に、すべてのことにおいて神様中心に考え、口からも神様を認めることです。ヨセフの言葉を調べてみると神様から初めて神様で終わります。彼は口を開くと神様を言いました。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。, 」「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。, 」「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです, 」。ヨセフが登場する創世記37章から50章までにヨセフは22回も「神」という言葉を使って告白しています。このように彼は何事も神様中心に考え、神様と関連させて話していました。彼はすべてのことにおいて神様の力と権威を認めて従い、その働きを告白して証していたのです。このように私たちが神様の御言葉を信じて神様中心に生きるなら神様から祝福された人生を生きるようになるのです。その人は悲劇の人生であっても喜劇の人生に変わって行きます。絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、失敗から成功へ変えられて行く人生を生きるようになるのです。そうして、どんな人でも赦し、愛する人生へ変えられて行きます。アブラハムも、イサクも、ヤコブも神様から与えられた御言葉を受け入れ、信じることによって祝福された人生を生きることができました。ある人が、「人生は短期的に見れば悲劇だが、長期的に見れば喜劇だ」と言ったそうです。悲しみに打ちひしがれて涙で枕を濡らす日々が続くこともあります。しかし、祝福の神様を信じ、望みを持って生きていれば、最後には喜びに満たされることになるのです。どうか、私たちがアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフのように神様の御言葉を堅く信じて従い、何事も神様を中心に考え、神様を明かして行きますように祈ります。

14Matthew12M 心から兄弟を赦しなさい

14matthew12m, 心から兄弟を赦しなさい, 2014年マタイの福音書12講 心から兄弟を赦しなさい御言葉:マタイの福音書18:15―35要 節:マタイの福音書18:35「, あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」先週、月曜日に、私はある夫婦の赦しに関するニュースを読んで感動しました。19日にabc放送などのアメリカのメディアが報道した内容が紹介されていました。この夫婦はドナルド・ロレントの両親ですが、殺されたロレントは殺人者になったクリストファー・バザ, の友達でした。2011年12月、ロレントとバザはルームメイトとして酒を飲み、タバコも吸っていました。その時に、銃器事故でロレントが打たれて死亡しました。故意的ではありませんでした。しかし、息子を失った親の悲しみはどんなに大きかったでしょうか。一生癒されない悲しみと痛みがあったはずです。ところが、ロレントの両親はそれを乗り越えて赦したのです。バザが逮捕された後に面会を続けられ、彼が釈放されるように努力を続けました。彼らの献身と愛に感動した裁判官は、ついに仮釈放の寛大な措置を下してくださいました。バザは釈放されるようになりました。ロレントのお父さんが経営する会社で働くことにもなりました。この赦しの愛がアメリカ全地域に伝えられて人々は感動し、感激したのです。赦しによってひとりの青年が新しい人生を始めるようになりました。一生悲しみと恨みを持って生きるしかなかったロレントのご両親も新しい人生を生きるようになりました。今日はイエス様のたとえ話を通して赦しについて学びます。イエス様は私たちが兄弟を最後まで赦し続けなければならないということを教えておられます。ところが、イエス様は真理と恵みに満ちた方です。では、イエス様の真理と正義はどうなるでしょうか。そこで、イエス様はまず正義の厳しさから教えてくださいます。 15, 17節をご覧ください。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」とあります。ここで、イエス様は、兄弟が罪を犯した場合にどのように助けるべきかを教えています。 第一段階は個人的に助けることです。私たちの社会生活の中で「ああこの人は明らかに罪を犯した。社会的に罪を犯した」と思われる時があります。すると、親しい関係の人の罪を隠してあげ、人間関係が良くなかった人の罪は暴露しようとします。しかし、まだ、確認されていない場合もあるし、前後の事情をよく知らない状況があるかも知れません。ですから、まず、第一段階として、ひとりでその人のところに行ってその人の罪を責めることが必要です。それで、もしその人がそこで悔い改めたら、その人の名誉を守り、ふたりの信頼関係も深まって行くことでしょう。しかし、もし罪を認めず、社会的に悔い改めるということをしないならどうしますか。 第二段階は二、三人の友達と一緒に助けることです。イエス様は「二、三人友達を連れて行きなさい。」と言われています。どういう友達かと言えば、言うまでもなく、人生の円熟した人、信仰のベテランを連れて行くことです。そうして、三人か、四人でその罪を確認します。そうして、もしその人が自分の罪を認めて、そこで悔い改めたら、彼の名誉を守ることができます。しかし、もしそこでも、悔い改めず、罪を認めないならばどうしますか。 第三段階は教会に告げることです。教会の役員会、あるいは教会の総会に兄弟の罪の問題を持って行くのです。この時も、処罰のためより、罪を犯した兄弟が自分の罪を認めて悔い改めるように助けるためです。しかし、それでも罪を認めて、悔い改めないなら、どうしますか。その時は、彼を異邦人か取税人のように扱うことです。三段階を踏んで祈りと愛を持って訴えても、なお聞き入れないなら、教会の外にいる者として扱いなさいということです。それは大変つらい、お互いの中に傷を残すことになるでしょう。でも、教会に神様の真理と正義がなければなりません。教会はどんな罪を犯してもいい所ではありません。イエス・キリストの十字架の愛によって罪を悔い改めて霊的に成長して行かなければなりません。この世の光として神様の真理と正義を知らせる役割も果たすことは大切です。聖なる国民、王である祭司として生きるために、人としてできることは最善を尽くすのです。そうして正義の上に立つ教会でなければなりません。でも、教会の言うことさえ聞いてくれないならからと言ってその人を助けることをあきらめるべきではありません。人にはできないことでも神様にはできるからです。教会の話を聞いてくれない人であってもその人のために神様の助けを求める必要があります。そこで、イエス様は神様から助けられるために祈りについて教えてくださいます。18‐20節をご一緒に読んでみましょう。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」イエス様は異邦人の扱いを受けるようになった兄弟でも悔い改めることができるように心を一つにして祈ることを教えておられます。「つないでいる」ということは祈りをやめないでいることでしょう。私たちが祈りをやめない限り、父なる神様の関係がつながっていて、時になると、その祈りをかなえられるのです。私たちが祈り続ける時、神様が助けてくださいます。どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる神様がそれをかなえてくださいます。私たちubf教会ではよく二人ずつ祈ります。それは、このイエス様の教えに基づいていることでしょう。もちろん、1人で静かにささげる祈りにも神様は御耳を傾けてくださいます。ふたりが心を一つにして祈るなら、なおさらでしょう。ふたりが心を合わせて祈るその祈りには力があります。私たち夫婦は長男サムエルが生れる前はふたりで心を一つにしてよく祈りました。神様はその祈りに答えてくださって結婚3年後にサムエルが生れるようにしてくださいました。この御言葉を準備しながら最近はふたりで祈ることを怠けていることに気づかされました。悔い改めて今週からふたりで祈る時間を増やしていきたいと思っています。旧約時代のサムエルはイスラエルを代表する預言者、霊的リーダーでした。それでも、民はサムエルに王を求めました。リーダーがいるのにリーダーを求めたのです。そこで、サムエルが「それは良くない」と説得しても、民は聞いてくれませんでした。ところが、サムエルはそんな民たちのために、とりなしの祈りを続けました。聖書に「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」とあります。サムエルは民を心から赦し、彼らのために祈り続けたのです。すると、サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいました, ?サムエル7, 。神様はイスラエルを敵から守り、彼らに平和を与えてくださったのです。ところが、私たちが人のために祈ろうとしても、赦せない心があると祈り続けることは無理です。答えられる祈りの第一条件は心から赦すことではないかと思います。そこで、イエス様は私たちに「心から兄弟を赦しなさい」と言うメッセージを与えておられます。 21, 22節をご覧ください。「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」とあります。 当時、パリサイ人たちは、罪を赦す制度を設けて三度までは赦したそうです。日本では「仏の顔も三度」と言われます。野球でも、打者はストライクを3回宣告されると三振になり、アウトになります。ペテロが「三度」ではなく「七度まででしょうか。」と言ったのは、当時のパリサイ人たちよりも寛容な人になっていることを示唆してくれます。周りからは「七度も、ダメよ〜。ダメダメ」と言われたかも知れません。ところが、イエス様は七度くらいではなく、兄弟が罪を犯した場合、七度を七十倍するまでも赦すように教えられました。ここで、人々はさらに驚いたことでしょう。「ダメよ〜ダメダメ。それは無理ですよ。無理!」と言ったではないでしょうか。ではどうやって七度を七十倍するまでも赦すことができるでしょうか。そこで、イエス様は赦しのたとえ話をされました。23〜24節をご覧ください。「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。」とあります。聖書の欄外の注に「1タラントは6, 000デナリに相当する」とあります。また、28節の欄外の注に「一デナリが当時の一日分の労賃に相当する」とあります。今の日本で一日分の労賃を1万円にして計算すると、1タラントが6000万円、1万タラントは6, 000億円になります。一人の労働者が365日の中で休日を除いて300日間働くとするなら、6, 000億円は、一人の人間が20万年間働いて稼ぐお金です。皆は「すごいなあ」と思ったでしょう。「一万タラントも借金する人はあり得ない。」と思ったでしょう。ところが、実際に、清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが王のところに連れて来られました。しかし、彼の事情はどうでしたか。25‐27節をご覧ください。彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部を売って返済するように命じました。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言いました。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやりました。主人はしもべを赦し、彼が一生涯働いても稼げない借金を免除してくれたのです。ところが、このしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で彼から百デナリ、つまり百万円の借りがある者に出会いました。100デナリは彼が免除してもらった金額に比べれば60万分の1に過ぎません。つまり、60万円を赦してもらったばかりのしもべが、ただ1円貸している仲間に出会いました。ところが、彼はその人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ」と言いました。彼の仲間は、ひれ伏して「もう少し待ってくれ、そうしたら返すから。」と言って頼みました。しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。彼の仲間たちが見ると、それは酷いことでした。黙っていられませんでした。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話しました。主人の反応がどうですか。32‐34節をご覧ください。そこで主人は彼を呼びつけて言いました。「悪いやつだ。お前があんなに、頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったようにお前も仲間をあわれんでやるべきではないか。」と。こうして主人は怒って、借金を全部返済するまで、つまり、未来永久に、彼を牢屋にたたき込みました。それから、イエス様は言われます。結論的に35節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」 このイエス様のたとえ話から私たちに与えられるメッセージは何でしょうか。タラントをデナリにするといくらになるか、タラントを円に両替するといくらになるかと言う数学的な問題でもありません。イエス様は私たちに「あなたがたもそれぞれ心から兄弟を赦しなさい。」と言うことです。自分がどれだけ赦されたのか、一生涯働いても返せない赦しを無条件で受けたことを覚えて兄弟を赦しなさいというメッセージなのです。私たちクリスチャンは神様から返すことのできない赦しを受けています。聖書に「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます, ローマ5, 7‐8, 。キリストが死んでくださったことによって返すことのできない私たちの罪は赦されたのです。キリストはアダムの原罪が始まって今まで犯して来た私のすべての罪、これからもあり得るすべての罪のために死んでくださったことにより私たちを赦してくださったのです。しかも、無条件で一方的な恵みによって私たちを赦して下さいました。この無尽蔵の赦しを覚えると、どんな人でも赦せるようになります。事実、人の悪や罪を赦すことは難しいです。私自身も赦せなくて眠れぬ夜を過ごす時もしばしばありました。でも、イエス・キリストの十字架の赦しを経験している恵みのゆえに赦すことができた時に私には大きな益になりました。それは心理学に証明されています。「赦しの技術, forgive, 」という本によると「赦しは、精神的、肉体的な万病の治療薬だ。」と言っています。赦しはうつ病、不安、慢性的な憎しみ、高血圧、心臓病、ガン、そして免疫欠乏症に至るあらゆる病を癒す治療剤である」とあります。また、著者は「私たちが受けた傷に対しては責任がありませんが傷から回復することは自分の次第である」とも言っています。ほんとうに、そうだと思います。私たちが赦さないでいると、敵対心、憎しみ、不安などによって苦しみ、心も体も傷つけられて行きます。しかし、赦すと、心に平安があり、人に対しても自信感を持つようになります。何よりも、私たちがイエス・キリストの赦しを覚えて人を赦すなら神様からの報いと祝福があります。ヨセフは兄弟に奴隷として売られて、本当に大変な苦しみを経験しました。彼の人生に苦難が続きました。でも、彼は兄弟たちに対して憎しみも恨みも持ちませんでした。十数年の時を経た後、彼はエジプトの宰相となりました。ところが、それを知らずに穀物を買いにエジプトにやってきた兄弟たちにヨセフは言いました。「あなた方は私に悪を企んだが、主はこれを善に変えられた」と言ったのです(創世記50:20)。人がした悪を赦す時、その悪が主の御手のうちに祝福に変えられたのです。ここで、注意して置くことの一つは兄弟が罪を悔い改めている場合に赦したことです。この借金があったしもべたちは前の人も、後の人もひれ伏して赦しを求めました, 。私たちが人の罪に対しては赦しますが、自分の罪に対しては謙遜にひれ伏して赦しを求める姿勢が必要だということです。自分の過ちや罪に対しては「ごめんなさい。」と謝る態度が必要なのです。自分の罪に気づかされたら、素直に「ごめんなさい。悪かったです。申し訳ありません。」と言う悔い改めの心も大切です。多くの場合に家でも、職場でも「ごめんなさい。」と言えば赦されます。ところが、年をとればとるほど難しくなる言葉が「ごめんなさい。」だと言われます。実力がつけばつくほど、プロの世界に入れば入るほど、肝腎な時に言えなくなるなって来るのが「ごめんなさい。」です。しかし、あいさつと「ごめんなさい。」は早く言った方が勝ちだということは事実です。私が教会でも職場でも観察してみると生まれつき、なかなか「ごめんなさい」と言えないタイプの人は非常に損をします。「ごめんなさいの一言がない、悔い改めがない、謝罪がない。」と言うことで、問題が大きくなっていくケースを何度も見ました。しかし、すぐに「ごめんなさい」というタイプの人は人間関係ではものすごく得をします。問題があっても、早くごめんなさいと言うと、赦してもらい、かばってもらいます。ですから、私たちは自分の過ちや罪に対しては早く悔い改めて「ごめんなさい。」と言える人にならなければならないと思います。私たちクリスチャンはイエス様の十字架の愛によって赦されていますが、人にも赦される経験を通してさらに、人々を赦すことができるようになります。どうか、自分のことでは早く謝り、人のことに対して七度も赦し、七度の七十倍も赦すことができるクリスチャンとして成長して行きますように祈ります。私たちが赦されると、赦すこともできるようになります。神様からの祝福も受けます。神様は私たちが、自分の罪を認めて悔い改め、謝る時も、人を赦すときに神様はその心を見ていてくださるからです。時になると、私たちもヨセフのように自分が赦した分の悪や罪が祝福に変えられるのを見ることができます。どうか、この事実を覚えて兄弟が罪を犯したとしても心から赦しましょう。自分の息子を殺した人さえも赦して愛するロレントの両親のように、私たちも赦すことができるように祈ります。さらに、自分の過ちや罪に対してはすぐに悔い改めて神様にも、人にも赦される生活ができるように祈ります。

14Matthew11M 生ける神の御子キリスト

14matthew11m, 生ける神の御子キリスト, 2014年マタイの福音書11講, 生ける神の御子キリスト御言葉:マタイの福音書16:13―28要 節:マタイの福音書16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」先週、弟子修養会を通して私たちのうちに御言葉が早く広がり、またあがめられるように導いてくださった神様に心から感謝します。私たちの教会に○○牧者、○○牧者が立てられ、新しい出発ができたことも感謝します。今日は、ペテロの信仰告白を通してイエス様はどんな方なのか、イエス様について行きたいと思う者が持つべき姿勢は何かについて学びたいと思います。この学びを通して私たちもイエス様がどんな方を知って信仰告白ができるように祈ります。またイエス様について行く弟子としての姿勢を新たにすることができるように祈ります。?.ペテロの信仰告白, 13−20, 13節をご覧ください。「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」」とあります。ピリポ・カイザリヤにはローマ皇帝カイザルの銅像が置かれていたそうです。人々はその銅像の前を通る時に「カイザルこそ生ける神の子キリストだ」と告白していました。そのようなところで、イエス様は、弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」と尋ねられました。すると、彼らは「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えました。ユダヤ人にとってバプテスマのヨハネも、エリヤも、エレミヤもとっても偉い人たちです。彼らはイエス様を実に偉大な方として思っていたようです。日本社会の中にも広く見られる考え方です。人々は偉大な宗教者のひとりがイエス・キリストだと思っています。日本で急激に広がっている「幸福の科学」という新興宗教も全く同じ考え方をしています。神によって遣わされた人の一人がイエス・キリストで、他にもギリシャ神話の神々や釈迦や日本の偉大な僧侶なども同列だと考えています。しかし、弟子たちはどう思っていたでしょうか。イエス様は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられました。弟子たち自身の主体的・個人的な見解を問われたのです。では、イエス様の質問に対するペテロの答えはどうでしたか。16節もご一緒に読んでみましょう。「シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」ペテロの答えは百点満点です。ペテロは「ローマ皇帝カイザルが生ける神の子ではありません。イエス様!あなたこそ、生ける神の御子キリストです」という告白をしたのです。キリストとは、「油そそがれた者」という意味です。ユダヤでは油注がれた者が王であり、預言者であり、祭司なのです。だから、ペテロは当時のローマ皇帝がキリストではなく、イエス様が皇帝の上に立つ王の王、主の主であるキリストであると告白しました。さらに、霊的にもイエス様こそ真の預言者、大祭司であると告白したのです。ローマ皇帝の銅像がある地域でそれは非常に危険な告白でもありました。ローマ当局に知らされると処刑されるようなことでした。ところが、ペテロは大胆にも真実な信仰告白をしたのです。イエス様は大変喜ばれました。17節をご覧ください。「するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」とあります。「バルヨナ」というのは「ヨナの子」と言う意味です。それは罪深い人間の子どもに過ぎないヨナの子であることを教えてくれます。そんな彼が百点満点の答えをしたことは神様の働きによるものです。神様はすでに人類の救いのために働いておられました。私たちを罪と永遠の滅亡から救うために「生ける神の御子イエス・キリスト」をこの地に遣わしてくださいました。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質を持って現われ、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました, ピリピ2, 。ですから、イエス様こそ、生ける神の御子キリストです。ところが、父なる神様はペテロの心に働きかけてイエス様が生ける神の御子・キリストであることを示してくださいました。イエス様がだれであるか、生ける神の御子キリストであるという真理、最も大切な事実をお示しになったのです。だからこそ、恵みであり、幸いなことなのです。自分の知恵や努力によるのではなく、神様が明らかに示してくださったからです。では、皆さんはイエス様をどんな方だと思っていますか。恐縮ですが、私がイエス様の代わりに質問しますので答えてください。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」…「あなたは生ける神の御子キリストです。」。ありがとうございます。これは人間の研究や経験や思索などを通してできるものではありません。聖書勉強や祈りの生活を通して神様が親しく示してくださったからできたことです。そう言う意味で私たちもほんとうに幸いな者です。イエス様はペテロのキリスト告白を非常に喜ばれ、「ペテロ」という岩の上に教会を建てるということまで約束してくださいました。その通りに、ペテロの信仰告白の上に教会を建てられるようになりました。パウロはローマ人への手紙の中で「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死人の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」と述べています。私たちは「イエスは主である」「イエスはキリストです」という信仰告白によって救われた人たちの集まりが教会です。そしてイエス様は、「わ, は、この岩の上にわ, の教会を建てます。」と言われました。教会は私たちが建てるのではなく、キリストが建ててくださるということです。イエス・キリストが集めた集会が教会であり、キリストによって運営されるのです。そしてイエス様は、「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。それは教会に地獄のような暗闇の勢力に打ち勝つ大きな力を授けられているということです。実際にキリストの十字架の死と復活によって、暗闇の力に決定的なダメージが与えられました。コロサイ人への手紙第2章には、「神は、十字架において、すべての支配の権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(15節)」とあります。したがって、キリストの教会は霊の戦いにおいて圧倒的な勝利者になります。天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられるキリストが教会を用いて働かれるからです。教会はキリストの権威を持っているだけでなく、その権威を行使することができます。ではどのようにして私たちはその権威を用いることができるでしょうか。19節をご覧ください。「わたしはあなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」とあります。イエス様は信仰告白をしたペテロに天の御国のカギをあげると約束してくださいました。そして、「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と約束してくださいました。つまり、天をつなぎ、天を開くような、とてつもない天の御国のカギがペテロに与えられたのです。自動車のカギでも家のカギでも大切です。李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師がいらっしゃらない時にカギを会社に置いて来て困ったことを話してくださいました。ヨシュア宣教師の家の門を開くとどれだけの宝物があるかは知りませんがカギがなければ入ることができません。ところがペテロに与えられるカギは天の御国の門を開くカギです。そして、そのカギはイエス・キリストを信じて信仰告白したクリスチャンの祈りです。ペテロの祈りも、私たちクリスチャンの祈りも天の御国に繋がっているのです。それで、私たちが祈ると、すべての権威を持っておられる主がその祈りに答えてくださいます。ですから、私たちは祈りによって暗闇の勢力に打ち勝つことができます。祈りによって天の窓が開かれてあふれるばかりの祝福が注がれる恵みをいただくことができます。私たちが祈ると、権威あるサタンも、イエス様に従うしかありません。私は弟子修養会の前にテサロニケの手紙を学びながらサタンの働きに気づかされたので一週間の特別祈りを提案しました。それで、私たちは毎晩弟子修養会のために毎日祈り会を開いて祈りました。神様は私たちの祈りに答えてサタンの妨害を退け、本当に素晴らしい弟子修養会を行なわせてくださいました。ですから、ペテロに天の御国のカギが与えられることはものすごく、大きな恵みです。ローマ帝国の皇帝よりも力ある働きができます。今まで、数々の奇跡を体験して来た弟子たちはイエス様がキリストであることを確認し、天の御国のカギももらえるということで思い上がったかも知れません。多くの人々に威張って伝えたかったでしょう。しかし、そのとき、イエス様は、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められました。このようにされた理由はイエス様が弟子たちを保護するためであり、弟子たちに十字架と復活による救いのみわざを教えるためでした。つまり、イエス様がキリストであることは間違いありませんが、十字架と復活による霊的な救い主、キリストであったからです。人々は誤った期待で、イエス様を王にしようとしましたが、イエス様はそのような目的で来られたのではなかったのです。そこで、イエス様は弟子たちに十字架の道を教えてくださいます。?.イエス様について行きたいと思う者が持つべき姿勢(21−28) 21節をご覧ください。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とあります。イエス様はご自分がキリストであることを確認された上で、十字架と復活のみわざを彼らに話されました。するとペテロは、「先生、とんでもございません。先生ともあろうお方にそんなことが起こってたまるものですか!」(リビングバイブル)と言ってイエス様をつかんで、いさめ始めました。彼は生ける神の御子キリストが殺されるはずがないと思ったことでしょう。もしそうなら自分の信仰告白の土台が崩れてしまいます。だから、彼は主への忠誠心からそんなはずが、そうしてはいけないと思い、イエス様の十字架の道を認めようとしなかったのです。ところが、主に対する忠誠心から出たはずのペテロ対してイエス様は何と言われましたか。23節をご覧ください。「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とあります。ペテロは今さっき、天の父からの啓示を受けたのに、今はサタンの声を聞いてしまいました。私たちにもこのことが起こり得ます。修養会を通して、恵みを受けると、キリストのためなら何でもすると決心します。ところが、世の中で生活しているうちに、サタンの声も聞いてしまうのです。ですから誰かが素晴らしいことを主から示されたからといって、その人がいつも神様からの声を聞いているとは限りません。私たちは楽な道、快楽の道に誘う声に気をつけなければなりません。キリストの道は十字架の十字架です。この十字架の道は、イエス様に従う者が歩むべき道です。それは、自分を捨てる道であり、自分の十字架を負って行く道です。24節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」皆さん、イエス様について行きたいと思いますか。そう思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエス様について行ってください。ところが、それはやさしくないでしょう。それは自分を捨てる道ですから、世の価値観から見れば損をすることも多いでしょう。ここに書かれてあるとおり、文字通り自分のいのちを捨てて殉教する人もいます。しかし、殉教したからすべてが終わるのではありません。26節をご覧ください。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とあります。もし、死なないで、すなわち殉教しないで全世界を手に入れても、まことのいのちである永遠のいのちを損じたら、何の得がありましょうといことです。キリストについて行かなければ、たとえ全世界を手に入れるような人が現れても、死んだら地獄に行ってしまいます。しかし、イエス様について行くならどうなりますか。27、28節をご覧ください。イエス様は父なる神様の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしておられます。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。その時に、私たちは私たちが自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行くために経験した苦しみには比べられないほどの栄光を受けるようになります。輝かしい栄光の冠が私たちを待っているのです。ですから、私たちは今日も、明日も自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行きます。もちろん、殉教しなくても、自分を捨てること、自分の十字架を負うことは決してやさしくありません。それは大変難しいことです。私たちには自我がありますし、もっと休みたい、もっと寝たい、もっと楽に生きたいという本性があります。私にもあります。私は毎朝もっと寝たい、もう少し寝たいという自分を捨てることが難しくてなかなか思った通りに起きられません。ほんとうに、毎日の夜明けに教会に来て祈ることは優しくありません。私には仕事以外に毎週のメッセージを伝える自分の十字架があります。月曜日から土曜日まで職場生活をしながら毎週メッセージを準備するこの十字架も決して軽くありません。しかし、自分を捨て、自分の十字架を負わなかったら今の自分はなかったはずです。本当に、今の自分の自分に感謝し、喜んでいることができるのは少しでも自分を捨て、自分の十字架を負う生活ができたからです。何よりも私にイエス様が生ける神の御子キリストであることをお示しになり、信仰告白できるように働いてくださった神様がいつもともにいて助けてくださったからです。だから、自分を捨て、自分の十字架を負う時は自分を損するかのように思ったけれども、そうではありませんでした。実はいのちを得、豊かに得ることができました。何よりも、自分の十字架による今のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと考えたパウロのように、自分にも報いがあることを信じます。 結論的に、イエス様はキリストであると告白をした私たちが目指すべき内容であると思われる聖フランシスコの詩の一部を紹介します。「慰められるよりも慰めることを理解されるよりも理解することを愛されるよりも愛することを望ませてください。私たちは与えることによって与えられすすんで許すことによって許され人のために死ぬことによって永遠に生きることができるからです。」このようにして「小さな死を経験し、自分の十字架を負う」生活ができるように祈ります。それこそ復活の栄光に至る道です。必ず栄光ある神様の報いがあります。この世でも自分を捨て、自分の十字架を負っていく人には神様の報いによる勝利と祝福を体験することができます。どうか、聖霊の働きによって私たちも信仰告白をし、キリストの道、十字架の道に歩むことができるように祈ります。

14Matthew8M 安息日の主であるイエスキリスト

14matthew8m, 安息日の主であるイエスキリスト, 2014年マタイの福音書第8講安息日の主であるイエスキリスト御言葉:マタイの福音書12, 1−21要 節:マタイの福音書12, 「人の子は安息日の主です。」先週、私たちはイエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」をご自分のところに招かれ、休ませてくださることを学びました。そして月曜日には金サムエル宣教師を通して備えられた秋ヶ瀬公園で素晴らしい休みの時間を過ごすこともできました。神様が私たちを憩いの場に導かれ、休ませてくださったことを感謝します。今日は「安息日の主であるイエス・キリスト」を学びます。安息日とはユダヤ教で一週の七日目の土曜日です。キリスト教では日曜日を意味します。これは、イエス様が金曜日に処刑され、三日目の日曜日に復活したことに由来しています。イエス様が復活した日曜日を主日、安息日として守っているのです。イエス様はこの安息日の主であることを宣布されました。その意味は何でしょうか。イエス様の教えを通して安息日の意味、その精神を深く学ぶことができるように祈ります。また、安息日の主であるイエス・キリストはどのようなお方なのかについても学ぶことができるように祈ります。?.安息日の主であるイエス・キリスト, 1−8, 1、2節をご覧ください。そのころ、イエス様は、安息日に麦畑を通られました。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めました。農村では普通にあることでした。私も友達と一緒に麦の穂を摘んで食べたことがあります。惜しかったのですが、私の田舎でもそれ位は許されました。特に聖書には「貧しい人や旅人は、麦畑に入って麦を摘んで食べても良い, レビ記19, という教えがあります。弟子たちは麦畑から穂を摘んで麦を食べることは普通にあることだったのです。でもパリサイ人たちは、その日が安息日であったことに注目してイエス様を攻撃しました。ユダヤ人にとって安息日の戒めは非常に厳しいものであって、いっさいの労働が禁じられます。たとえば、麦の穂を取ったことは収穫です。麦の殻を取ったことは脱穀です。殻を落としたことは振り分けた仕事をしたことになります。弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことは安息日の戒めを何個も破ったことになるのです。そこで、パリサイ人たちはイエス様に「あなたの弟子が安息日にしてはならないことをしています。」と言ってイエス様を非難し、攻撃しました。それに対してイエス様は二つのことを指摘されました。    第一に、イエス様は彼らが最も尊敬しているダビデの場合もひもじくなった時に祭司のほかは食べてはならない供えのパンを食べたことを指摘されました。3、4節をご覧ください。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者達も食べてはならない供えのパンを食べました。」とあります。これは?サムエル21, 1−6にあります。ダビデが青年時代にサウルに追われ逃げて行きました。その間にダビデと供の者は食糧がなくて、飢え死に一歩寸前まで迫られました。すると、ダビデは祭司の家に逃げ込み、食べ物を求めました。すると、この祭司は大胆なことをしました。今手元にパンがないから宮に供えたパンをあげましょうと言いました。それでダビデは神の家に入って、祭司のほか、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたのです。それは供えのパンに関する律法を破ったことになります。それでもダビデは咎められませんでした。彼を罪に定めたことは聖書のどこにも記されてありません。そこで、イエス様はパリサイ人たちに「ダビデが何をしたかを知らないのですか。読んだことがないのですか。」と問い詰めたわけです。イエス様はダビデの事を通して弟子たちを弁護してくださいました。それによって戒めよりいのちが大切であることも教えてくださいました。第二に、イエス様は祭司たちが宮にいる間に安息日の戒めを犯しても罪にならないことを指摘されました。それによって祭司よりも大きい弟子たちの霊的な身分も示唆してくださいました。5,6節をご覧ください。「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」」とあります。宮にいる祭司たちは安息日にも仕事をしました。供えのパンを替え、犠牲の小羊を殺すこともします。注ぎの捧げ物や、穀物の捧げ物をささげることもします。そのような仕事で神聖を冒しても罪になりません。同様に、宮より大きいイエス様と一緒にいる弟子たちが仕事をすることは罪にならないのです。ここで、イエス様は弟子たちが宮にいる祭司たちよりも大きい者であることも示唆してくれました。ところが、パリサイ人たちは、律法も、律法の精神もよく知りませんでした。それは、聖書の教えを表面的な意味だけで捉えていたからです。彼らは「あれはいけない。これもいけない。このようにしなければならない。あのようにしなければならない。」というようなことばかりを言っていました。イエス様は彼らに何と言われましたか。7節をご一緒に読んでみましょう。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者達を罪に定めはしなかったでしょう。」イエス様はホセア書6章6節を通してパリサイ人たちの無知を指摘されました。いけにえは宗教的な熱心を意味します。パリサイ人たちは律法を破る人々を見つけために熱心な人たちでした。彼らは人々を憐れむことよりも罪に定めることに熱心でした。しかし、神様は宗教的な熱心よりも哀れみを好んでおられます。律法の知識を持って人をさばくのではなく、人の状態を理解し、哀れむことです。私たちも人の状態、状況を把握する前に表面的なことで判断し、議論をしやすいです。先週、私たちの定期小会の時間はとても短くなりました。幸いなことです。ところが、教会も集まって教会のわざについて論ずるときにも評論家的議論をしやすいです。そして互いにさばき合い始めた時、教会は崩れます。家庭もさばき合うことによって崩れると、三浦綾子さんを言いました。家族が互いの評論家になった時、家庭の交わりは、もはや存在しないのです。教会も同じです。どうか、私たち一人ひとりがパリサイ人のように人の過ちを見つけ出して批判し、攻撃するのではなく、イエス様のような哀れみの心を持って生きるように祈ります。特に安息日にはひもじくなっている人のことをよく理解し、哀れんでくださるイエス様の御心を学ぶことができるように祈ります。では、安息日とイエス様との関係はどうですか。 8節をご一緒に読んでみましょう。「人の子は安息日の主です。」ここで「人の子」と言うのは二つの意味があります。一つはイエス様がご自分のことを言われる時に代名詞の場合があります。もう一つは人間一般です。ここの「人の子」は両方にとれます。イエス様は安息日よりも大きい、イエス様が上位を占めているという解釈です。ご自分が安息日の主であることを宣言されました。実際にイエス様は安息日を創設された神様です。また、安息日の戒めを与えられた神様です。そして、安息日を創設されたのも、安息日の戒めを与えられたのも人間のためです。そこで、もう一つの意味は、安息日が人の子である人間のためにあるのだということです。つまり、人間が安息日のためにあるのではなく、安息日が人間のためにあるのです。このことは安息日に片手のなえた人を癒されたことによって明らかになっています。どちらにしても安息日はイエス様中心、人間中心になります。安息日は、六日間働いて一日休み、神様を礼拝する日です。もし、人間が六日間働いてから1日を休むことも、神様を礼拝することもしなければ、人間は人間らしさを失ってしまいます。ですから、六日間働いたら一日を休んで神様に礼拝をささげ、賛美をささげるようにしてくださったのです。それによって私たち人間が人間らしく過ごしていけるように安息日を創設し、安息日の戒めも与えられたのです。私たちはよく「忙しい、忙しい。」と言いますが、一日も休まずに過ごしていけるでしょうか。自分を省みる余裕もなく、神様を思う時間もない生活を続けるならどうなるでしょうか。疲れた人、重荷を負っている人として生きるしかならなくなってしまいます。人間として生きることができなくなってしまうでしょう。だから「安息日」は神様が私たちを休ませ、安らぎを与える日であって人間の幸せのためにあるのです。つまり、人が安息日のためにあるのではなく、人のために安息日があるのです。安息日の戒めによって人間を縛るためではないのです。従って私たちは安息日である主日は休み、安息日の主であるイエス・キリストを礼拝する日として過ごさなければなりません。「安息日を守りなさい。」という戒めに縛られるのではなく、「安息日」の意味を考え、心からイエス・キリストを礼拝するのです。そして、イエス様のようにひもじくなっているような人々を理解して哀れみ、助けることも大切です。パリサイ人のように人を攻撃し、責めるようなことを悔い改め、イエス様のように人を哀れみ、助けるのです。そう意味で霊的にひもじくなっている兄弟姉妹たちとの1, 1聖書勉強はとても素晴らしいと思います。私たちが安息日の主であるイエス様と交わり、イエス様を中心に過ごして行きますように祈ります。?.あわれみ深いイエス様(9ー21) 9,10節をご覧ください。イエス様は麦畑を去って、会堂にはいられました。そこに片手のなえた人がいました。片手が使えないことは深刻な問題です。片手が全く使えない時の不便さは大きいでしょう。哀れみ深い人なら、「片手が萎えて大変だなあ、どんなに苦労して来ただろうかなあ。」と思うでしょう。ほんとうは、パリサイ人たちも宗教指導者として片手のなえた人深く哀れみ、助けてあげようとしなければなりませんでした。ところが、彼らは片手のなえた人を憐れむどころか、イエス様を訴え、攻撃する道具にしか見ませんでした。そこで、彼らはイエス様に質問して「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言いました。彼らの質問に対するイエス様のお答えはどうですか。 11、12節をご覧ください。「あなたがたのうち、誰かが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値打ちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」とあります。昔も、今も人は自分のものを大切にします。もし、自分の羊が穴に落ちたら、その日が安息日であってもそれを引き上げるのです。人々は誰でも自分の羊は尊く思います。しかし、羊よりも人間のいのちが大切です。人間は羊と比べられない尊い存在です。人間は神様の形に似せて造られた尊い存在です。イエス様は片手のなえた人も、全世界よりも貴く思ってくださいました。だから、ご自分が訴えられる危険があったにもかかわらず、彼をあわれんでくださいました。 13節をご覧ください。イエス様はその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われました。彼が手を伸ばすと、手は直りました。もう一方の手と同じようになりました。イエス様のあわれみによって彼は癒されて新しい人生を送ることができるようになりました。両手をあげて「ハレルヤ!ハレルヤ!」と賛美することもできるようになりました。ところがパリサイ人たちの反応はどうですか。14節をご覧ください。「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」とあります。高慢なパリサイ人の心に変化は起こりませんでした。むしろ、彼らの心は以前よりもっとかたくなになってしまいました。パリサイ人たちは片手のなえた人の苦しみ、悲しみに同情することも、そのいやしを喜ぶこともできませんでした。むしろ、どのようにしてイエス様を滅ぼそうかと相談しました。イエス様はそれを知って、そこを立ち去られました。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやしました。そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められました。心優しくへりくだっておられるイエス様の姿です。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためでした。18, 19節をご覧ください。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」神様はイエス様の上に神の霊を置き、神の霊によって異邦人に公義を宣べ伝えるようにされました。ですから、イエス様は義務感や事業的な動機から福音を宣べ伝えられたのではなく、神の霊によって福音を宣べ伝えられました。一度も感情的になることがなく、聖霊に満たされて伝道活動をなさいました。争うこともなく、叫ぶこともされませんでした。ではこのようなイエス様はどんな方でしょうか。20、21節をご一緒に読んでみましょう。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」葦は弱いものの象徴です。いたんだ葦はさらに弱いものです。私たち人間の弱さを象徴的に表しているのが、この「葦」なのです。また、私たちの心はロウソクや石油ランプの「燈心」のように弱いです。ちょっとした風が吹いて来ると消えてしまいます。三日坊主と言われていますが、強く決心してもちょっとした風が吹いて来るとその決断は崩れてしまいます。 時々、私たちの信仰の炎も、揺らいで弱くなります。その光は、燃え盛る炎ではなく、試練の大きいときなどは、微, かす, かに点, とも, る灯, ともしび, となる場合があります。しかし、イエス様は、そのような私たちを打ち拉, ひし, ぐことなく、力づけてくださるのです。イエス様は、弱い者を無視したり、見捨てたりはなさいません。弱い私たちをあしらうことなく、理解して支えてくださるのです。, この20節の御言葉に、私たちは、イエス様の愛と労りの思いを感じることが出来ます。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とは、何という恵みでしょうか。私たちのように、肉体的にも人間的にも信仰の面から霊的にも、弱さを持っている者たちです。ところが、憐れみ深いイエス様「いたんだ葦」のような弱い私たちを折れないように労り、強くして下さいます。消えそうになって「くすぶる燈心」のような私たちにも、信仰の炎が燃え上がるようにしてくださいます。そのおかげで私たちは成長して行きます。そして、私たちがそのようなイエス様を見習って行くうちにあわれみ深い人として成長して行きます。できる人ではなくも、できた人として成長して行きます。 ここで、渡辺和子さんの言葉を紹介します。「いつも、いつも、勝っていて負けを知らない人を、私たちは、『あの人は出来る人だ』と評価します。それに対して、私たちが、『あの人は出来た人だ』と言うとき、それは、人間的に円熟した人、包容力のある人、ある意味で負けることの大切さを知り、時に応じて、進んで相手の人に勝ちを、勝利を譲ることが出来る人を言う」と言うことです。そうですね。人格的にすばらしい人を指して、「できた人」というのではないでしょうか。 皆さん!「できる人」になりたいでしょうか。「できた人」になりたいでしょうか。私は、「出来る人」にならなくてもいいと思います。できれば、「出来た人」になって行きたいと思います。そして、「できた人」とはイエス・キリストを学ぶことを通してなれると思います。イエス様は「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」、愛と労りの思いに満ちた御方です。痛んだところに手を差し伸べ、必要ならば触れて下さいます。なえているところを癒して下さいます。, 私たち自身の罪のために暗くなり傷ついている魂に触れて下さいます。私たちの罪と咎を赦して下さいます。そうして、いたんだ葦のように弱い人でも神様の子どもとして下さることによって、新しい存在に生かして下さいます。また、限りない哀れみと愛によって私たちを導かれ、成長させてくださいます。どうか、今週も、このようなイエス様との交わりをもっともっと深めていきたいと思います。私たちが安息日の主であるイエス・キリストのあわれみ深さを学び、それを実践することができるように祈ります。

14Matthew13M  一番偉大な者

14matthew13m , 一番偉大な者, 2014年マタイの福音書第13講一番偉大な者御言葉:マタイの福音書23, 39要 節:マタイの福音書23, 11「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」みなさんは、演劇『泥かぶら』, 真山美保作・演出)をご存知ですか,  私は、まだその演劇を見ていません。先週、ある本を読みながらその存在を知って調べてみました。この作品は1952(昭和27)年の初演から国内外に7, 000回以上も上演されており、一千万人以上の人が観ました。そこで、私は、そのストーリーを読みました。皆さんに紹介します。昔、ある村に顔の醜い少女がいました。孤児で、家もなく、森の落葉の中にもぐり、橋の下に寝る生活をしていました。子どもたちから「泥かぶら」と呼ばれていました。石を投げつけられ、唾を吐きかけられ、いじめられていました。ある日、彼女が「美しくなりたい!」と叫んでいるところへ旅のおじいさんが三つのことを教えてくださいます。「自分の顔を恥じないこと、いつもにっこりと笑っていること、人の身になって思うこと」です。彼女は、激しく心を動かされました。と言うのも、それらは、今までの自分と全く正反対の生き方だったからです。でも、おじいさんの言葉を信じた彼女はその通りに生き方を始めます。自分の顔を恥じないでニコニコしながら人のために働きました。しかし、急に態度が変わった泥かぶらを見て、村人は不審に思うばかりか、あざけり、ののしりました。ある時は友達の罪を着せられて何度も何度も鞭で叩かれ、ひどい言葉を浴びせられました。それでも泥かぶらは最後まで耐え忍びました。村人のために笑顔で献身的に働きました。次第に村人にとってかけがえのない存在になっていました。ところが、そんなある日、貧しさゆえに一人の少女が人買いに買われていく事件が起こりました。「泥かぶら」は身寄りのない自分が身代わりになることを申し出ました。そして村人やその少女の家族の止めるのもきかず、人買いに連れられて村を出て行きました。こうして、売られて行く泥かぶらと人買いとの都への旅が始まります。そんな時でも泥かぶらは、あのおじいさんの三つの言葉を忘れませんでした。ですから、旅の途中、毎日毎日、何を見ても素晴らしい、何を食べても美味しいと喜びました。どんな人に会っても、その人を楽しませようとします。そんな泥かぶらの姿に人買いは激しく心を揺さぶられます。ああ、自分のこれまでの生き様は何だったのか…。月の美しい夜でした。人買いは森の木に書き置きを残して消えて行きました。「私はなんてひどい仕事をしていたのだろう。お前のおかげで、私の体の中にあった仏の心が目覚めた。ありがとう。仏のように美しい子よ」とありました。泥かぶらはその時初めて、あのおじいさんが自分に示してくれた言葉の意味を悟り、涙するのです。山中の月の光の中でしみじみと語る「泥かぶら」の顔が美しく輝いていました。…というお話です。何があの泥かぶらをそんなに素晴らしく美しい人に変えたでしょうか。それは教えられた言葉を自分と闘って実行したからです。今日の御言葉でイエス様は「教えるだけで、実行しない者」は偽善者, であることを教えておられます。さらに、イエス様は偽善者の罪を指摘され、「わざわいだ」と厳しく責めておられます。説教者にとって大変厳しいメッセージです。でも、避けられません。皆さんと共に主の教えを受け入れ、実行する人に変えられて行きたいと思います。私たち一人一人が本文の御言葉を通して一歩でも二歩でも一番偉大な者に近づいて行くことができるように祈ります。1, 3節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」とあります。律法学者、パリサイ人たちはモーセの座を占めていました。つまり、彼らはモーセを通して与えられた旧約聖書の律法をよく教えていました。教えの内容は正しかったのです。しかし、イエス様がご覧になると、彼らは自分たちの教えを実行していませんでした。彼らは建前では立派な聖書先生として聖書を教えていながら、実際の生活でそれとは違う行ないをしていたのです。だから、弟子たちは彼らの行ないをまねてはいけません。では、具体的に彼らのどのような点をまねてはいけませんか。4, 10節をご覧ください。彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしませんでした。実行することよりも見せることのために励んでいました。たとえば、経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうでした。経札は、革製の小さな箱で、その中に申命記6:4, 9などの聖句を書いた紙切れを入れたものです。本来は、このような経札を作り、身につけることによって経札を見るたびに御言葉を思い起こし、それを行なうためでした。ところが、彼らはそれを広くし、衣のふさを長くして人に見せるためのものにしていたのです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで先生と呼ばれることが好きでした。彼らは上座に座り、先生と呼ばれる人が偉いと思っていました。だから、彼らは偉いことはしないくせに偉そうにしていました。それで、モーセの座を占めている彼らの教えが民たちに受け入れられませんでした。偉くもないのに、偉そうにしている人が何かを教えると、人々の反応はどうなるでしょうか。その教えさえも受け入れたくありません。むしろ「自分は守らないくせに何を教えていますか。」と言い返したくなるでしょう。でも、イエス様の弟子たちは教えている人の態度が良くなくても、その教えを受け入れなければなりません。彼らの言うことはみな、行ない、守らなければなりません。そのために本当に、謙遜な人にならなければなりません。謙遜になると、教える人の態度に関係なく、御言葉を受け入れることができます。そこで、イエス様は言われます。11、12節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」とあります。偉大な人は多くのことを知っていて教える人ではなく、仕える人だということです。本当に偉大な人は経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりして偉そうにして高ぶる人ではなく、自分を低くする人です。そのようにへりくだっている人は、たとえ高ぶって教える人がいてもその人の行ないをまねることなく、その教えを行ない、守ります。先ほどの「泥かぶら」と呼ばれていた少女のように、旅のおじいさんからの教えであっても実行しようとします。高慢な人を見てつまずく人は、牧師や伝道者の欠点を少しでも発見すると、もはやその人の説教は聞こえなくなるでしょう。人の行ないを見ているので説教者を軽んじて聞こうとはしなくなるのです。学校でも、先生が嫌だからあの科目は好きじゃないという生徒がいます。そういう生徒は自分が損します。そうすると成長しなくなるでしょう。偉大な人になることはできません。しかし、仕える人、自分を低くしている人は誰からでも学びます。自分と闘いながら素晴らしい教えを実行して行きます。特にいのちの御言葉を心に刻み、牧師や先輩のクリスチャンの行ないにつまずきません。謙遜に教えられた御言葉を実行します。それによって成長します。一番偉大な人に成長して行きます。イエス様は神様ですが、少年の時代から謙遜に学んでおられました。ルカ2章46, 47節を見ると「イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるの見つけた。聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」とあります。イエス様は同時の教師たちの行ないを見て判断するのではなく、その話を聞いたり質問したりしながら謙遜に学んだのです。また2章の51節には「両親に仕えられた」ことが記されてあります。イエス様は少年時代から両親に仕え、人々に仕える生涯を過ごされました。するとイエス様はますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神様と人とに愛されました, ルカ2, 。使徒パウロが記しているとおりに、イエス様は「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました, ピリピ2, 」イエス様はご自分を低くする謙遜と仕える生活を通して最も偉大な人生を過ごされたのです。ですから、私たちもへりくだって人に仕える模範を示してくださったイエス様のように生きる生活が求められています。イエス様のように、自分を低くして人々に仕える生活をしなければならないのです。そうする時に私たちは成長して偉大な人生を生きることができます。しかし、立派なことを教えても自分はその教えを行ない、守ることがなければどうなりますか。リーダーには自分の行ないに対する責任がもっと重いでしょう。そこでイエス様は当時の宗教指導者であった律法学者やパリサイ人たち」に向かって厳しく言われました。何度も「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」と言って彼らを警告して言われました。13‐36節では、イエス様が何度も繰り返して「わざわいだ。」と責めておられます。その理由は何でしょうか。第一に、彼らは天の御国をさえぎっていたからです。律法学者、パリサイ人たちは人々を天の御国に導く責任を持っている人々です。ところが、彼らは御国に自分もはいらず、はいろうとしている人々をも入らせませんでした。それは彼らが自分たちも行わない律法を人に押し付けていたからです。第二に、彼らは哀れなやもめの家を食いつぶしていたからです。そうしながらも見えのために長い祈りをしていました。そうして、哀れな人の献金をむさぼっていました。こういう偽善のために彼らは人一倍ひどい罰を受けます。第三に、彼らは熱心に異邦人に伝道しましたが、それは改宗者を自分より倍も悪いゲヘナの子にしていたからです。改宗者は、生来のユダヤ教徒より熱狂的になり、それだけひどいパリサイ主義の奴隷になってしまったのです。第四に、彼らは神殿より黄金を、祭壇より供え物を尊んでいたからです。イエス様は黄金より神殿を、供え物より祭壇を尊ばれるお方です。何よりもイエス様は、神様ご自身を尊ばれました。神様ご自身を忘れるなら、神殿も祭壇も、まして黄金も供え物も、その意味を全く失うことになるからです。そこでイエス様はお金を愛している彼らを「愚かで、目の見えぬ人たち」だと言われました。第五に、彼らは律法の精神を捨てたからです。十分の一のささげ物は、地の産物や家畜の十分の一を聖別して神様にささげる制度です。神殿で奉仕する祭司やレビ人の生活を支え、貧しい人々に施すために用いられました。パリサイ人たちも、モーセの律法が命じていない「はっか、いのんど、クミンなど」の庭の草類まで、その十分の一をささげるように教えていました。それによって、律法をよく守っていることを誇りました。しかし、彼らは律法の目的であるはるかに重要なものを忘れていました。つまり、正義もあわれみも、誠実もおろそかにしていたのです。それはちょうど、「ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいる」ようなものです, 。ぶよは汚れた虫で、それが体内に入らないように、彼らは布でこしてぶどう酒を飲みました。形式的にはきよい心に汚れが満ちていたのです。第六に、彼らの外側と内側が違っていたからです。彼らは人の評判を気にしていたから表面的にはよく信仰生活をしているように見えました。しかし、内側はお金と権力と名誉に対する貪欲と淫乱な考えでいっぱいでした。このように、外側と内側が違い、建前と本音が違う生活からさまざまな問題が生じていました。第七に、彼らは外側では正しいと見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいになっていたからです。彼らは内側がきたないので、それだけ外側をきれいに見せようとしたのです。第八に、彼らは神様が遣わされた人々を迫害していたからです。彼らは「預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言っていました。しかし、彼らの心も先祖と同じように反逆に満ちていました。その証拠に、彼らは今、預言者たちが預言した通りに神様が遣わされたメシヤを拒否し、殺そうとしています。そうさせたのは、まさに彼らの偽善の罪でした。こうして彼らは先祖の罪の目盛りの不足分を満たしていました, 。以上を通してみると、偽善の罪が何度も指摘されています。それは、神様を無視していることの現われだからです。偽善の罪は、神様を神様として信じない態度です。ゲヘナの刑罰を逃れることができません。だからイエス様は、「わざわいが来ますぞ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」と繰り返し言われたのです。それにかかわらず彼らが悔い改めなければどうなりますか。33, 36節をご覧ください。イエス様は、彼らに対する審判を告げられます。彼らは先祖と同じく迫害の罪を犯し、ゲヘナの刑罰を逃れることができなくなります。こうして旧約聖書の初めから終わりまでの「地上で流されるすべての正しい血の報復」が彼らの上に臨むのです, 。最初から最後まで義人を迫害したイスラエルの歴史は、その罪の目盛りがこの時代に満たされ、エルサレム滅亡の悲劇的結末を見ます。これらのことを思われるイエス様のお心はどうだったのでしょうか。37, 39節をご覧ください。イエス様は「ああ、エルサレム、エルサレム」と、涙の叫びを発せられます。イエス様はエルサレムを見捨てることなく、めんどりがひなを翼の下に集めるように、幾たびも集めようとされました。イエス様は深い愛を持って最後の最後までエルサレムの人々を守ろうとされたのです。結論的にイエス様は律法学者、パリサイ人たちの偽善を咎められました。それほど、神様は真実に生きることを願っておられるということでしょう。神様は真実に、謙遜に御言葉を実行することを望んでおられます。もし、自分も知らずに偽善者になっているなら、真実に自分の罪を悔い改めることを願われます。私たちが謙遜になって自分の罪を悔い改めることによって心をきよめることができるように祈ります。律法学者やパリサイ人のような宗教指導者たちの行ないの良し悪しを問う前に、御言葉を聞いて行なう生活ができるように祈ります。マザーテレサが言われました。「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかも知れないが、この一滴なしに大海は成り立たないのですよ。」さらに、「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つ一つに、大きな愛をこめることはできます。」どうか私たちがイエス様の教えを謙遜に受け入れ、小さなことの一つでも実行して仕える生活に励むことができるように祈ります。そうしているうちに一番偉大な人に成長し、キリストの御姿にまで変えられて行きますように祈ります。